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香焼山円福寺  長崎市香焼町

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香焼山円福寺  長崎市香焼町

円福寺は、長崎市香焼行政センターの左方に参道入口の石門があり、本堂は背後の山手高台にある。車は迂回して行く。
長崎さるくマップブック「香焼界隈」74頁による説明は次のとおり。

香焼山円福寺

延暦23年(804)〜大同元年(806)、空海が中国へ渡る行き帰りの際、この香焼島に立ち寄った供養の跡といわれている伝説の地。本堂左手、小高い山へと続く石段を登り上がると、お香を焚いたといわれる場所に、弘法大師にまつわる小さな履物が納められていて、毎年4月21日、弘法大師祭の日に御開帳される。
狭くて急な石段の途中にはお地蔵さんが点在。石段は二手に分かれ、それぞれ上り下りが定められていて、参拝者の多さを物語っている。
唐人海難者改葬供養塔(市指定史跡)、円福寺の梵鐘(市指定有形文化財)、六地蔵石憧(市指定有形文化財)

馬渡島野中のヤブツバキ  佐賀県唐津市鎮西町

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馬渡島野中のヤブツバキ  佐賀県唐津市鎮西町

平成21年3年7日、佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査に川上氏が行くので同行した。カトリック信者が住む島内の高台「新村」地区。聖母園の園内入口マリア像前と御堂カトリック教会へ行く車道の左脇に、「ゆうこう」の木2本を見つけたのは、前項とした。ヤブツバキの大木を見かけたのはこの後。

御堂教会の前は車道が二手に分かれ、山腹を行く左道へ入った。150mほど歩くと1軒離れた農家がある。このあたりは「野中」という集落と思われる。農家の後ろの斜面地に赤い花を多くつけた樹形の良い木があった。車道からも根元の太い幹が見える。
近づいて測ると幹囲1.8m、樹高12mほどある。馬渡島は家や畑の回りに防風林や油採取のため、ほとんどツバキが植えられて、ツバキが多く目につく島である。その中でもひときわ大きい。
島を代表して「さが名木100選」に入れて良いほどの木と思われる。

馬渡島の「花乃井」の記念碑  唐津市鎮西町

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馬渡島の「花乃井」の記念碑  唐津市鎮西町

呼子・名護屋から船が着く馬渡港の桟橋から馬渡小中学校へ向う。坂道を歩いていると交番駐在所先の道脇左に、「花乃井」と字を浮かした見事な碑石を見た。
左の道に曲がると、「観音堂」へ出る。馬渡島と何の関係のない大阪の木綿問屋夫婦が島にいろいろな篤志をされ、観音堂も改築されたことは、HPで読んでいた。名はたしか「花子」。
この場所は今、コンクリートが張られているが、井戸跡に違いない。

そう思って碑石の裏面を見ると、由緒書きが刻まれていた。
「大阪の泉谷花子様大正七年来島の際多大の義捐をなされ其後学校に寄附或は観音堂の改築今又井戸を受く島人感謝して花乃井水を汲む 馬渡小学校長 彌富」。左面に「昭和六年二月」
「馬渡島のホームページ 歴史」馬渡島の大火災と禁酒令による説明は次のとおり。
この井戸の記念碑であり、花子夫人は昭和6年2月17日病死。当時の馬渡小学校長彌富忠六先生(多久市の方)が、夫人の遺徳を偲び、井戸に建てたられた碑であろう。心温まる記念碑である。花子婦人と楓田本真尼の写真も同HPから。最後が「観音堂」。

馬渡島の大火災

大正7年1月の末、玄海の風が吹き荒れるとき、小学校西側の小屋から出火し、本村の家屋
38戸、納屋30戸が一瞬にして灰となる大火事が起きた。玄海の一孤島ということで世の同情より、たくさんの義損金や品物が送られた。この中に、大阪で木綿問屋を営んでいた泉谷儀三郎・同花子という夫婦がいた。
馬渡島とは何の関係もなかったのであるが、愛知県の80歳になる楓田本真尼に託して蒲団・着物類その他たくさんの品々を寄贈した。この尼は老齢の身であったが、馬渡島まで渡って、一軒一軒丁寧に見舞いされ慰められた。夜はお説教などをして心を落ち着けられた。この時、観音堂の御仏体が壊れているのを見て、京都まで持ち帰り、自ら阪神の人々に寄付を求めて修理をし、立派になった観音様をわざわざ持参された。老尼は自らは極めて質素節約をされ、呼子・西唐津間の坂道を歩かれたという。施しのためにはすべてを放出され、その膨大の慈悲によって島の人々を仏の御教に導かれた。

