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長崎外の古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6751 お神輿(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6751 お神輿(3)

■ 確認結果

目録番号:6751「お神輿(3)」は、ファサリ商会発売。〔撮影地:横浜〕ではないだろうか。
石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷100頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

珍しい横浜写真
〔写真7〕子供神輿。バックに低い丘が写っているので横浜だろうか。旭日旗を持っているのでもう明治も後半だ。ファサリ商会発売。

長崎外の古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4221 笑う女性 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4221 笑う女性
〔画像解説〕
両腕を首の後ろで組んで、くつろいだポーズをとる丸髷の女性で、黒繻子(くろしゅす)の襟をつけた大柄な縦縞の普段着を着ている。ただ綸子(りんす)文様の帯は不釣合である。

目録番号:5604 笑う日傘の女性

■ 確認結果

目録番号:4221「笑う女性」と、目録番号:5604「笑う日傘の女性」のモデルは同一人であろう。
名前は「笑子(えみこ)ちゃん」。笑う写真を日本人に根づかせることに寄与した最大の功労者。(筆者が勝手に命名。いつまでも名無し有名人では困るから)と、次の資料がある。

石黒敬章氏著「幕末・明治のおもしろ写真」平凡社2004年初版第4刷16,21頁の女性とそのポーズ。目録番号の写真とほとんど似ている。同解説は次のとおり。
笑う写真のルーツを探る
〔写真13〜23〕絵はがきになった「笑子ちゃん」。この女性の笑って絵はがきは40〜50種ありそうだ。コロタイプ印刷、手彩色。発行は明治38〜45年頃だが、撮影は明治25〜35年であろう。明治35年発行の横浜写真のアルバムに同じ写真が含まれているので、明治35年以前であることは確実。

A.ファサリは、明治23年(1890)イタリアに帰国した。写真館は共同出資者や日本人写真家の手で経営が続けられたが、著者がこのA.ファサリ?の作品に、本文でもふれられていないのは、何かあるのだろうか。
年表風に整理した18頁に、○明治20〜35年 横浜写真に笑う「笑子ちゃん」登場。とは記している。

長崎外の古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3422 イギリス公使館庭のガワーと武士達

■ 確認結果

目録番号:3422「イギリス公使館庭のガワーと武士達」は、安政6年(1859)、イギリス公使館が置かれた東禅寺(現東京都港区)の庭で、ロシエが撮影した写真である。横浜開港記念館所蔵。
横浜開港記念館編「F.ベアト写真集 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊98頁の「解説編」の中に、資料写真「4.東禅寺の庭の護衛兵 安政6年(1859)、ロシエ撮影。当館蔵」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号: 632 奈良の野仏 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 632 奈良の野仏 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 632 奈良の野仏  (2014年5月28日追記)
[画像解説]
詳細不明。高さ5m程度と思われる石仏の傍らに、着物姿で髷を結った人物が佇んでいる。

目録番号:2409 石仏(2)

■ 確認結果

目録番号: 632「奈良の野仏」と、目録番号:2409「石仏(2)」は、東京の「千住小塚原の延命地蔵尊」である。
石黒敬章氏編「明治・大正・昭和 東京写真大集成」新潮社2001年刊の414頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

〔千住小塚原の延命地蔵尊〕 ⅠⅠⅠ23−38
小塚原(現荒川区南千住5丁目)には鈴ヶ森と並ぶ江戸の処刑場があった。日本橋本町にあった浅草刑場が次第に郊外に移され、小塚原へ落ち着いたのである。寛保元年(1741)に建てられた延命地蔵尊と、元禄11年(1698)に建立の南無妙法蓮華経とお題目の刻まれた石碑が痛々しく写っている。明治5年頃のキャビネ大。

長崎外の古写真考 目録番号:3219 下関(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3219 下関(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3219 下関(3)

目録番号:1191 下関(2)
〔画像解説〕
関門海峡と赤間神宮。内田九一の撮影による。赤間神宮は壇の浦で果てた幼帝安徳天皇を祀る。安徳天皇と平家一門への回向として5月3日には「先帝祭」が行われる。

■ 確認結果

目録番号:3219「下関(3)」は、次の目録番号:1191「下関(2)」のとおり、下関の赤間関「亀山八幡宮」で、〔撮影者:内田九一〕であろう。
金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”69頁に、「図20 赤間関 亀山八幡宮」として掲載されている。
明治天皇が下関を訪れたのは、明治5年(1872)6月。随行した内田九一が撮影した写真である。東京都写真美術館蔵。

長崎の古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2901 南山手からの大浦と出島(1)

