早坂町の洞穴 ①  茂木新四国八十八ケ所第36番霊場

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早坂町の洞穴 ①  茂木新四国八十八ケ所第36番霊場

長崎市早坂町にある霊場の洞穴。昔から「鬼の岩屋」と呼ばれている。なかなか珍しい所であるが、本にほとんど紹介がなく、訪れる人は少ない。長崎IC早坂料金所の東側方面の山手となる。地図を参照し、三景台から下るとわかりやすい。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊59頁による説明は次のとおり。

…丘を下り、支流に架かる橋を渡って数軒民家のある所まで約5分、岩下利春様宅(早坂町1452)手前の道脇に第36・71番霊場の案内標識が立っている。此処から2分ほど歩いて行くと堰のある小川があり、更に2分山道を上って行くと茂木新四国八十八ケ所第36番霊場に着く。
岩盤の大きさは大体巾20m、高さ10mで、畳15枚は敷けそう?な洞穴である。独鈷山青龍寺・波切不動明王が祀られている。雑木林の中にあり、辺りは森閑として秘境の感がある。お参りする人も極めて稀のようである。知る人のみぞの思いがする。

巨岩の漢詩(題詩刻石二首)  愛宕山頂神社左横

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巨岩の漢詩(題詩刻石二首)  愛宕山頂神社左横

長崎市中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社にある。社左横の巨石に漢詩二首が刻まれている。「文筆峰」の巨石の隣りである。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊40頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂、「文筆峰」の隣に高さ3mの巨石があり、石の表と裏に漢詩が刻まれている。
崇福寺六代、道本禅師が愛宕山に登った時に詠んだ詩である。道本禅師は享保4年(1719)56才で渡来し、詩文・書を良くし68才で示寂した。詩を簡訳すると「緑色の靄の中に高く浮かぶ愛宕山の岩石に青松は生え、下界の変遷、人間の喜び悲しみを幾重にも見てきた。…以下略」
因みに、国宝崇福寺第一峰門の双額「天空海闊無雙地」「虎伏龍野不二門」は同禅師がかけたものである。
漢詩については、「長崎市史」愛宕山の項に記されている。

正面  甲辰四月登愛宕山  題詩刻二首
道本 
翠靄浮天第一峰 雲根盤薄畳青松 遊人漫為悲陵谷 閲遍滄桑是幾重
裏面
遊山豈必春時比 日澄臨悟可治漱 緑新陰??幕碧 雲堆裏坐題詩時
享保九年歳在甲辰四月 ←寛文四年(一六六四)
立夏擇道奉来遊題與

文筆峰  愛宕山頂神社左横

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文筆峰  愛宕山頂神社左横

長崎市中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社にある。山頂は巨岩・巨石が林立し、神社の社の左横の巨石に「文筆峰」と太く刻まれている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊39頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂・愛宕神社左横にある筆の穂先に似た大石で、昔、小島方面より望むと、そのように見える所からいつの頃からか「文筆峰」と命名された。
書字体は、市内弥生町の黄檗宗研究家、故宮田安氏によって解読され、崇福寺三代住持・大衡海権と判明した。大衡海権は小島茂木街道の「茂木道無縁塔」(長崎市文化財。別名ライオン塔)を建てた。ちなみにこの塔は、正徳三年(1713)子供を主とした三千余人の疫病死没者慰霊のために建てたものである。

大願王  愛宕山頂神社すぐ下

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大願王  愛宕山頂神社すぐ下

長崎市の中央部、愛宕山頂(標高224m)の愛宕神社すぐ下にある。風頭山バス停から玉木女子短大の横道へ入ると、尾根通しに山頂直下の鳥居参道まで難なく行ける。山頂まであと「一丁」の石柱あり。これを少し登ると右手に赤い鳥居があり、前面の立った巨石に「大願王」と刻まれているのがすぐわかる。石は全横1.4m、高さ3.1mあった。彫っている字が太く、一角70cmほど。

岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊39頁による説明は次のとおり。

愛宕山頂への道途中。高さ3m程もある巨石に「大願王」と太く彫り込まれている。
此の「大願王」については、小島ふれあいセンターだより(小島地区石碑巡り・竹内光美氏)で次のように紹介している。
「大願王とは地蔵菩薩のことで、大願を成就させる仏で、特に日本では子供たちの行く末を見守る仏として信仰され、願成寺の本尊であった。この碑の由来は唐商、魏之琰の二代目、魏道偉(日本名・鉅鹿清兵衛)が酒屋町に住んでいたが、元禄十三年(1700)娘カツが大病を患い、市中の医者より見放され、必死の状態を仏に祈願したところ、病気平癒となった。これを感謝し、岩に大書を刻み、正徳元年(1711)奉納したものである」

洗凡岩  上小島3丁目

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洗凡岩  上小島3丁目

長崎市上小島3丁目、「白糸の滝」のすぐ下側にある。白糸バス停から上に車道を「白糸の滝」のある暗渠のところまで上がり、車道反対側の川岸の路地の坂段を少し下ると、左手の小沢の奥に「洗凡観音」が祀られ、その下の大きな平たい岩面に「洗凡」と横書きで刻まれている。高比良保宅の真裏。字面は横2m、高さ1m位。刻みは補修し、新しくされている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊12頁による説明は次のとおり。

愛染稲荷大明神の上隣り、洗凡魚藍観音下の大岩に、「洗凡」と太く彫られている。幕末、長崎に住んだ南画・書の達人、徐溶(雨亭)の書である。
直ぐ近くに白糸の滝があるので、人びとはここの修練場で、煩悩を洗い清めたのであろう。