泉谷夫婦は、死ぬまで何回も島を訪れ、孤島に住む子供たちの幸少ない生活に心をよせられ、盆や正月には学用品、玩具、蓄音機、ラジオ、包帯や薬などの医療用具など送られるのであった。そして3月には雛人形、5月には武者人形にまで。まるで自分の子や孫にやるように、その情のあふれた贈り物を送られた。また、不幸にして、儀三郎は大正14年に死去されたが、花子夫人は昭和6年2月17日の病死まで、各戸に仏像を配布され、観音堂を改築され、御詠歌の本やレコードを送られた。

また、島に水が少ないのを聞き、防水用井戸を2カ所を掘られ、「花の井」と名づけて石碑を立て、水道ができるまではこの水を使っていたそうだ。(今はコンクリートで埋められて井戸はない。ただ、馬渡駐在所の北側に記念碑があります。)
さらに、中等学校へ進む者に学費を補助されるなど、島の生活と信仰のためにつくされた。花子夫人が亡くなられてから、観音堂に三氏のご位牌を祭り、また二体の如来像を作って、毎年2月17日には感謝の意をささげていたそうである。泉谷夫妻の子の代まで品物を送るなど交流をしていました。

禁酒令 

孤島と言うことで、島の人にとって酒は唯一の慰安として、葬儀の時でさえも四升樽を空にして 茶碗でグイグイと飲むという風習があった。そのため風紀が乱れ、生活苦は島民をドン底生活に突き落としていったそうだ。当時の校長彌富忠六先生(多久市の方)が嘆き、涙ぐましい努力をされて全島禁酒の申し合わせをし、昭和7年7月21日に名護屋全体の禁酒令が施行されました。

馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

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馬渡島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」  唐津市鎮西町

HP「三角点の探訪」を制作、近代測量史研究の京都市上西先生から教わり、昨夏の長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」に続き、3月7日に佐賀県馬渡(まだら)島の番所ノ辻にある明治22年建「緯度測定標」を確認に訪ねた。
佐賀県唐津市鎮西町の馬渡島は、呼子港から名護屋港を経由して船で30分。島内の一番高い山が「番所ノ辻」である。整備された車道が山頂まで通じているが、港から交通手段がなく、歩いて約70分を登る。

「番所ノ辻」山頂に展望台と烽火台跡があり、標高237.9mの一等三角点傍らに「緯度測定標」の標石があった。上面に方角の「十」、正面「緯度測定標」、左面「水路部」、右面「明治廿二年六月」と刻む。寸法は、23cm角、高さ40cm。
明治21年(1888年)6月27日、海軍水路部が単なる「水路部」と改称した。それ以降に海図を作るため経緯度の天測を行った測定標と思われる。

長崎県壱岐島の岳ノ辻にある「緯度測定標」は、次項を参照。壱岐のは「明治廿二年二月」建である。 https://misakimichi.com/archives/1267
この中の「全国地図測量史跡」全文紹介にあるとおり、「水路部」の経緯度天測標は、全国でも現存するのは、次のとおりしかない。北海道小樽市(「水路部」「明治二六年一〇月」)にも現存しているらしいが、未調査とある。
①新潟県三島郡出雲崎町岩舟町1592 妙福寺 ②島根県浜田市大辻町235ー3 旧浜田測候所 ③秋田市千秋北の丸2番 秋田和洋女子高校グラウンド敷地内 ④佐賀県唐津市鎮西町馬渡島 ⑤長崎県壱岐市郷ノ浦町永田触(壱岐島・岳ノ辻)

