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小ヶ倉水源池のカゴノキ  長崎市上戸町4丁目

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小ヶ倉水源池のカゴノキ  長崎市上戸町4丁目

長崎バス「上戸町」バス停から小ヶ倉水源池に行く。水源池の右の岸を回り、烏帽子岩と市民の森へ登る市道があり、ダム堰堤横を過ぎて50mほど進んだ左方、立入禁止のフェンス内にカゴノキの大木を見る。

ここは小沢の流れがあり、車道が湾曲している谷間である。幹囲は3.5mほど。上は2つの大きな支幹に分かれ、枝を高く張っている。樹高は15m以上ある。市内の近くで見られるカゴノキの高大木と思われる。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」による樹木説明カゴノキは次のとおり。

カゴノキ(鹿子の木)

クスノキ科カゴノキ属 常葉高木 雌雄異株
樹皮はまだらに剥がれて白い鹿の子模様になる。葉は枝先に集まって互生し、倒卵状楕円形で葉先は尖る。革質で葉裏は粉白色。
8〜9月、葉腋に淡黄色の散形花序をつける。花柄はない。総苞片は4個で、花弁は6裂する。雌株(雌花)の花冠は4mmほどで、1個の雌しべと9個の短い仮雄しべがある。雄株(雄花)は8mmほどとやや大きく、雄しべは9個で長い。
果実は1cm弱の倒卵状球形で、翌年の7〜8月に紅色に熟する。
本州(茨城・石川県以西)、四国、九州、沖縄に自生。

鍋冠山から唐八景・市民の森へ  平成20年9月

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鍋冠山から唐八景・市民の森へ  平成20年9月

平成20年9月7日(日)薄くもり。鍋冠山から唐八景・市民の森へ。参加7人。まだ暑いから近くの山歩き。
石橋9時半発ー鍋冠山ー星取山ー田上ー唐八景(昼食)ー市民の森ー巨大スギー小ヶ倉水源池15時着

スカイロードでグラバー園の上へ行き、鍋冠山・星取山へ。田上準提観音に出て唐八景で昼食。展望はかすんでいた。森林体験館はパス。巨大スギへ下る。小ヶ倉水苑を見て解散。
女神大橋から延伸された長崎外環状線が、ダム前に工事中である。

大崎自然公園  東彼杵郡川棚町小串郷・三越郷

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大崎自然公園  東彼杵郡川棚町小串郷・三越郷

川棚町の大崎半島。昭和38年に全域が大村湾県立公園に指定された。くじゃく園・キャンプ場・海水浴場など整備され、国民宿舎「くじゃく荘」と天然温泉「しおさいの湯」がある。
国道205号線「大崎公園」交差点から入り、約3.8Km。きょうも日暮れた。
まだ何もないころ、小串郷の駅から歩いてキャンプに行ったことがあった。

天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

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天満宮のタブノキ  東彼杵郡東彼杵町小串郷

国道205号線の川棚町「大崎公園」の次が「小串小学校入口」交差点である。右折して東小串郷公民館前を過ぎ、高台へ上がって行くと小串小学校がある。「天満宮」は小学校正門先の右手に鳥居があり、参道を登る。

タブノキは社殿の広場右にあり、幹囲4m、樹高10mほど。大きな神木と聞いたが、さほどではなかった。幹の上部は折れて、樹形はあまりよくない。
小学校へ着く手前の車道脇に、クロガネモチの大木があった。根元に祀られていたのは、屋敷神という。ここは宅地跡である。

波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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波佐見の宿橋で見た長崎要塞地帯標  東彼杵郡東彼杵町宿郷

9月4日、波佐見町中尾山の窯元「山慶」前の煉瓦造アーチ石橋を見に行った。その帰り川棚へ戻るため、波佐見町の現在の中心通り県道1号線でなく、南側の街中の旧道を通った。
大イチョウを過ぎると、川棚川に架かる「宿橋」を渡る。
橋のたもとに古い標石が立っていた。何かと見ると今は架け替えられている「宿橋」の、昔の橋名銘や架橋年月日のある親柱類。この一角に大切に保存されていた。

このようなことは、他所の橋でもよく見られる。気をひいたのは、真ん中の大瓶の下の低い標石。2面上部に「陸」と「第」の刻字があり、黒ペンキ塗りされている。下部は埋められ刻字不明。
まぎれもない佐世保地域の「長崎要塞地帯標」である。裏面へ回ると「長」の字があった。
説明板がなく、この標石の詳しくはわからない。佐世保の高橋輝吉氏へ聞いてみなくてはならない。高橋氏は、この場所の標石の存在を知っているのだろうか。