白糸の滝  長崎市愛宕3丁目

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白糸の滝  長崎市愛宕3丁目

長崎市愛宕3丁目にある。長崎の開港当時、小島界隈は樹林地帯で谷を流れる小島川は水清く、「白糸の滝」も秘境の中にあった。現在はどうなっているか。
白糸バス停から上へ上る狭い車道を300mほど行くと、川の上が暗渠となり広地となっており柳の木がある。この下が「白糸の滝」上部で落ち口となっている。滝の下に行くには、車道反対側の家の前の路地を下る。滝は3段となっていて、かなり高い。
滝へ下る途中、左の小沢奥に「洗凡観音」と岩に字を彫った「洗凡岩」がある。
岩永弘著「歴史散歩 小桃源小島の里」2005年秋4頁による説明は次のとおり。

愛染稲荷、洗凡観音の先、川沿い家屋の間から長崎名勝図絵にも描かれている「白糸の滝」を眺める事ができます。昔の美観は今では損なわれてしまいましたが、重畳たる岩盤や垂れ落ちる数条の滝は昔のままです。江戸時代後期、当時は「白糸の滝」として長崎における名勝地で、詩にも詠まれ多くの人達が一日の遊を楽しもうと上ってきました。滝の直ぐ上側に戦中戦後にかけ、広い金魚屋がありました。
いわ手より落ち来る滝の糸すゝき 招く袂に糸そこほるる  中島 広足
高機にかけてさらしてさらさら かぜにかゝる白糸の滝   流   芳

ともづな石  長崎市樺島町

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ともづな石  長崎市樺島町

長崎市樺島町にある。長崎県警察本部ビルの裏手となり、県庁坂の途中から左手に入るとホテルアイビスと旅館(現在取り壊し、マンション建設中)前の崖下にある。先には海岸の面影を残す地蔵堂もあった。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊15頁による説明は次のとおり。

県庁の坂下辺りまで昔は海が迫っていた。車が絶えない喧騒の坂より直ぐ横に入ると、樺島町裏手の静かな崖下通りになる。この通りにある「ともづな石」は市の手により枠囲いで大切に保存されている。

伊勢の宮の大クス  長崎市伊勢町

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伊勢の宮の大クス  長崎市伊勢町

長崎市伊勢町の伊勢の宮にある。拝殿の左側に生え、かなりの大木と思われるが、上幹はほとんど折れ、根元の回りも枯れかかっており、樹勢が良くない。天然記念物には指定されてない。前に「大楠神社」が祀られ、由緒はありそうであるので、写真を撮っておいた。

平山天満宮の陽石  長崎市平山町

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平山天満宮の陽石  長崎市平山町

長崎市平山町の天満宮にある。境内左端土手に土神の石祠があり、小さな陽石がその前に置かれている。天満宮の裏手には摩利支天が祀られ、鳥居手前には経塚のようなものもあった。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊70頁による説明は次のとおり。

長崎新地バスターミナルからバスで約25分、平山台団地入口で下車すると近くに松尾歯科医院の看板が立っている。此処から250m先に鎮守の森が見え平山天満宮がある。傍らの広い駐車場を横切ると直ぐ行ける。
鳥居の右柱には明治卅年(1897)九月吉日平山村中、左柱には神職今村豊幸の銘がある。此の天満宮は江戸時代既に存在していた由であるが由緒については定かでない。

目的の陽石は境内左端土手(駐車場左上)にあり、石祠二つと其の前に数えて9個の陽石(男根)が祀られている。長さ20〜30cm程、直径15cm内外のものである。昔は多数あったものと考えられる。一般的には陰と陽、対であるが、僻村においては陽石崇拝が多かったように思われる。昔の男性優位が影響しているのかもしれない。
左の石祠は土神とあり、右の石祠が何か分からないが此れと係わる神かもしれない。

森の後には摩利支尊天を祀る石祠、僅か下方に平石で囲ったドルメン?のようなものがある。

光雲寺にある石橋の親柱  出来大工町

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光雲寺にある石橋の親柱  出来大工町

長崎市出来大工町の光雲寺にある。諏訪神社前電停のすぐ近く。寺はビル上に再建され、近くの旧大手橋(親和銀行馬町支店脇)の親柱が入口門柱となり、旧阿弥陀橋(伊勢神宮脇高麗橋のあと一つ上流側)の親柱が階段踊り場に据えられている。
岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊51頁による説明は次のとおり。

光雲寺は曹洞宗のお寺で、国道34号線拡張により寺地が縮小されたので、今はビルの3階にある。諏訪神社前電停から少し先の中島川畔にあり、案外静かな所である。此処に二種類の親柱が据えてある。

a)寺入り口の門柱として据えられて擬宝珠親柱は、その昔諏訪神社下、新大工町に入る大手橋に取り付けられていたものである。即ち石橋は慶安3年(1650)唐大通事・高一覧が浄財を集めて架けたものである。
現在、大手橋の下アーチは昔のまま残り、上部分が補強舗装されている。

b)坂段途中の踊り場(庭)にある擬宝珠親柱は、元禄3年(1690)慈善事業に尽くした園山善爾が私財を投じて架けた阿弥陀橋のものである。阿弥陀橋は伊勢町の伊勢神宮前に架かる高麗橋上流側の橋で、昭和57年(1982)7月23日長崎大水害後、新たに架け直された。銘板を見ると昭和62年(1987)3月架設となっている。
〔参考〕園山善爾:側にある阿弥陀堂の阿弥陀如来台座に園山善爾の名が読み取れる。又下流側の光永寺境内には園山善爾の石像を納めた石祠がある。

なお、本河内町日見トンネル西口の文明堂の庭に、蛍茶屋の一ノ瀬橋の親柱と思われるものが据えられている。