練習用」タグアーカイブ

為石石鍋製作所跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

為石石鍋製作所跡

為石石鍋製作所跡は、三和中学校上の墓地から左の寺岳登山道に入る。すぐ白川稲荷神社で赤鳥居道を登り、上祠から下に下ると右手の山際に跡の岩面2つがある。
三和町「三和町郷土誌」昭和61年刊26頁のコラム。外山三郎氏稿「為石石鍋製作所跡」は次のとおり。あと1箇所、川原字スビ石の製作所跡にもふれられているが、場所がよくわからずまだ訪れていない。長崎県遺跡地図によると岬木場、大崎にもある。

為石石鍋製作所跡・川原石鍋製作所跡

為石にある三和中学校北側の、かなり長い坂道を登ると、海抜およそ五〜六〇メートルの雑木林内に石鍋製作所跡がある。高さ数メートルの蛇紋岩の岩壁に十数個の円形の石鍋製作途中のものが、あたかも大きな皿を伏せたようにして残っている。
また川原住吉神社の西、八〇〇メートル、海抜およそ五〇メートルのところ(字スビ石)にも石鍋製作所跡がある。…
西暦一〇〇〇年、平安末期から鎌倉初・中期にかけて西彼杵半島や野母半島で石鍋製作が行われたらしい。そのうち西彼杵半島大瀬戸町のものは、軟らかく製作しやすいこの地方の滑石を原料としたもので、その代表的なホゲット製作所遺跡が国の史跡に指定されている。野母半島なかでも三和町では滑石の分布が少ないため、蛇紋岩を原料として製作にかかったものと思われる。しかし一般に、蛇紋岩は滑石よりはるかに硬く、なかに軟かい部分も混じっていてこわれやすい。従ってこれで果たして使用に耐える石鍋ができたかどうか疑わしい。しかし、いずれにしても、これで石鍋製作にとりかかった古人の苦心のあとがしのばれてほほえましく、貴重な文化財といえる。  外山三郎

恵美須山砲台台場跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 長崎市川原町にある。高崎一郎さんの「ふるさとものがたり」による説明は次のとおり。これは三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」平成2年4月No.96の「郷土誌余聞 その5」掲載記事である。

恵美須山砲台台場跡

この台場は文化五年(一八〇五)に起きた長崎のフェートン号事件によって設置された。…高浜、川原、椛島の各村の海岸にも大砲の備え場を設けたのである。
川原の台場には恵美須山に設けられ、壱貫目筒壱挾と、松平備前守より差出された五百目筒壱挾が配備された。…
この台場は安政年間にも使用されたものと思われるが、実際に使用されることもなく、現在ではその形跡さえ見ることが出来なくなった。
時代は大きく変化して行く。そのために地元でさえ現在その由緒を知る人はいなくなってしまった。…

住吉神社の大クス 長崎市川原町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

住吉神社の大クス 長崎市川原町

長崎市川原町の住吉神社にある大クス。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定文化財
一、種類及び指定名称  天然記念物「川原住吉神社の樟(くす)の木」
二、指定年月日      昭和六十一年一月三十一日
三、指定の理由
クスノキ科の植物で樹齢約四〇〇年といわれる、町内最大の巨木である。目通幹囲五・七五メートル、樹高約二十六メートル、枝張り南北二十三・五メートル、東西二十六・七メートル。樹形、樹勢ともよい。
日本の南方以南に自生する常緑高木である。材を家具又はショウノウ製造原料としての利用もある。
昭和六十一年十二月  長崎市教育委員会

川原大池 阿池姫伝説と湖畔風景

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

川原大池—阿池姫(おちひめ)伝説と湖畔風景

野母半島県立公園の川原大池。長崎市宮崎町にある。現地モニュメント説明板は次のとおり。

川 原 大 池

その昔、旧川原村の領主高満の娘「阿池姫」が船もろとも沈んでしまった。阿池姫は竜に姿を変え、村の守護神となった—という伝説にまつわる川原大池。県内最大の天然湖であり、長崎観光百選の地として広く県民に親しまれている。
広さ十・三平方アール、周囲一・九キロメートル、最大水深九メートルで、鮒、鯉、ブラックバス、テナガエビなどが生息している。とりわけヘラブナは五十センチを越す大物が釣れることで、全国的に有名である。別名、「竜ヶ池」ともいう。

