ふるさと? ひぐ氏の帰郷
転勤族のひぐ氏にとって、長崎は第2の思い出多い故郷である。老後を考えて当時、長崎に家を建てたが、その後、埼玉でのマンション生活が長く、娘さんが住む埼玉で暮すことを決めた。
ついに長崎の家を手放すこととなり、20年ぶりに帰郷した。長崎と決別する旅となった。
長崎の変貌ぶりを案内した。8月10日、11日は写真のとおり。ひぐ氏が写した写真を含む。行き先は当ててください。12日は深堀・女神大橋・鍋冠山・長崎歴史文化博物館を駆け足で回って別れた。
ふるさと? ひぐ氏の帰郷
転勤族のひぐ氏にとって、長崎は第2の思い出多い故郷である。老後を考えて当時、長崎に家を建てたが、その後、埼玉でのマンション生活が長く、娘さんが住む埼玉で暮すことを決めた。
ついに長崎の家を手放すこととなり、20年ぶりに帰郷した。長崎と決別する旅となった。
長崎の変貌ぶりを案内した。8月10日、11日は写真のとおり。ひぐ氏が写した写真を含む。行き先は当ててください。12日は深堀・女神大橋・鍋冠山・長崎歴史文化博物館を駆け足で回って別れた。
現代の天井絵 諏訪神社大門西回廊 長崎市上西山町
長崎諏訪神社の長坂を上がり大門をくぐって左側の西回廊。平成7年11月に再建竣され、現代の天井絵75作品が展示されている。その中から主な作品を写してきた。
鎮西大社諏訪神社HPによる「天井絵」の説明は次のとおり。
■ 天井絵
平成3年9月に長崎地方を襲った台風17・19号により大門横の回廊は倒壊しました。それ以来氏子崇敬者の浄財をもって、また伊勢神宮の古材を賜り平成7年11月に再建竣工致しました。この西回廊の天井には元長崎美術協会会長 故諸谷義武先生を始め、協会会員の諸先生、当神社縁りの作家の方々75名の作品を展示しております。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5204 大浦川両岸の町並み(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5204 大浦川両岸の町並み(1)
〔画像解説〕
明治後期から大正期(1890〜1920)の手彩色の絵葉書。弁天橋上流から、大浦川両岸の見たもの。右岸の大浦地区、左岸の下がり松地区の家並みと沿道が良く分かる。大浦川には運搬用の船と、屋根が付いた艀がたくさん並んでいる。
目録番号:5205 大浦川両岸の町並み(2)
目録番号:5318 大浦川と居留地(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
目録番号5296(整理番号102-2),目録番号5299(整理番号102-5)と同じく上野彦馬アルバムに収載されORAと鉛筆書きがある。明治6年(1873)頃の撮影。大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む。右手左岸は右端の洋館が下り松40番の雑貨商のレーキ商会。その横の入母屋造りは洋館で37番旧エキスプレスの後部で、その横の二階建て2棟は36番のホテルとロンドン居酒屋。川幅が狭まる場所の、白壁の家が35番のニュー・クラブハウス(ボウリング・玉突き場)である。その上の外国人墓地には墓石が相当に詰まっている。左側右岸は手前から大浦14、15番(空き地)で、道を挟んで大浦29-31番と続く。この一帯はグラバー商会かオルト商会の貸地として又貸しされていた。左手丘上の家屋は旧大浦郷の日本人集落である。街路に設置されたガス灯は新しいが、左手建物の外塀はかなり傷んでいる。街路には人力車用の舗装が見える。左奥の寄棟造り大浦31番の洋館には新しい看板が掛けられている。
■ 確認結果
大浦川の「弁天橋」を上流からと下流から見た古写真。1枚目の目録番号:5204「大浦川両岸の町並み(1)」の写真説明では、「弁天橋上流から、大浦川両岸の見たもの」としているが、撮影場所が具体的でない。
同じ写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の76頁に掲載があり、143頁の図版解説は次のとおり。
60 大浦川端〔彩色絵葉書〕 神戸市立博物館所蔵
大浦川の上流側から下流部をみたもの。右岸には写真−57にみえた大浦14番の入母屋造と13番の1棟、そして12番か11番Aの1棟がみえる。左岸側もぎっしりと2階建ての洋館が建て込んでいるが、その多くは外国人向けのバーやホテルであった。すでに街灯はなく、両岸とも道路には電柱が並んでいる。年代の決め手はないが、明治40年頃の風景であろう。
