投稿者「misakimichi」のアーカイブ

大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間 ( 佐賀県 )

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大詫間地先の荒籠1・2・3  佐賀市川副町大詫間

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。県道18号新田大橋手前から筑後川河口の三角州に入る。南半分が佐賀市川副町大詫間である。大詫間も江戸時代から350年間・50回もの干拓によって作られた。なお、三角州の北半分は福岡県大川市大野島地区。
大詫間の筑後川側には、地元民の話によると5つの荒籠がある。上流から順に河口まで1〜5と言うらしい。私の写真は、上流からそれらしきものを写してきた。リストデータがどれを指すのか、わからないので、筑後川河川事務所の文献・写真と照合をお願いしたい。

大詫間地先の荒籠1 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約100m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠2 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約110m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(中型) 2 B

大詫間地先の荒籠3 おおだくま
佐賀市 筑後川・最下流(右岸) 石水制 長約160m 江戸中期 筑後川河川事務所 保存状態良好 筑後川の荒籠群(大型)/最下流に位置 2 B

7〜15枚目は、2015年3月25日に大詫間を再訪した荒籠の写真。上記に対応する3つの大型荒籠があるので、これだろう。所在図参照。

六十丁堤防  柳川市大浜町 ( 福岡県 )

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六十丁堤防  柳川市大浜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。県道766号によりむつごろうランドの方へ向かう。途中の中ノ切交差点先、大浜町「橋本橋」左右に六十丁堤防跡を確認できる。柳川地方干拓の歴史などは、むつごろうランドの展示資料。

六十丁堤防 ろくじゅっちょう
柳川市 干拓堤防 (土堤防→石堤防) 天明年間(1781〜88)→明治7に石造化 市教委 明治7年の台風で決壊→柳川城の石垣石を用いて修復 旧堤防の名残りを一番よく留めている(近代まで引き続き使用されたため) 3 C

六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町 ( 福岡県 )

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六騎・矢留大神宮の参道橋  柳川市矢留本町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街地。県道714号上宮永交差点から矢留小学校へ向かう。学校裏と白秋詩苑地との間に六騎・矢留大神宮の参道橋はある。最後の写真は、近くの矢留小前橋(仮称)。

六騎・矢留大神宮の参道橋  ろっきゅ、やどみ
柳川市 六騎・矢留大神宮 石桁橋 長2.6m(G),幅1.85m 文政3(1820) WEB 保存状態良好 高欄用石梁+6枚の石梁 1 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,335 大神宮参道橋

柳川市矢留本町
橋長:2.6m  橋幅:1.85m  桁6列  単径間桁橋
架設:文政3(1820)年

六騎・矢留(やどみ)大神宮
「1185年壇ノ浦で敗れた平家の落人は、肥後路へ逃避しました。しかし、源氏の追求は厳しく、落武者6名−難波善長、加藤藤内、浦川天ヶ左衛門、鳴神藤助、是永多七、若宮兵七−は、柳川沖端へ移り住み、漁業をはじめたといわれています。当時の人々は、平家の身分の高い人達として、6名の騎馬武者の意味で“六騎”と称していました。
こうして“六騎”が、沖端漁業の基礎を築いたので、漁業者のことを“六騎”と呼ぶようになりました。
また、産土神(氏神)をまつることに気づいた“六騎”の1人は伊勢に参り、半鏡を授かった。するとまもなく、この矢留の地から半鏡が発見されたので、伊勢大神宮から授かった半鏡とつなぎ合わせてみると、不思議なことに一致し、これは大神宮様のお授けになったものであるとして、天照大神を奉祀したのが、矢留大神宮です。時は1395年11月15日でした。毎年11月15日、矢留大神宮、六騎神社の大祭がおこなわれます。」

右手は矢留小。
親柱 文政3年。

№2,338 矢留小前橋(仮称)

柳川市矢留本町
橋長:6.3m  橋幅:2.3m  桁厚:22cm   3径間桁橋
矢留小前に架かっています。
向こうは白秋公園。

下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町 ( 福岡県 )

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下宮永玉垂宮の弐之橋  柳川市下宮永町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市の南部。県道766号長田病院手前下宮永交差点から東宮永小学校の方へ入る。

下宮永玉垂宮の弐之橋 しもみやながたまたれ
柳川市 下宮永玉垂宮 石桁橋 長2.1m(G),幅2.6m 天保2(1831) WEB 橋面舗装され、石橋のイメージなし 小規模な石桁橋 3 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,835 下宮永玉垂宮弐之橋

柳川市下宮永町
橋長:2.1m  橋幅:2.6m  桁8列
単径間桁橋

壱之橋は、残念ながらRC製でした。
参道を進み、神門の前に弐之橋。

三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末 ( 福岡県 )

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三橋町久末の里塚石(一里)  柳川市三橋町下久末

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市街国道208号下百町交差点から瀬高・南関への県道443号に入る。2kmほど進んだ三橋町下久末の「一里石」バス停のところに、説明板と建つ。

久末の里塚石(一里) ひさすえ
柳川市 <瀬高街道> 一里石 高約1m 1630年代以降 市教委/現地解説板 /WEB(みさき道人) 整備、ほぼ原位置 (正面)「□□□り 一里」/柳河藩が田中家(60-20)から立花家に替わり、石高が32.5万石から10.9万石に分割縮小された後の地域に一里石があるため、俗に「田中吉政が、柳川城の辻の門を起点として矢部村まで一里ごとに立てさせた」というのは間違い 2 C