佐賀県馬渡島は、上西先生もまだ訪ねられていない。馬渡島番所ノ辻に残る「緯度測定標」の写真は、同「全国地図測量史跡」中の舘沢省吾氏撮影1枚以外、HPでは見当たらない珍しい写真となるので、詳しく紹介しておきたい。
「馬渡島のホームページ 自然のみどころ」による番所ノ辻の説明は次のとおり。

番所ノ辻

馬渡島での最高峰で、標高は、237.9mです。火山の跡といわれています。幕末の黒船来襲を恐れていた頃は、ここに沿岸防備のために遠見番所を設け、黒船を発見すれば烽火をあげて名護屋の大庄屋に知らせ、名護屋からは唐津城まで早馬を走らせていたと言うことです。この烽火の跡が展望台のすぐ北側に残っています。
また、日露・太平洋戦争の時は壱岐水道の見張所だったそうです。

番所ノ辻からは、360゜の展望がききます。北には約25km隔てて長崎県壱岐が見え、南には約10kmの地点に肥前町向島が見え、東には松島と加唐島が見え、西には長崎県の的山大島が見えます。玄海の原子力発電所も南東の方向にはっきりと見えます。
普段は空気があまり澄んでいないので見えませんが、空気が澄んでいるときは、壱岐の後方に対馬が見えますよ。馬渡島に来られたらぜひとも番所の辻から一望してください。

馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

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馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

平成21年3年7日、佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。柚の新種「ゆうこう」分布調査に川上氏が行くので同行した。
平成18年3月川上氏稿「げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉」は、以下のとおり。悠長にそれから3年、やっと彼の馬渡島の現地調査が実現した。
なお、2007年9月27日付西日本新聞夕刊記事「謎のゲンコウ 佐賀・馬渡島固有のかんきつ類 由来キリスト教に関係? 特産化へ試み始動」がHPに出てくるので参照。

川上氏が佐賀県農業試験研究センターから取り寄せた資料によると、馬渡島に5本の「ゆうこう」の木があるはずであったが、今回の調査では場所がよくわからず時間が足りなく、2本しか見つけることができなかった。
いずれもカトリック信者が住む島内の高台「新村」地区。聖母園の園内入口マリア像前と御堂カトリック教会へ行く車道の左脇にあった。2本の「ゆうこう」の木は写真のとおりである。
馬渡島固有のかんきつ類「げんこう」「とうこう」も、「ゆうこう」との比較上、現物を確認したかったが、地元で研究されている大谷肇造さんが不在で所用を達せず、再び実がなる時期に来島する必要がある。「げんこう」が「ゆうこう」に似ているが、少し扁平という地元の話であった。
詳しい研究結果は、川上氏がまとめるであろう。

げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉

佐賀県の隠れキリシタンの島に「ゆうこう」があるというメールが長崎県果樹試験場根角科長から入りました。早速、毎年、純心大学長崎学講座でお世話になっている純心大学の山田先生に佐賀県の隠れキリシタンの島を尋ねたら「馬渡島」ではないかと教えていただきました。
インターネットで見てみると「馬渡島」のホームページがあり、呼子港から40分くらいで行ける島で、教会もあるようです。さらに見ていくと寛永年間、迫害を逃れて長崎県黒埼村から移り住んだという隠れキリシタンがいたとありました。

長崎県でも小が倉、土井首、深堀、三和、野母崎という旧深堀藩の地域と外海の出津を中心としたやはり深堀藩という共通点がありました。深堀藩は佐賀藩の家老でありましたし、馬渡島も佐賀県ですが、この馬渡島が加わると共通点は隠れキリシタンの可能性が高くなるのではないでしょうか。しかし、隠れキリシタンのメッカの樫山地区には「ゆうこう」がありません。現在、小が倉には大山教会、深堀には善長教会がありますし、馬渡島にも教会があるようです。この3箇所には全て「ゆうこう」が存在したのです。