川下に写るのが「弁天橋」で、下流に「松ヶ枝橋」も確認できる。背景の山は、左から尾根が下り、対岸の稲佐山尾根の一部である。現在の写真で岩屋山の山頂部が飛び出たが、これはカメラの位置により消える。
撮影場所は、「大浦橋」(石橋)からでは遠すぎ、その手前、現在「下大浦橋」が架かっている左側岸36番前の川沿い道路角地あたりからではないだろうか。「弁天橋」や「松ヶ枝橋」、背景の山の簡単な説明も必要と思われる。
2枚目の目録番号:5205「大浦川両岸の町並み(2)」は、1枚目とは逆に河口下流「松ヶ枝橋」から上流「弁天橋」を撮影したもの。背景の山は、右から下る尾根は星取山尾根、奥は唐八景である。この古写真では、尾根の境がわかりにくいので、3枚目の目録番号:5318「大浦川と居留地(1)」を参考のため掲げた。
なお、3枚目の目録番号:5318「大浦川と居留地(1)」は、撮影場所を「大浦川口から上流の川上町外国人墓地を望む」としているが、「弁天橋」の中央から撮影しているので、解説を正しくしてほしい。
長崎の西の空の夕日 09−16
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。
写真 1〜 7 平成21年 8月 8日の18時56分頃から 夕日の海とペーロン
写真 8〜 9 平成21年 8月 9日の 6時 4分頃から 朝焼けの軍艦島など
写真10〜13 平成21年 8月 9日の10時41分頃から 快晴の海とペーロン・ヨット
蚊焼出身auさんから蚊焼ペーロン大会を写すよう要望があっていた。きのう、きょう派手な音が聞こえたので、わが家からペーロンの練習を写してみた。黒島と長瀬海岸の間が折り返し点である。大会は8月14日(金)に蚊焼海岸で開催される。
被爆校舎お別れ 活水中学・高校1号館建て替えへ
長崎は8月9日、64年目の原爆の日を迎える。消えつつある被爆校舎。宝栄町の私立活水中学・高校1号館も老朽化のため、建て替えられることになった。
爆心地から約500m。同館は諫早へ移転した旧制鎮西学院中学校の被爆校舎を修復して建てられたものだった。
2009年8月8日付朝日新聞長崎地域版の記事は上のとおり。写真は立岩町権現岩から。中央から右方に爆心地と赤屋根がある学校が写る。
カットバス? みらい長崎ココウォーク 長崎市茂里町
みらい長崎ココウォーク4Fにあるカット実物バス。車内「想いでの長崎バス」の古写真が楽しい。もちろん、おもちゃのミニバスもある。
みらい長崎ココウォーク(みらいながさきココウォーク)は、長崎自動車が長崎市茂里町に建設したバスターミナル併設の複合商業施設。2008年10月オープン。地下1階地上8階建。長崎自動車の子会社みらい長崎が運営。
いろいろ? 大浦天主堂前通りの珍しいもの 長崎市南山手町
南山手町、国宝大浦天主堂前近くの通りで見かける珍しいもの。
ビルにある妙行寺の入口、仮面を売る店、下山酒店たばこ売り場下に残る居留地地番標石、グラバー園登り口植え込みにある同地番標石と昔の門柱跡、カトリック大浦教会のステンドグラスと中の礼拝堂、教会横にある50円缶コーヒー自動販売機、その前の西洋旅籠。
ゴリラ岩? 小江と福田崎の海岸 長崎市小江町・福田本町
小江と福田崎の海岸。断崖が屹立する。良く見ると、ゴリラ・人面・ねずみ男のような岩がある。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1)
〔画像解説〕
明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたようで、観光客らしい人物が洞窟を遠望し、洞窟には洞内の見学船と思われる小船が接近している。
目録番号:5629 長崎福田海岸の洞窟(2)
■ 確認結果
解説に「明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたよう」とある。2枚は同じ写真。(2)も鮮明なため掲げた。何も問題はない古写真であるが、福田崎の海岸洞窟を確認しておきたかった。3回訪ねてやっと辿り着いた。
前回、途中の海岸岩場で見つけた「長崎要塞第二地帯標」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1905
