松森神社のクスノキ群  長崎市上西山町

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松森神社のクスノキ群  長崎市上西山町

松森神社は、長崎市上西山町にある。諏訪神社のすぐ近くである。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  松森神社のクスノキ群    指定年月日 昭和49年6月18日  所有者 松森神社
クスノキの巨樹は、地上まもなく数本の支幹に分かれ、支幹はさらに大小の枝を出して、雄大な樹形をつくる。そのためか、クスノキの巨樹は独立樹が多く、巨樹の群生はあまり見当たらない。
松森神社には、境内を中心とした狭い地域に、7本のクスノキが群生している。最大のものは、胸高幹囲7.80m、樹高25m、東西30m、南北30mの枝張りは、球状の樹形をつくり、盛り上がった根張りは雄大である。樹齢は300年をこえると思われる。
長崎市教育委員会 (平成元年3月設置)

善長谷教会上の「ゆうこう」の木  長崎市大籠町

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善長谷教会上の「ゆうこう」の木  長崎市大籠町

柚の新種「ゆうこう」については、別項の寄稿、川上正徳氏「長崎学とゆうこう」により紹介している。実は優しい香りと筋の山があるのが特徴。川上氏は「ゆうこう」の木が、大籠・土井首・東樫山・出津・佐賀県馬渡島などキリシタンの地に多く見られ、木の分布を丹念に現地調査している。

そのうち、今のところ一番大きい木は、大籠町善長谷カトリック教会の上にあるとのことで、8月27日写真撮影に行った。ルルド奥の竹林内とその上方の道脇にそれぞれある。
ルルドのは竹に負けず背が高いが、辺りは竹林のため樹勢が衰えている。道脇のは、根元から2本に分かれ、太いのは幹回り1m以上、高さは8mぐらいある。手前の枝に青い実をつけていた。外に教会から左へ行った最奥の民家の下にも数本まとまってあるとのことであった。

「ゆうこう」は珍しい木なので紹介した。近くの「善長谷開拓碑」(別項)の回りにエノキやタブの大木があった。教会のシルエットが美しかった。

(追記 平成20年1月14日)
現地を再訪する。実が黄色い写真。ルルドのは実が3個しかなかった。上の道脇のは手前枝の小木のみ成っていた。最後の3枚は教会左上の奥の方畑地斜面に立つ木。たわわに実っているが、根元を見ると大小3本が寄り添った木であった。

鹿尾川遡行

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鹿尾川遡行

平成19年8月26日(日)、涼を求め近場の鹿尾川を遡行。参加11人。土井首バス停から鳴滝を見物し、鹿尾ダム堰堤先の橋脇から沢に入る。1週間くらい前から雨が時々降り、今朝も降ったので、水量はほどほどにある。

この川は大きな滝はないが、上部は高度を一気に上げるので、危険な登りとなり、ルートの取り方に気を使う。初めて沢登りする人が多く、なるべく登山靴が濡れないようにして、2/3ほど沢を登ったところで昼食にした。

あと1時間くらいかけて熊ヶ峰の登り口となる鹿尾河原に着いた。熊ヶ岳は次回に残し、植林地の河原でゆっくり時間を過ごし、帰りは川沿いの西尾根山道を下り、土井首へ戻った。沢の途中にダイヤランドや岩屋山方面がよく見え、高度を感じるところがあったはずだが、今回は気づかなかった。植林の木立が伸びたせいかも知れない。

万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

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万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

長崎文献叢書第一集第三巻「長崎名勝図絵」(長崎文献社昭和49年刊)の241頁、「茶臼山」の説明は次のとおり。同書は文化・文政年間の執筆であったとされる。

284 茶臼山  俗に頂守山(ちょうすだけ)という 長崎の北にある。金山と続いている。山頂は二つ盛り上がった形をしており、北のを雌頂守、南のを雄頂守という。雌頂守の上に、伊勢大神宮祠があるが、いつ頃から祀られたものかは、判らない。雄頂守は俗に風頭というが、東にも風頭山があるので、こちらを女風頭、むこうを男風頭という。この南に低くて平らな山がある。奇岩怪石が露出しているが、中に屏風を立てたような大石がある。これは木庵和尚の書いた石穀山の三字を彫ってあったが、今は磨滅して読めなくなっている。最近望呉山の三字を彫ってあるが、誰の書なのか聞いていない。山の西麓を浜原(はまびら)という。…

「望呉山」碑のある場所の山は、立山の「ホテル長崎」の左。最近、老人ホーム「プレジールの丘」が建ち、その赤い建物裏となる。この「望呉山」碑については別項ですでに写真を紹介しているが、私がそのとき確認を忘れていたのは、屏風を立てたような大石の「望呉山」の三字は、はたして木庵和尚「石穀山」の字跡を削って彫られているのかということである。

「長崎名勝図絵」の記述はいろいろ考えられるので、また再確認に大石を見に行った。写真は上のとおり。近くに同じような屏風を立てたような大石はないし、「望呉山」の刻面はたしかに薄く丸く削った跡に彫られている。「石穀山」の字跡はもはやまったく確認できない。碑の裏面も考えられるが、ただの平面で無刻だった。