区−M 大崎の大崎鼻  (確認 長崎要塞区域標 第十九号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

区−M 大崎の大崎鼻  (確認 長崎要塞区域標 第十九号)

県道から大崎公民館のある浜へ出て、右手海岸を10分ほど岩場伝いに行くと大崎鼻である。ここの大きな海岸岩の上に海難遭難者を弔う地蔵尊が2体建つ。地蔵のことは地元の人はよく知っているが、陸軍省標石はあまり知らない。現地の鼻に山側から下ってみた。近くのミカン畑山田氏が標石を覚えており、「どれ。久し振りに行ってみるか」と言ってわざわざ案内してくれた。地蔵を調べに越中先生や故森永・丹羽先生も以前来たことがあるらしい。

地蔵と同じ岩の上に少し離れてあった。「長崎要塞区域標」「第十九号」である。地蔵尊を配し雲仙・天草を望み、天草灘の海面に風情を感じる。標石が波風でやや傾いているのがよい。大崎側から満潮時でも岩場伝いに難なく行ける。一見してほしい標石である。

(注)写真の撮り直しがあり、平成19年7月30日再訪した。台風のためか地蔵尊は新しくなり、不動明王がない。この脇の古い碑も撮ってみた。

1−F 「長崎要塞第一地帯標」が新たに飽の浦峠道で見つかる

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

 今回見つかった「長崎要塞地帯(区域)標」の標石1本は次のとおり。これで私たちが確認したのは、合計24本となった。第一地帯標は7本である。

1−F 飽の浦峠の手前、旧峠道市道の道脇 (確認 長崎要塞第一地帯標 第一六九号)

平成19年7月29日(日)、飽の浦公園に集合。飽の浦峠から稲佐山・小江原団地まで縦走した。飽の浦峠までは人家の中の旧峠道市道坂道を上る。この道は昔、福田遊園地の前となる大浜ペーロン小屋前海岸へ小さい頃、泳ぎに行くためよく歩いた。峠に着くすぐ手前、入船町24街区の角で、この標石を今回偶然に見つけた。

「長崎要塞第一地帯標」「第一六九号」である。写真は上のとおり。防火用水の後にあり、写真がうまく撮れない。こういった里道にあった標石は、戦後、ほとんど撤去されたが、難をのがれた1本と言える。「第一六九号」という大きな番号が示すとおり、当時は里道のあちこちに建てられていた。まだ探せば残っているのが出てくるかも知れない。
標石はただし「第十六九号」と刻んでおり、改刻かも知れず、番号の意味がよくわからない。

飽の浦峠から稲佐山へ行き小江原へ縦走

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

飽の浦峠から稲佐山へ行き小江原へ縦走

平成19年7月29日(日)、飽の浦公園に集合。人家の中の坂道を飽の浦峠まで上る。峠手前で明治32年陸軍省「長崎要塞第一地帯標」「第一六九号」を見つけた(この項は別項)。三菱寮の先、秋月トンネルの上から九電の送電塔道を伝い、小ピークを越して稲佐岳から飽の峠へ伸びる尾根道へ上る。ここから200mほど尾根を戻ると、展望のよい岩がある。

稲佐岳山頂の東を捲く植林地内山道を通り、草スキー場上の広場で昼食。ここは今ドッグランとなっている。岩屋山への縦走路に入り、小江原団地まで林間の尾根を縦走した。福田側の谷から吹き上げる風は快く、暑さを覚悟して行ったが、よい森林浴となった。

区ーO 千々の二ッ岳崎  (確認 長崎要塞区域標 第十六号)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

区ーO 千々の二ッ岳崎 (確認 長崎要塞区域標 第十六号)

