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佐世保市に残るアーチ式石橋?(5) 横手橋  佐世保市横手町 ( 長崎県 )

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佐世保市に残るアーチ式石橋?(5) 横手橋  佐世保市横手町

佐世保市(世知原町・吉井町・宇久町を除く)に残るアーチ式石橋12橋を、先に紹介していた。
ブログ「させぼばってん」氏の「佐世保市の石橋」の項によると、次のとおり「横手橋」が掲載されていたので、現地確認に行った。  http://kujyuukushima.blog.fc2.com/blog-entry-106.html
国道35号横手入口交差点から宇土越への県道53号に入る。新しい横手橋の左脇に残っていた。アーチ下面はコンクリート補強?となっている。川床に降りられず、近くで確認できない。
完全な石橋か。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」データにない橋で、上記ブログの(規格外)梅田町「病院橋」とも現地調査をお願いしたい。

横手橋(初代) 〜横手町〜
横手町に架かっている初代横手橋です。あえて初代と書いているのは1枚目の写真にある現行の橋が現在の横手橋だからです。
意外と走っていると気がつかないかもしれませんが、橋の下流側にもう一つ橋が架かっています。これが初代で現行は実は3代目。2代目はどうしたかというと、川に対して直角にかけられた為に通りにくく事故が起きていたため取り壊されて3代目になったそうです。

7〜9枚目の写真は、佐賀県有田町「山谷大堤」のすぐ下流側で見た一見アーチ式の石橋?。コンクリート製の上に積み石をしているようだが、これも不明である。

(2014年12月21日19:05 追 記)
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」氏にこの記事の写真を見てもらった見解は、次のとおり。

まず、病院橋ですが、2010年3月に末永さんと川崎さんという方と3人で下に降りて確認しましたが、残念ながらコンクリート製でした。
横手橋(初代)ですが、写真を見る限りでは、コンクリート製だと言えます。仮に石橋だとすると、もともと輪石であったと思われる部分がそっくりコンクリートに変わっていることになりますので、工法的にはあり得ないと思います。
「山谷大堤」下流側のアーチですが、まずアーチ部分をコンクリートで打設して壁石もコンクリートで固めてありますので、石橋ではないと言えます。

人柱観音供養塔  松浦市今福町東免 ( 長崎県 )

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人柱観音供養塔  松浦市今福町東免

松浦市HPの指定文化財一覧による説明は、次のとおり。観音堂場所は松浦鉄道今福駅近く、御厨・今福街道の「丹後橋」手前角である。松浦市史跡マップに追記した。
新田開発や人柱伝説は、「松浦市史」昭和50年発行の記録も載せる。新田石垣の遺構は現在では確認できない。海岸に捨て石が近年まで残っていたらしいが、護岸工事ですべて埋め立てられたと聞いた。

人柱観音供養塔  (ひとばしらかんのんくようとう)
市指定有形民俗文化財 平成21年9月30日指定
観音供養塔は砂岩製で、宝珠・笠・龕・中台・竿よりなっている。龕部は笠をはさんで上中下3段に別れ、各11体の観音像が刻まれている。供養塔の風化を防ぐため人柱地区の観音堂にて大切に保存されている。常時見学が可能である。
伝説によれば今から約300年前江戸時代の初め頃、当時は今福小学校の下からMR今福駅の奥まで海が入り込み潟となっていた。時の領主丹後守松浦信貞公はこの干潟を埋め立てて新田を造ろうと思われ、家臣の田代近松という人物にこの工事の監督をあたらせた。工事は海潮に侵され、幾度堤防を築いても崩壊し工事は頗る難工事で進捗しなかった。「堤防の崩れること数度、工事の完成しないのは海神が埋め立てを欲しないからであろう。だれか人身御供となり、海神に捧げれば堤防工事は完成するだろうと住民に相談したが互いに災厄を避けようとして誰一人申し出る者がいない。困った田代氏は、お互いに着けている袴に横ぶせをあてている者があればこの犠牲者と定めよう。」と提案し、住民も従った。袴を調べたところ横ぶせをあてたものは田代氏のみであり、田代氏は生きたるままの身体を白犬と共に堤防に埋められた。田代氏の人身御供の犠牲により堤防も完成し、埋め立て工事も竣工した。この埋め立ての犠牲となり、悲惨な最期をとげた田代氏及び白犬の霊を慰めんと、この観音供養塔を建ててその冥福を祈っている。