2月24日根角科長と佐賀県農業試験研究センターから2人の技術者が長崎の「ゆうこう」の調査に来られました。馬渡島の「ゆうこう」について試験研究センターの方の話が、又、面白いものでした。平成11年、もともと古事記にある橘という果樹の起源を調査していたところ、馬渡島に「げんこう」、「とうこう」、「ゆうこう」の3種類の柑橘があったそうですが、「とうこう」は現在ないそうです。島では「げんこう」は今も調味料に使っているそうです。しかし「ゆうこう」は野生に存在するのだそうです。
外海の日宇さん宅で「ゆうこう」の皮入りパンなどでお昼をご馳走になりながら、先ほどの話を聞いていたら、日宇さんのお祖父さんの兄弟に馬渡島からお嫁さんが来られたとの偶然に一同驚きました。

馬渡島は元寇襲来の歴史があり、元寇の大将におばあさんが石臼を投げつけたところ敵将が倒れ、元軍も退却したという言い伝えがあるそうです。
私の考えですが、「げんこう」は漢字で「元寇」→「元柑」、「とうこう」は唐から来た柑橘で「唐柑」ともなりそうです。しかし、根角さんの言われるように、「ゆうこう」は「ゆうこう」たい。となるのでしょうか。日宇さんは、ドロ神父は優しい言葉でいろいろな事を表現していたので「友好」ではないかと言っておられました。そうなるとタイトルを漢字で表現すると「元柑」、「唐柑」、「友柑」となるのでしょうか。漢字の表現はともかく、長崎県果樹試験場と佐賀県農業試験研究センターは近く馬渡島へ現地調査に行く予定だそうです。「ゆうこう」のロマンと謎はますます深まっていきます。
(平成18年3月川上氏稿)

馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

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馬 渡 島 (2)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(2)は、こて絵のある旧家、馬渡漁港、やぎ、交流会館馬渡館、城山展望台、番所ノ辻展望台、同三角点、緯度測定標石、烽火台跡、山頂からの景色、佐賀藩馬放牧場跡の石塁、平戸峰展望所から白岳と長崎鼻海岸、馬渡漁港の奥、防波堤の小学生作品、帰路の馬渡島全景と波戸岬

馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

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馬 渡 島 (1)  唐津市鎮西町

佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。柚の新種「ゆうこう」分布調査の川上氏に同行。番所ノ辻の一等三角点(標高273.9m)傍らにある珍しい標石「緯度測定標」も撮影した。
島の最初の信者は、長崎市外海地方から移住してきた人たちで、ゆうこうは”カトリック関係説”が有力である。信者が住む新村で2本を確認した。これらは別項とする。

呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。島内約10kmのウォーキングコースを一周した。
(1)は、名護屋港、呼子大橋、馬渡島入港、島内案内図、海岸の道、聖母園、落ちたゆうこうの実、御堂カトリック教会、庚申塚と地蔵、馬渡小中学校、広場、馬渡神社、花乃井標石、ビクトリーストーン、観音堂

PR中の話題の石「ビクトリーストーン」は、観音堂近く郵正丸船長浦丸宅の玄関下駄箱の上にあったが、できれば港の観光休憩所兼船の待合所に展示されないか。

岩立神社のエノキ  長崎市香焼町

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岩立神社のエノキ  長崎市香焼町

香焼行政センター前バス停から円福寺の参道入口鳥居の方へ行き、石段を登って行くと中段くらいの左方に児童公園があり、奥が岩立神社である。
岩立権現(神社)と称し、延宝2年(1674)頃に建立されたと伝承される神社。従来、村社といわれ、毎年10月17日が大祭で、昔は宮相撲で賑わったそうである。
指定のエノキは神殿の右高台に立つ。境内には外に4〜5本のエノキの大木があった。

円福寺から上丹馬まで上がると、豊前坊社鳥居横にも、旧「町の木」のモデルとなった同じ幹回りのエノキの大木がある。後ろの4枚の写真がそれ。
豊前坊社のエノキは、次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/191
双方とも、旧町指定平成8年5月23日、市指定平成17年8月22日だったが、岩立神社のは知らず、紹介もれとなっていた。
長崎市教育委員会「文化財めぐり 香焼地区の文化財」平成19年1月発行による説明は次のとおり。
岩立神社のエノキ (市指定天然記念物)