ここに標石らしきものがあることは、千々バス停近く千々川橋たもとの主人から聞いていた。二ッ岳の名のとおり、海岸突端に2つのこぶ状の岩山があり断崖の難所で、海岸伝いも行かれるかどうかとの話であった。
近くまで行けないか日を改めて行った。藤田尾側から干藤トンネルができる前の車道を行く。魚釣りに通った道なので少し覚えがあった。千々海岸へ出るつづら折のカーブ下りにかかる所から、右に二ッ岳崎へ向けたコンクリート農道が入って、下ることとなる。

農道終点のビニールハウスの人は、「石はある。なんて刻んであるか知らない。恐ろしい崖で自分は行ったことがない」と言った。釣りの磯道を聞いて東側海岸へ降り、岩場伝いに二ッ岳崎の最も近くまで行ったが、岩切れ込みの海面と断崖に阻まれ、どうしてもこちら側からは行けない。この日は遠くから標石の姿を見ただけであった。大きさ・高さから言って標石に間違いない。
帰る際、磯道へ下る途中に尾根伝いの細い分れと足跡があった。この道は鼻に通じているようだが、1つの岩山のこぶを越しただけで、崖道に足がすくみこの日はやめた。後日、高橋氏が来た時も、他を回って日暮れとなっていたので、遠くから標石を望んだだけとなった。

万を期し大潮の日に出かけた。4回目となった。尾根伝いに今度は反対側の岩場へ降りた。磯伝いに急峻な岩場を巻きながら、25分して突端岩上の標石にやっと辿り着いた。
標石「長崎要塞区域標」「第十六号」である。帰りは海岸伝いでなく、2つのこぶ岩山を越す道を探した。釣り人はどこでも行くのか、危険な2箇所にロープが張られ、恐る恐る下って登った。岩山の間はキレットとなり崩壊寸前。足場はどこも危ない。釣り人もあまり利用していない。一般に勧められない危険な場所である。高橋氏は後日ひとり、茂木から瀬渡し船で渡って標石を確認している。

星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

「長崎さるく博‘06」により、平成18年4月、星取山のバス終点に長崎市科学館とNTTの手によって「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板が取り付けられたのを知り、昨年5月にさっそく見に行った。説明板は写真のとおり立派なもので、下部には「観測所風景」と「望遠鏡風景」の古写真を拡大したものがある。

写真をよく見た。「観測所風景」では、施設・機器の地面と背後は明らかに違い、後は「唐八景」の山並みである。これは観測所から東方、唐八景を写している。次に右の「望遠鏡風景」だが、説明板は戸町岳の方を向いて設置されており、三角形の山は「戸町岳」と思い、さんざん比較した。しかし、どうしても山の連なりは合わなかった。

説明板の設置方向に疑問を感じた私は、星取山を一周して同じ風景を探した。山頂はNTT無線中継所が大きく占め、フェンスに囲まれ中に入れない。木立が高く山頂からの眺めはまったく得られない。

山頂東側の下手に、バス停の1つ前から入る大正寺管理「星取墓地公園」がある。ここに搭屋があり、登ると四周がよく見える。ここで撮った写真は上のとおりである。「望遠鏡風景」の背後の山並みは、戸町岳とはまったく反対側。彦山から田手原・甑岩にかけての山に間違いない。手前は三景台団地などである。彦山側視界は山頂手前、NNK中継所アンテナのある所の道路からも開ける。

今回の説明板は、「さるく博」期間中の仮設と思われ、NTT側の敷地上の問題もあるらしい。金星観測史上における長崎のフランス隊金比羅山に劣らない、アメリカ隊による観測場所であった星取山の重要さを全体が認識し、皆が納得できるような恒久的な観測記念碑が早くできないものかと考えている。
また、長崎大学工学部なども協力し、古写真から星取山の観測地点を特定できる方法はないものか。同大学が原爆被爆写真から当時の町並みを再現したニュースを見ている。
(注) 詳しくは、研究レポート第3集に収録。