逃の浦の石塁(元寇防塁)  松浦市星鹿町岳崎免 ( 長崎県 )

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逃の浦の石塁(元寇防塁)  松浦市星鹿町岳崎免

現地説明板は、次のとおり。国道204号星鹿港入口に城山展望台への案内板がある。城山の麓、墓地の三叉路から左の海岸へ狭い車道を下る。

逃の浦の石塁(元寇防塁)
城山山麓の鷹島に面する汀線には、かつて、野面積みの石塁が約1kmにわたり延々と元寇の役当時のまま残されていました。しかし、昭和初期の台風で、星鹿浦防波堤決壊の時、修築材として沖の石を取ったので、石塁が大波に洗われ崩壊しました。原型をとどめているのはこの「逃の浦の石塁」だけとなりました。
海側は高さ2m・幅45〜50cm・内法高さ1m、総延長約300mの石塁で、その内側には幅5mの武者走りを思わせる平場があり、背後は崖がせまっています。
地元住民は、この石塁を夷狄から郷土を守るために、当時の領主・領民が共に血と汗を流して完成した「元寇防塁」として伝えています。
松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会

星鹿城山  松浦市星鹿町岳崎免 ( 長崎県 )

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星鹿城山  松浦市星鹿町岳崎免

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。国道204号星鹿港入口に城山展望台への案内板がある。城山は標高128.3m。

星鹿城山  刈萱城跡。展望所からは、美しい風景を一望できます。
建久2年(1191)、源頼朝の命でこの地に下向した加藤左衛門重氏がこの地に刈萱城を築き、その後城を棄てて紀州高野山に移ったと伝えられています。
山頂には本丸の輪郭が残っており、展望所からはスケールの大きな眺望が楽しめます。

平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)  平戸市崎方町 ( 長崎県 )

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平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)  平戸市崎方町

平戸観光協会HP「達人Navi 平戸」による説明は、次のとおり。
松浦史料博物館から展示が移されている「オランダ船鉄錨」を撮影に行ったが、遺産サイト公開は許可を必要とし、現在手配中。

平戸オランダ商館(1639年築造倉庫)(ひらどおらんだしょうかん)

1639年建造のオランダ商館倉庫を忠実に復元した資料館。
所在地  〒859-5104 平戸市崎方町2477
問合せ  TEL:0950-26-0636 FAX:0950-26-0638
交通アクセス  平戸港交流広場から徒歩5分
駐車場  身体障害者用のみ
営業時間 8:30〜17:30
定休日  毎年6月の第3週 火・水・木
料 金  大人300円、小中高生200円

Information
2011年9月20日オープンした「平戸オランダ商館」。中は当時の貿易に関する史料や貿易品などが展示。平戸オランダ商館のある崎方町一帯は、1609年(慶長14)和蘭船が入港し、1641年(寛永18)長崎出島に移転するまでの約33年間、平戸が我が国唯一のオランダ貿易港として賑わった。 商館は当初、土蔵付き民家を借りてスタートしたが、その後周囲の民家を壊して、新たに建築。本館をはじめ、宿泊所、調理場などが整備されていった。貿易の積荷を保管する倉庫も何棟も建築され、1639年には日本で初めての西洋の石造建造物とされる 「1639年築造倉庫」が完成。2011年にオープンした「平戸オランダ商館」はこの倉庫の忠実な復元となり、貴重な建物である。1641年、幕府の命により商館は取り壊され貿易は長崎出島に移転した。

岩の上町の鯨供養塔  平戸市岩の上町 最教寺 ( 長崎県 )

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岩の上町の鯨供養塔  平戸市岩の上町 最教寺

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
最教寺は1607年、第26代平戸藩主松浦鎮信公によって建立された。「鯨鯢供養塔」は三重塔が立つ奥之院の右方手前境内にある。

岩の上町の鯨供養塔 いわのうえ
平戸市(平戸島) 最教寺 石碑(キャップ状の突起付き) 高113㎝ 元禄8(1695) WEB 原位置 (正面)「鯨鯢供養塔」/捕鯨遺産 1 C

緑岡神社の鯨魂碑  平戸市岩の上町 ( 長崎県 )

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緑岡神社の鯨魂碑  平戸市岩の上町

大丸秀士氏HP「動物のお墓」によるデータは、次のとおり。平戸大橋を渡ってすぐ岩の上大橋交差点手前の右側に緑岡神社案内板がある。イレブン後ろへ急坂を上がり、狭い車道をまっすぐ進むと、左方に鳥居が見える。子授け・安産の神様。牟田様とも呼ばれる。鯨魂碑は、参道坂段の右奥にある。