目録番号:2902 南山手からの大浦と出島(2)
〔画像解説〕
撮影者は不詳であるが、埋立地の様子(左手の第2期埋立地が造成されたばかりである)から撮影時期は文久2(1862)年であり、このアングルでは長崎大学が所蔵する最古の写真である。手前のベルビュー・ホテルがまだコの字型であり、東山手にはほとんど建物が見られない。

目録番号:6151 長崎のパノラマ(9)

■ 確認結果

目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」と、目録番号:2902「南山手からの大浦と出島(2)」も、〔撮影者:F.ベアト〕だろうか。パノラマ写真の中央部分である。
ベアトは文久3年(1863)春に来日した。撮影年代はその頃とならねばならない。

横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊24,25頁に、パノラマ風景「19.長崎全景」(クリック拡大)として掲載されている。同解説は次のとおり。

19.長崎全景
南山手からの眺望。中央は大浦外国人居留地、海を挟んで左手遠方に出島が見える。次頁左側の写真右手山の中腹にある塔を持つ建物は英国聖公会(文久2年10月竣工)、その右手前の甍は妙行寺。(C)

執筆は、斎藤多喜夫(横浜開港資料館)氏。(C)は、写真の出所。
「C;香港のシルベイラ(Silveira)なる人物が”Album du Japon”と名づけて売り出したアルバムだが、明らかに海賊版である。少なくとも日本の風景写真の大半はベアトの写真を複製したものと思われる。ベアト以外の写真家の作品が紛れ込んでいる可能性も無いとはいえない。海賊版のせいか画質も悪いが、歴史資料としての価値があるので、すべて収録した。(整理番号;Acl−216 横浜開港資料館の所蔵するアルバムの整理番号)」とある。

長崎大学附属図書館HP「古写真ボードインコレクション」によると、後ろの写真どおりF.ベアト撮影の目録番号:6151「長崎のパノラマ(9)」(クリック拡大)があり、同解説は次のとおり。
松ヶ枝海岸造成や東山手・大浦居留地建物の状況から見ると、前の目録番号:2901「南山手からの大浦と出島(1)」などの方が、撮影年代は早いようだ。

写真家ベアトが撮影した元治元(1864)年の長崎外国人居留地の鳥瞰写真です。撮影地点はグラバー邸あたりで、左奥には出島の家並みが写されています。すぐ前の大きなコの字型の木造建築は建設後間もないベルビューホテルで、右手の東山手の丘には、文久2(1862)年10月に建った日本最初のプロテスタント教会である英国聖公会教会(塔をもつ建物)とイギリス領事館が見えます。

本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2229

長崎外の古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3989 芦ノ湖と箱根宿

■ 確認結果

目録番号:3989「芦ノ湖と箱根宿」は、〔撮影者:F.ベアト〕かも知れない。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊87頁に、「92.芦ノ湖。湖岸に箱根宿が見える」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3948 芦ノ湖(13)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3948 芦ノ湖(13)
〔画像解説〕
箱根関所跡付近から見た箱根宿の眺望。芦ノ湖に臨んでいる建物は大きな藁葺き屋根の建物と一体のもので、いわゆる本陣である。本陣は江戸時代、参勤交代の折に大名等が宿泊・休憩した。背後の山は鞍掛山で、芦ノ湖の手前には、杉並木と湖を眺める職人風の人物が見られる。

■ 確認結果

目録番号:3948「芦ノ湖(13)」は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊85頁に、「89.芦ノ湖を隔てて箱根宿を望む」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3982 庭園の風景(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3982 庭園の風景(4)

目録番号:4071 庭園の風景(5)     (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:3982「庭園の風景(4)」と、目録番号:4071「庭園の風景(5)」(同写真 掲載略)は、〔撮影者:F.ベアト〕であろう。庭園がどこかは不明。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本」明石書店2006年刊93頁に、「130.庭」として掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1083 墓地(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1083 墓地(1)
〔画像解説〕
写真外に “”HAKASHO OR GRAVE YARD “”とある。荒れ果てた感があるが、無縁仏の墓所ででもあるのだろうか。

目録番号:1275 山手からの横浜居留地(3)
〔画像解説〕
横浜・貝殻坂からの眺め。山手へ上る坂道である。手前が元町、向こうが外国人居留地である。手前は、日本人の墓地である。F.ベアトの撮影。

■ 確認結果

目録番号:1083「墓地(1)」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.10 1871/10/16 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

新聞116頁の記事に「FROM the Roku−ji−zo,」とあり、手がかりとなろう。
次の目録番号:1275「山手からの横浜居留地(3)」に写る、横浜・貝殻坂の日本人墓地のような感じがするが…。「F. ベアト写真集1」21頁にも、墓地の別写真がある。