原書房刊「海軍制度沿革史」巻十五 昭和47年発行(海軍省編 復刻原本=昭和17年発行)127〜130頁の「◎長崎二於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」によると、波佐見地区は、「要塞地帯法」関係の次の告示改正別図に表われる。
「長崎要塞地(其二)」の図中、「上波佐見」「下波佐見」の地名のあるところが、概ね宿郷「宿橋」のある地点である。(其一)は長崎市、(其三)は五島灘江ノ島近辺の図。

昭和十一年八月一日(陸軍省 海軍省告示六)
明治三十二年八月陸軍省海軍省告示中左ノ通改正ス
「長崎要塞地」ヲ「長崎要塞地(其一)」二改メ左ノ図ヲ加フ
長崎要塞地(其二)
長崎要塞地(其三)

長崎要塞地帯標は、明治32年設置されてから、何回かの法改正と地帯変更があった。終戦後、戦争遺物の市町村資料はすぐ廃棄され、標石はほとんど撤去された。地元でも詳細を知る手がかりがない。
波佐見町「宿橋」の標石は、上記の頃の告示改正が設置年代の目安となるだろう。詳しくは高橋氏が調査し、地元へ伝えてもらえればと思う。

高橋氏のこれまでの調査によると、波佐見地区の標石を同氏は次のとおり確認している。
① 第 1号 川棚民俗資料博物館にあり ② 第11号 西有田民俗資料館にあり
③ 第22号 個人宅にあり ④ 第32号 有田近くの寺にあり

中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

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中尾山で見つかった煉瓦アーチ橋  東彼杵郡波佐見町中尾郷

本年6月初め、波佐見町中尾山で小さい煉瓦アーチ橋が新しく見つかっている。次の記事により波佐見町に残るアーチ石橋は、15橋と紹介していたが、これで16橋となった。
https://misakimichi.com/archives/684
見つけられたのは、” fwd−net 長崎・諫早 ”のHP「長崎県の石橋を訪ねて」zento1氏。なんの情報もなく中尾山へ奥さんと窯元めぐりに行き、気づかれた橋。

波佐見町の中心街を通る県道1号線の「中尾山入口」交差点から右折。中尾山へ向かう。入口右の通りにある陶山神社近くの「伊東橋」のほか、中尾山には石橋は2つ残る。
中尾山へ着いて「陶郷中尾山」のゲートをくぐると、すぐ右の川に煉瓦アーチ「永田橋」が見え、次に「中尾山陶源橋」を渡るが、下を覗くとこれは立派な石造アーチ橋である。

今回、見つかったのは、この川の右横に並行して流れている小川。家並みの中はほとんど暗渠となっている。「中尾陶源橋」の先に、右へ30mの窯元「山慶」に入る車道があり、この道路下に小さな煉瓦アーチ橋が残っていた。下側の駐車場奥から見るとよくわかる。
上へ路地へ回って上流へ行くと、桁石橋の小さなものも残っていた。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第 199 番   山慶前のレンガ橋      波佐見町中尾山
架橋年は未確認       長 さ 1.5m  幅 員1.6m+拡張
上流側に石柱を渡して拡張している。
波佐見町の中尾山に入ってゲートを潜った右手が永田橋(中尾レンガ橋)、本通りを少し上がった所が中尾山桃源橋。その先に右手に駐車場が有って山慶さんに入るところに架かる橋。

下流の永田橋(中尾レンガ橋)と同じようにレンガをブロック状に切り出して石拱橋の工法で架けた橋。陶芸の里らしい橋だ。環厚は0.3m、拱矢0.5m、スパン1.5mの小さな橋とはいえ、何度も通った中尾山に見落としが有ったということは、もっと見つかる可能性が高まったと嬉しくなる。(06/08/2008)

彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

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彼杵の古墳(ひさご塚)  東彼杵郡東彼杵町宿郷

国道34号線の東彼杵交差点から右折し、東彼杵町の中心へ入るとすぐ左手にある。一帯は歴史公園「彼杵の荘」として整備され、ひさご塚や石室の奥に東彼杵町歴史民俗資料館があり、副葬品などを展示している。
公園には、そのほか切間石・旧家岳中邸・しだれ桜・体験工房などあった。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

彼杵の古墳  県指定史跡

指定年月日 昭和25年4月10日  所在地 東彼杵郡東彼杵町宿郷字古金屋道上
所有者 国
長崎県の代表的前方後円墳で、規模は県内最大級。彼杵川河口、大村湾に面した砂礫丘上、標高2m程に位置する。主軸はN62°Wを測り、後円部側にカサンガン(重棺)古墳が位置する。
全長58.8m、後円部直径37.7m、高さ6.3m、くびれ部幅11.0m、前方部長さ21.1m、幅18.5m、高さ2.6mを測り、前方部の低い古式の墳丘形態を呈する。前方部が著しくくびれており、通称「ひさご塚」の由縁である。
墳丘上に埴輪の樹立は確認できないが、裾には人頭大の葺石が良好に残存している。埋葬施設は後円部上に2基検出され、副葬品には銅鏡1面、ガラス製小玉(300点ほど)や鉄鏃、鉄剣、鉄斧、刀子などの鉄製品もみられる。
5世紀前半頃の築造で、墳丘が復元され、隣接する東彼杵町歴史民俗資料館では副葬品などが展示され、古墳の墳丘とともに自由に見学することができる。

熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

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熊野神社のスタジイ  諌早市真崎破籠井名

諌早市真崎破籠井名の熊野神社は、風観岳(標高236.2m)の南麓にある。国道34号線諫早バイパスの明峰中学校前交差点に「破籠井」の道路標識があり左へ入る。県営バス「下破籠井」バス停で道が交差するが、まっすぐ行って住宅地の高台を越すと近道。
下ると風観岳下の谷間となり、前方に最近、護岸をした川にガードレールの橋がある。この橋を渡り、田の道を登って行くと熊野神社に着く。下破籠井までは長崎街道の道。

「諫早近代史」諌早市平成2年刊の特記すべき植物個体147頁によると、スタジイとして諌早市第一の巨樹。幹囲4.42mとある。
参道石段左にイスノキ、社殿へ上がって左の林にも、同じくらいのスタジイの大木があった。
Otkji.K氏「長崎の樹木」の中の街路樹による熊野神社の説明は次のとおり。

熊野神社

諫早市・破籠井(ワリゴイ)にある神社。入口近くにはスタジイの大木がある。本堂前の境内にはサザンカが咲いていた。神社社叢には、イスノキ、アラガシ、ムクロジの他、ヤブツバキ、ハリギリ、カクレミノ、ミミズバイ、シイモチ、サザンカ、ミサオノキを見ることができる。シュロも自生していた。 ミサオノキの低木が多く自生しているのが特徴。

案内板によると、平家の落人が近くに住みつき、建仁2年(1202年)に平家の守護神・熊野大権現を建立したのが、熊野神社であるという。毎年2月1日に桃手祭りが行なわれる。昭和62年10月には、鎮座800年祭りが行なわれており、平家の落武者にまつわる由緒深い神社である。

大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

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大雄寺の五百羅漢 (1)  諌早市富川町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。案内標識により進むと本明川上流の富川渓谷に着く。大雄寺奥から滝にかけての岩面に、水害による死者を弔う503体の羅漢像が刻まれ、磨崖仏としては県内随一のものである。
写真は2007年11月撮影。現地は、昭和32年(1957)7月25日の諫早大水害にも遭い、磨崖仏は修復されていた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

大雄寺の五百羅漢  県指定史跡

指定年月日 昭和52年5月4日  所在地 諌早市富川町925の一部ほか
所有者 大雄寺
元禄12年(1699)、諫早藩は洪水により多大の被害をうけ死者487人を出した。諫早藩7代茂晴公は死者の供養と今後の災害防止祈願のため、本明川の上流富川渓谷の地を開いて大雄寺を建立し、その壁面と川中の巨巌に503体の羅漢像を刻し宝永6年(1709)完成している。
磨崖仏としては県内随一のものであり、諫早水害史を物語る資料としても貴重なものである。

川頭遺跡  諌早市湯野尾町

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川頭遺跡  諌早市湯野尾町

国道34号線の本野入口から富川渓谷への県道212号線へ入る。本野小学校が見え、この先にある県営バス「本野学校前」バス停から右折して、山手の高台を目指す。
「川頭(こうがしら)遺跡」は、五家原岳(標高1057.3m)の南側中腹、目代川と湯野尾川の間の尾根にある。

高台の広い農道に上がり、しばらく進むと川頭集落に出、やがて車道左斜面にロープにより囲んだ一角があり、ここが縄文時代の開地遺跡「川頭遺跡」である。
現地へ行っても、草に覆われ何も見られないが、湯野尾川谷間にある同じ縄文時代からの生活遺構「善納岩陰」との関連から訪ねてみた。同岩陰遺跡からも車道はある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

川頭(こうがしら)遺跡  県指定史跡

指定年月日 昭和50年1月7日 所在地 諌早市湯野尾町793−19 所有者 諌早市
縄文時代早期および中期の遺跡で、多良山塊の中腹標高約360mの地にある。
縄文時代中期の土壙墓1基が検出され、径0.8m、深さ0.6mの円形土壙の底面に数個の礫をおき、阿高式土器の大形片が検出された。早期の遺構としては、径3.5m程の円周上に柱穴7〜8箇が配置された平地住居2棟分が検出され、押形文土器、石鏃、石匙、凹石等が発見された。
これらのことから、従前不明瞭であった西北九州の縄文時代早期および中期の様相の一端が展開され、同時に多良・雲仙岳等の山嶽中腹域の遺跡に対する視点が整理されることになった。