鯨魂碑    緑岡神社:長崎県平戸市岩の上町   
慰霊の対象:鯨/創設業種:漁業

■鳥居には緑岡神社とあるが、解説は緑ケ丘神社と表記している。
たくさんの男根のみられる性神社で道祖神が祀られているようだ。ここに鯨魂碑があるのは建立者が氏子だったためだろうか。鯨魂碑のそばに猫塚があった。
(碑文)
鯨魂塚(塚の漢字は土偏がない異体字)
凡有生者必有死◆死為世其死
也有益苟死而益世者死後宜祭
也余業射鯨數年千茲所獲及二
十頭之多其益亦大◆今茲撰地
塚(以)祭其魂鯨魂其安焉
明治廿六年十月十日堀江◆
(大きさ:cm)
本体 36W×111H×20D  台  52W×16H×43D

高  岩  佐世保市江迎町小川内 ( 長崎県 )

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高  岩  佐世保市江迎町小川内

ウィキペディアフリー百科事典の「平戸八景」による説明は、次のとおり。松浦鉄道高岩駅近くから全景が見える。長崎新聞県内トピックス(2014年11月27日更新)も参照。

1.高巌(たかいわ)
種類:崖
概要:佐世保市江迎町小川内(江迎川下流)に位置する高さ30mほどの断崖。現在では「高岩」と書く。古くより知られた断崖で設定当時の平戸往還は崖の真下を通り抜けていたが、崩落が相次いだため、往還は川の対岸に移設された。現在でも補強処理を施していないため恒常的に崩落しており、直下の道路は通行止めにはなっていないが、通行者はほとんどいない。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線高岩駅 – 駅ホームから断崖を眺めることができる。
西肥バス「高岩」バス停 

旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免 ( 長崎県 )

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旧正興寺の古井戸と墓地  佐々町神田免

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
場所がわかりにくいが、佐々町の北東部。国道204号ダイレックス角から松浦鉄道神田駅に向かい、橋を渡って途中から左に佐々神田保育所の方へ入る。墓地説明板から50mほど行った住宅地の右奥(保育所側)にフェンス囲いの古井戸が見える。

旧正興寺古井戸 しょうこう
(北松浦)佐々町 <正興寺> 石井戸(石積) 径1.2m,深3m 正応3(1290) 町史跡 WEB 保存状態良好/飲用不適 井戸の内壁を人頭大の玉石で築き上げる 1 B

佐々町教育委員会編「佐々町郷土誌」平成16年発行の町史跡568頁及び現地説明板は、次のとおり。正応年代に違いがある。

六 旧正興寺の古井戸(昭和48年3月指定)
所在地 神田免156
正応2年(1289)正興寺の井戸として現在まで伝えられている。昔から水が枯れたことはないといわれ、町内最古の堅井戸と思われる。深さ3メートル、口径1.2メートル。

正興寺古井戸     (現地説明板)
正応3年(1290年)正興寺の井戸として現在に伝わるもので、深さ約3m、井戸の口径1m20cm、井戸の内壁を人頭大の玉石で築きあげた技法は、大したものである。
昔から渇れたことなく町内最古の井戸である。
佐々町教育委員会

大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂 ( 長崎県 )

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大悲観大文字  佐世保市小佐々町小坂

小佐々町の大悲観公園を訪ねた。現地説明板は、次のとおり。後ろ側に大悲観岩陰遺跡もあった。小佐々町は、2006年3月31日に佐世保市へ編入している。この項は、本ブログ次を参照。
平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ  https://misakimichi.com/archives/4292

小佐々町指定文化財(第1号) 昭和52年11月8日指定
大悲観大文字
第十代平戸藩主(松浦家三十五代)松浦肥前守源朝臣(観中公)は、徳川幕府から長崎番所諸事心得を命ぜられ、度々平戸・長崎間を往復し、その途中、大別当御茶屋にも立ち寄った。その縁でこの巨巌に「大悲観」の大文字を書いて彫らせ、その下に観音を祀ったものである。観中公は当時大名の中でも屈指の書家として知られていたという。
ここは、古来平戸八景の一つとして、また霊地としても世に知られてきた地である。
平成9年2月  小佐々町教育委員会