なお、長崎市立博物館「長崎の史跡 Ⅲ(歌碑・句碑・石碑)」によると、この碑のある山は「万寿山」といい、新しい「望呉山」の字は「鼓缶子」が刻んだことから望呉山と呼ばれたとされている。たしかに左の脇字に「巳未二月鼓缶子題」と刻んである。
金比羅山頂上の神社上宮右横の大岩に彫られている同じ木庵和尚書「無凡山」の字も、ほとんど消えかかって見にくいものとなっている。

長崎街道脇に見る電話線標石

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長崎街道脇に見る電話線標石

長崎街道の日見峠新道が下りにかかり、山道の坂道を向井去来碑のある芒塚までくる間に、道脇左手に標石を間隔をおいてところどころに見る。頭部には赤ペンキで「↓」が塗られている。多くは土や草つきに覆われており、何の標石かわからない。日見トンネルの東口(梨子の木茶屋跡)に出て、さらに先へ日見の方へ街道の道をたどってみた。

スズキオート長崎の下となる坂下公民館手前の車道カーブのところに、その新しい標石があった。15cm角、高さ25cmの石柱。「↑ 昭和41.4」電話局のマークあり、その下に「電話線」とあり、別面には「直下」とあった。日見の中心街へ下るまであと3本見た。

この標石は、むろん近年の電話回線が地下に敷設されていることを示すものだが、私が興味をおぼえたのは、今でも電信・電話に関する基本幹線が長崎街道の日見峠越えをしているのではないだろうかということである。
次は、昭和34年発行「長崎市制六十五年史(後編)」182〜183頁の記述。

2 内国電信  (一)明治・大正時代
長崎電信局の開設は全国的にみて非常に早い。すなわち、わが国最初のの公衆電報取扱いは明治二年(一八六九)十二月東京・横浜両地間に始められたが、翌三年早くも長崎伝信局が設置(位置不明・民部省管轄)されている。以下長崎電信局にかんする局舎・回線その他の変遷の概略を述べてみよう。
明治三年(一八七〇)八月—横浜・長崎間に国内最初の長距離回線工事が起工され、翌四年八月東京・長崎間に陸線架線工事が着工された。
明治六年(一八七三)二月—東京・長崎間一・二番線が同時に着工し、その沿道に順次電信局が開設され、赤間関・神戸・大阪・京都・彦根・岐阜・名古屋・静岡・横浜・東京市内に通信連絡の途が開かれ、長崎松ヶ枝町大北電信会社屋の一部に「長崎電信局」を設け、同年四月二十九日から英国輸入のシーメンス・モールス印字機を使用して東京・長崎間に電信取扱いを開始した。なお、中国・九州沿道の各電信局は明治六年十月一日から開局されている。…

一方、外国電信は明治三年(一八七〇)政府がデンマーク国大北電信会社に対し、長崎・上海線および長崎・浦塩線の陸揚げを許可し、これによって外国電報の取扱いが開始された(181頁)。
長崎は、わが国に於ける外国・内国電信の最初の拠点だったのである。

御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

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御船蔵町にある「死刑場ノ馬込」標石

御船蔵町橋本治郎氏から「死刑場ノ馬込」と刻んだいささか珍しい標石があると聞き、平成19年8月22日現地を訪れた。場所は御船蔵町。国道に面した天理教肥長大教会本殿奥の高台の今は草地となっている敷地内。橋本氏は同教会長である。

この標石は、刻面にあるとおり個人が建てたもので、取り立てて由緒のある石でないが、明治時代のものらしく、同地の数奇な運命をものがたっており、時代が経つにつれ放っておいては偲べない標石となっている。教会の方が毎日、水や花を変えて弔っている。
標石は切り取った崖面の前にある。17cm角、高さ70cm位の石柱。正面「死刑場ノ馬込 右(?)タル法塔様モ参リ被下度」、左面「長崎市東中町 中島ノイ建」と刻んでいる。

この地のことは、昭和13年発行「長崎市史 地誌編神社教会部下」515〜516頁、同教会の所在の項に次のとおり記されている。

此の地は幕府時代に於ける死刑場なる所謂西坂と称する部落の一部で、浦上街道の基点に当り嘗て禁教時代には有名なる二十六聖人を始めとし数百の切利支丹や南蛮船乗組員やが斬罪に処せられ、引き続ける二百年間に幾多の罪囚が刑場の露と化せし地で、維新後も道路の並木は日光を遮り梟鳥の啼声に転々寝覚を寒からしめたものであるが、当教会設立後は全く旧時の面影を脱し人家櫛比せる清区と化した。
当教会敷地は旧浦上街道の南側下部に当り、茶臼山を背景にし、港湾埋築地及び稲佐山を前面指顧の間に展開し、丘を平げ巌を斫りて殿堂を構へ石甃を施し結構布置頗る宏荘である。

以下、沿革に開墾の大苦労が記されている。明治45年5月に工事起工式、大正4年6月に神殿等落成報告祭を執行している。この標石ももともとの位置ではなく、再三、移された。本来はこの崖の右上にあったようで、供養の法塔がそこにあったと伝えられている。現在、「二十六聖人殉教地」とされている西坂の丘に続く丘地である。