今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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今古賀の常夜灯の道標  柳川市三橋町今古賀

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を70mほどまっすぐ進む。内村宅の正門左奥にこの常夜灯が見える。下部は埋設しているが、地名を刻む。

今古賀の常夜灯の道標 いまこが
柳川市 <三池街道> 石道標(常夜灯) 嘉永3(1850) 市教委/WEB 移設(個人宅) 灯籠型の常夜灯/「左瀬高通り、右三池通り」 3 C

平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀 ( 福岡県 )

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平浄庵と板碑  柳川市三橋町今古賀

現地説明板は、次のとおり。柳川市三橋町の国道208号今古賀バス停先。ジョイフル柳川店の南側の細い道を50mほどまっすぐ進み、左手に入ると今古賀コミュニティセンターがある。この前に板碑が残る。

平浄庵と板碑
平浄庵は、柳川城主蒲池鑑盛入道が高畑に居た時に創立されました。鑑盛は天正六年(1578)に日向(宮崎県)耳川の合戦で戦死した後、当庵に葬られました。その後、僧紅誉によって中興され、瑞松庵の末庵となりました。釈迦堂は蒲池因幡守鑑憲の廟所でした。
ここ平浄庵の境内には、2つの板碑があります。高さ70cmの法華経千部の板碑には、「時永正十五年(1518) 大乗妙典一千部(梵字キリーク)三月吉日」と銘文が刻まれています。一方、高さ150cmの乙鶴姫(鑑憲の妻)の板碑には、「天文八年(1539)己亥十一月廿四日誌施」と銘文が刻まれています。
平成13年3月  三橋町教育委員会

豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原 ( 福岡県 )

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豊原の里塚石(一里)  柳川市大和町豊原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。柳川市大和町の国道208号沿い。柳川市立豊原小学校の正門横に建つ。

豊原の里塚石(一里) とよはら

柳川市 (豊原小学校正門前)<三池街道> 一里石 高90㎝ 1630年代以降 市史跡 市教委/WEB 移設 「柳河より 一里」 2 C

東山橋  大牟田市大字今山 ( 福岡県 )

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東山橋  大牟田市大字今山

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。大牟田市の東部。県道93号大牟田高田線田町交差点からマミーズ後ろ側の市道へ入ると、すぐ堂面川に架かる。

東山橋  ひがしやま
大牟田市 一般道/堂面川 石アーチ橋 (凝灰岩) 長6.5m,S4.5m(A),幅2.2m 幕末? 市教委 両側にコンクリート・アーチ/下から覗くと石アーチと分かる 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,331  東山橋

大牟田市大字今山
堂面川
橋長:6.5m  橋幅:2.2m  径間:4.5m  拱矢:2.7m
陣屋眼鏡橋の約300m上流

上流側 一見RC橋です。
右岸側 中央部分は石橋です。

岩本橋  荒尾市上井手字岩本 ( 熊本県 )

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岩本橋  荒尾市上井手字岩本

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,434 岩本橋(架設当初名:上井手目鑑橋)

荒尾市上井手字岩本
熊本県指定重要文化財
関川
橋長:32.7m  橋幅:3.4m  径間:12.6m  拱矢:5.9m
国道208号線、荒尾市役所前から県道314号線へ。5.4Km先県道29号線へ左折、1.2Km先左手関川に架かっています

岩本橋
「岩本橋は関川に架けられた石造のアーチ橋である。川幅が広く岸も低いので一つのアーチにすれば橋の高さが異常に高くなるところより、二つのアーチの設計を石工たちは考えたのであろうが、そうすると川の中央に基礎がくるので川の流れを阻むし、橋の根元が洗われて危険であった。そこで、石工たちは橋脚に水の抵抗に強い小岱石を運び、壁石を壊さないように「水切り」を上流と下流に設け水流をスムーズに両側に分けるように工夫した。アーチは厚さ60cm余りの43個の輪石で組み、その上には整然と切石を積みあげ水平床にし、人や車の往来を便利にするように造り、床の左右に高欄を設ける。高欄は地床に沿って地覆を捉え束石をたて笠木を載せた素朴なものであろうが、それらの数か所に浮彫装飾が施されている。その中には八弁及び十六弁の菊花がみられる。
この工事の石工や竣工年月日は瞭らかではないが、熊本県八代郡東陽村種山の石工橋本勘五郎が明治4年頃工事責任者となって架橋したのであろうと古者はいっている。勘五郎は明治6年3月上京し内務省土木寮に勤務し宮城二重橋等を架設し、肥後名工の名声をたかめた。勘五郎が矢部の通潤橋架設の際用いた橋枠の模型をみると厚さニ寸、幅八寸の板で橋の形の枠組みを大工が作り、この枠の中に輪石を積みこみ最後の要石をはめこんで枠を外すと奇妙な音をたてて橋がしまる。もし橋が壊れる場合工事責任者は切腹するのが橋かけの不文律であった。岩本橋をみるとき当時の命がけの仕事振りが窺われる。
昭和37年7月4日397mmの集中豪雨が橋を襲い橋の一部が破損したので道路改修の一環として新岩本橋を新設するとともに、分水路を開鑿し橋を災害より守り、昭和60年より三カ年計画で関川環境整備事業がなされ観光資源としての価値も高めた。」
上井手上子供会  荒尾市教育委員会