エノキは、ニレ科の落葉高木です。岩立神社のエノキは、樹齢約200年(推定)で、樹高約20m、幹回り約4mを測り、岩立神社の境内で最も古い木であり、樹勢も旺盛です。
側に香焼村が明治31年(1839)に深堀村から分村したことを記念して大正2年(1913)に建立された記念碑があります。

ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

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ド・ロ神父 大平作業所跡  長崎市西出津町

国道202号線から出津教会の上の車道を新屋敷の方へ向い上がる。高い山が変岳でその北尾根の鞍部近くに「ド・ロ神父 大平作業所跡」がある。現地説明板は次のとおり。作業所跡の上手高台、周辺全体を見渡せるところに、説明板は立っている。
ド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具は写し忘れた。

市指定史跡 ド・ロ神父 大平作業所跡

指定年月日  平成17年1月4日  所在地  長崎市西出津町内平1195番地26
所有者  お告げのマリア修道会
明治12年(1879)外海地区の主任司祭として赴任したド・ロ神父は、地域住民の生活向上のため、出津の変岳(俗称大平)の裏に原野ニ町歩を買い求め、明治17年(1884)から同34年(1901)まで17年間をかけて耕作地を開墾した。この作業所跡も開墾事業に伴って設置されたもので、同34年頃の建築と思われる。
建物は、高さ約4mに及ぶド・ロ壁を用いた石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建築で、桁行約18.5m、梁間約8.9mの4つの部屋を有する主屋に桁行約2.9m、梁間5.5mの下屋を付けた平面を持ち、桟瓦葺の屋根が架っていたと思われる。アーチ状の煉瓦積窓やド・ロ神父が馬を繋いだと言われている留金具が現存している。
大平作業所跡は、周辺に広がる耕作地とともに、ド・ロ神父が実践した農業振興活動を今に伝える遺構として価値が高い。
長崎市教育委員会 (平成18年3月設置)

「海軍水準」の標石が三重県や高知県でも見つかる

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「海軍水準」の標石が三重県や高知県でも見つかる

佐世保市小佐々町の楠泊海岸で、珍しい「海軍水準」の標石を見かけたのは、2008年6月である。正面「海軍水準」、裏面「水路部」、右面「+」、左面「昭和十五年」。下部は埋れて不明。
いきさつは次項を参照。 https://misakimichi.com/archives/960

近代測量史研究の京都市、上西先生へ問い合わせても、初めて見る標石類で研究課題となった。ところで先生は、ちゃんと追跡調査をしてくれていたのである。
上西先生が類似の標石を、三重県伊勢市と四日市市へ出向き見つけ、3月2日付けメールで、標石の現地写真を送ってくれた。内容は次のとおり。

昨年6月にお知らせいただきました佐世保市小佐々の「海軍水準」標石ですが、最近、わたしも類似の標石を三重県で見ました。伊勢市と四日市市です。(写真添付)
基本水準標といわれ+印の横棒が水深などの測量の基準線になります。旧海軍のものを、いまも海上保安庁がつかっている場合があります。僅かですが全国各地にあるようです。

今、「海軍水準」でネット検索をすると、高知県須崎市の港にも、昭和3年「海軍水準」標石があり、海岸保全区域の指定基点として須崎市法令に表われている。(海岸名 須崎港海岸 基点3 須崎市須崎向山2002番地先「昭和3年海軍水準標柱」から120度70メートルの地点)
また、「の〜んびり!かさぶらんかのブログ」の標石写真は、見たような鳥居の景色と思ったら、これは佐世保市小佐々町の楠泊海岸の同じ標石だった。2008年12月23日「天使の梯子」記事の次を参照。 http://myhome.cururu.jp/kasaburannkadaiku/blog/article/81002444148
両方とも最近のもので、昨年6月の検索では出てこなかったようだ。

「海軍水準」の標石はまだ僅かだが、全国各地に残っている可能性がある。当時、旧海軍の測量においてどのような使われ方をしたのか、これからの研究の端緒となれば、幸いに思われる。