なお、HPによると、平野恵子氏製作の長崎歴史再発見サイト「長崎微熱」があり、2007.3.8記事「西坂刑場はもう少し北にあった」にこの標石が紹介されている。

「陸軍所轄地」の標石が浜平1丁目に残っていた

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「陸軍所轄地」の標石が浜平1丁目に残っていた

浜平1丁目1街区角の路地に陸軍の古い標石があると、御船蔵町橋本治郎氏から話を聞き、平成19年8月22日現地を訪ねた。場所は坂本外人墓地の上を立山へ行く車道の中間くらいに、中央タクシー本社と浜平中央ビルが建つ。ビル先から銭座へ下る石段があり、下ったちょうどビル敷地の南西端となる道角にこの標石があった。

16cm角、高さ80cm。刻面は1面のみ「陸軍所轄地」。えらく古めかしい。当時の軍施設の境界柱と思われる。ビルの敷地沿いに一周すると、すぐ左上の石段脇に傾いた無刻の同じようなこれはコンクリート柱があった。

実はこのあたりに「長崎要塞第二地帯標」が建っていた地図資料があり、昨年調査して研究レポートの第2集149頁で報告している。その報告は次のとおり。「中央タクシー」あたりと記載しているが、原爆中心地近くで被害があり、ほとんど標石類も残っていないと思い、実地確認をよくしてなかった。

2−G 銭座町か
浦上駅をはさんで、2−Eと斜め対面となる。金比羅山かと考えたが、次の風頭町からは県立東高の背後ピークしか見えない。ここは今水道タンクや多目的広場があり、戦時中は砲台や防空壕があった。しかし、地元の昔を知る人の話は、標石をこの金比羅山一帯で見たことはないと言う。
かえって銭座町の変電所や中央タクシーあたりに明治砲台の赤レンガ兵舎跡があり、原爆後、農地解放で畑となって今中央タクシーになっているらしい。位置的にその可能性は高い。

ところで今回見つかった「陸軍所轄地」の標石。少し谷間にあり、原爆でも倒壊しなかった。しかし、上半分は熱線を浴びているような形跡があり、少し黒ずんでいるような感じがする。被爆遺構としてリストアップされてないなら、詳しい調査をお願いしたい貴重な標石と考える。

山王神社の大クス  長崎市坂本2丁目

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山王神社の大クス  長崎市坂本2丁目

被爆の片足鳥居で知られている山王神社は長崎市坂本2丁目にある。被爆クスノキもここにある。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定天然記念物  山王神社の大クス   指定年月日 昭和44年2月15日

この2本のクスノキは、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで市内にあるクスノキの巨樹の一つである。ともに昭和20年の原爆で主幹の上部は折れたため、樹高は10メートル内外であるが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成している。原爆の影響で一時落葉し枯木同然であったが、次第に樹勢を盛りかえし今日に至っている。
長崎市教育委員会

猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

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猿岳(秋葉山)の石造物  鈴虫岩・岩屋・石室・石祠

猿岳は小八郎岳の東南尾根にある。市街から僻遠な山で、バス便は茂木回りにより千々まで来ているが、便数が少なく、山歩きには敬遠されているが、なかなか良いところである。

再三の引用となるが、まず概略理解のため、故臼木寅雄氏稿「千々川遡行」(長崎岳人会「足跡」No.13 1969.12発行)の6頁から次のとおり。

小八郎岳の東南尾根、秋葉山(三〇〇米)の岩崖の上には秋葉権現、猿田彦大明神を祭るので猿岳さん詣りと称して近郷の信仰が厚い。千々から尾根通し上り一時間、下り四十分の処。一〇〇米ばかり下った稍平らな肩の西端の岩屋に気骨の強いお爺さんがいる。当年七二才。神に奉仕してもう三〇年もこゝに住いしている。この脇に捨身滝と云う立派な滝があり、こゝで水垢離修行が行われる。斯うした処からこの川を猿岳川と云い塩釜神社の西側で千々川本流に落合っている。

この稿は昭和42年10月の記録。もう40年経つ。今は千々峠(乙女峠)まで行く林道が干藤トンネル先から上り、約10分ほどの大カーブ地点で(8月現在、災害工事中でこの先通行止)カーブミラーのあるガードの脇に「猿岳さん詣り」の山道入口がある。すぐの尾根の先に鈴虫岩(最後の写真では中央下に写っている)はあり、片道5分ほどで往復できる。
道は山腹を横へはってさらに15分ほどで石室と草地地点に着く。当時ほどなく死んだ爺さんの住んだ岩屋と捨身滝(滝で別項)に下る箇所はその途中にある。広い草地は昔、ここでハタ揚げ合戦をしたらしい。

石祠のある猿岳(秋葉山)へはさらに15分、急登を要する。標高300m。何もさえぎるものなく、天草の海の展望が良い。道はまだ上へ続き、1時間ほどで小八郎岳(標高590m)へ達する。