福田「ゴルフ場入口」バス停から100mほど戻り、右下へ行く釣り道の山道に入り、10分谷間を下ると海岸へ出る。これからが大変である。丸石の浜や危険な岩場をロープなどで3回越し、海岸伝いにさらに50分歩いてやっと着く。往復3時間は要する。大潮の時しか出かけられず、危険極まりない。釣り場には式見から瀬渡し船が出る。
古写真で言うと、洞窟の左側海岸を歩いて行ったので、洞窟の横からしか眺められず、中まで全体を見ることができなかった。人が座っている岩は離れ瀬。古写真は手前に岩が写るとおり、船上から撮影されたものではない。沖の島は伊王島や式見の神楽島。崖上は昔、採石場だった。
なお、洞窟とは関係ないが、この辺りの海を舞台に、高橋治氏の小説「秘伝」(直木賞受賞)講談社昭和59年2月刊がある。式見と茂木に住む2人の名人釣り師が怪魚に挑む!物語。24〜25頁は次のとおり。
…岸浪が再びエンジンをしぼったのは、出て来た式見の港を左に見て、更に三十分ほど南に下った地点だった。入江の様が複雑になり、切り立った崖が海に落ちこんでいる。その崖が近々と見える。
永淵はこの辺の海を知らない。だが、長年の経験で、陸の形と海水の色を見れば、大体、海底の見当はつく。恐らく断崖の底は二段か三段に落ちこんで、その先がガクンと深くなっている。永淵はそう思った。
”鯛の根ではないな”
一体、なにを釣らす気でいるのか。永淵には見当もつかなかった。
”崖の張り出しを狙うのか”
それにしても、そうした場所に群れる魚は余り大きくない。大きくない上に群を作る。数を狙う道楽の釣ならそれでも良いが、永淵が岸浪を訪ねて、二人でやる釣にしては、似つかわしいものではない。
岸浪はしぼったままのエンジンで大きく弧を描くと、慎重に山を合わせた。左を見て、前景の崖の線なり、これと自分がきめている木の線なりを、遠景の山の凹凸に重ねる。そうしながら右側を確かめる。更に念を入れて前方の山を合わせた。
潮の流れは原則的には永淵が普段釣る長崎半島の先端野母崎の辺と変らない。対馬海流が南から押している。五月ともなれば、それはかなり陸に近づいている。当然、陸に近いほど反流を呼ぶ。
岸浪はその反流に船を乗せようとしている。船を北に向けた。
永淵は初めてのことなので、岸浪のすることを見ているばかりである。ただ、油断なく眼は配っていた。…
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
〔画像解説〕
ベアト大型アルバムの1枚でShelter Creek Nagasaki Harbour(長崎港の避難運河)とペン書き。上野彦馬が明治6年(1873)頃撮影した目録番号5318(整理番号102-24)と同じアングルで、大浦川下から上流を望むが、時期は10年ほど遡る。1864−6年(元治元-慶応2)頃 F・ベアトがこれを撮影した。比較で建物の変遷が判る。右左岸手前の2階建は当時空家であった蘭人J.ブロイニール所有の洋館。順に38番はスミス船具商で、37番の洋館にはExpressの看板が出ている。36番はLondon HotelおよびBoard of Trade Hotel、突き当たり正面の看板はNew Amsterdam Hotelと読めるが、これは奥34番の看板である。35番はニュー・クラブ・ハウス(ボーリング・玉突き場)。左側手前から大浦14(オルトの貸地)、15番(グラバーの借地)、白壁は29番で、ともに清号の華僑が入居。その奥は30番(グラバーの貸地)と続く。山の中腹の川上町外国人墓地にはまだ墓石が少ない。
■ 確認結果
大浦川を弁天橋の橋上から上流を撮影した古写真。撮影年代や撮影者の違いがある写真は数枚ある。目録番号:5385「大浦川と居留地(2)」と同じ写真が、2009年8月6日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。
同じ写真なのに、上記の画像解説と新聞記事の説明内容が、特に右側左岸の建物について違う。それぞれ解説者の見解や、新しく判明したことで、内容が異なってくる事情はわかるが、読む人は困惑する。せめて、旗ざおが立つ38番の建物が、「スミス船具商」か「プロイセンの領事館」か。正しい方の説明をしてほしい。
後ろの写真は、大浦天主堂下電停そばの現在の「弁天橋」と、松が枝橋脇にある大浦川の説明板。