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大正十一年頃のガラス写真 116ほか 興福寺

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大正十一年頃のガラス写真 116ほか 興福寺

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
116,117  (興福寺)

目録番号:2862 興福寺境内(1)
〔画像解説〕    超高精細画像
興福寺は元和年間(1623年頃)に創立されたという黄檗宗の古刹で、現在は寺域が県指定史跡となっている。右手は元禄2年に再建されたものが慶応元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)に再興された同寺本堂の大雄宝殿である。よって撮影はそれ以降の明治中期とみられる。この再興には部材を中国で切り組んで舶載し、中国人工匠が渡来して建設に当たった純中国式の建物であるため、年代は比較的新しいが国の重要文化財に指定されている。左手の重層・入母屋造りの建物は、元禄4年(1691)の再建後、享保15年(1730)に重修された鐘鼓楼で、現在は県の有形文化財に指定されている。鐘鼓楼から本堂(大雄宝殿)奥に屋根が一部みえる媽祖堂へと延びる歩廊は現存しないが、その手前の石造の勾欄や堂前の蘇鉄などは今も残る。鐘鼓楼の現在は剥げ落ちた彩色が鮮やかに施されている。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号116,117は、長崎市寺町「興福寺」である。柱の列の同じような写真だが、「本堂(大雄宝殿)」と「媽祖堂」前の別々だろう。
長崎大学データベースの目録番号:2862「興福寺境内(1)」は、「本堂(大雄宝殿)」を撮影している。「媽祖堂」は左奥にあり屋根の一部しか写っていない。
「鐘鼓楼から本堂(大雄宝殿)奥に屋根が一部みえる媽祖堂へと延びる歩廊は現存しない」と解説している。

整理番号116は、氷裂式組子の丸窓があるから、「本堂(大雄宝殿)」である。これに対し、整理番号117は、さらに左奥の「媽祖堂」建物の墓地側に立ち、「媽祖堂」前と今は現存しない鐘鼓楼へ延びる「歩廊」を撮影している。
後ろに見えるのが、「本堂(大雄宝殿)」の屋根の一部であろう。

大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原

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大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
095,140,201  (福田千本松原)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号095,140,201は、長崎市福田本町海岸の「千本松原」であろう。かつて台場も築かれた。遠くの島は、伊王島と思われる。
「千本松原」のあった場所は、現在の長崎市立福田中学校グランドと長崎サンセットマリーナ(ここは海岸埋立地)の間の海岸通り一帯となる。昭和25年に松食虫のため全部枯れ姿を消した。
絵葉書は、HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきから。

長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備  2013年5月

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長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備  2013年5月

2013年5月3日(金 憲法記念日)快晴。長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備。参加11人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
川原公園前バス停9:40—小池上道塚9:57—熊の岳中腹—熊の岳遊歩道入口11:40(昼食)12:15—徳道里程道塚13:07—鶴山14:11—旧町境14:45—サイクリング道出合15:01—黒浜ダム尾根—展望ピーク15:22—黒浜16:40(徒歩距離 約11km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施中。今回はその第3回目。明治道塚が残る「高浜村路」を解明する。
川原村から見た「高浜村路」という意味。熊の岳中腹の旧道を通り徳道まで上がる。長崎半島東回りみさき道の1ルート。その先の二の岳麓を行く道は、野母崎ゴルフ場内となって喪失。脇岬へ向えないので、今回は黒浜へ下る。長崎半島を横断した。

川原大池を見て出発。小池を埋立てた三和記念公園上の高台三叉路に、道塚「東高浜 西脇岬」はあった。現在、三和公民館展示ホール中庭に移設されている。「西脇岬」は前回踏査済み。今回は「東高浜」へ向う。
熊の岳中腹の旧道は、現在の車道左右沿い林間内に良く残っている。道幅も広く快適な歩きができる。熊の岳山頂へは登らず、右方へ進むとやがて「熊の岳遊歩道」の途中に出る。トイレがある駐車場で昼食。

午後はサイクリング道路大カーブまで尾根伝いの道を踏査。戻って徳道の人家裏を行く。これが「高浜村路」で、ゴルフ場管理事務所内の地蔵道塚へ通じる。「みさき道本道」に入り、徳道三叉路の里程道塚に出る。
みさき道の途中から、「鶴山」目指し近道を取る。快晴のため「鶴山」からの展望は相変わらず良い。みさき道へ戻り、旧町境まで行く。岳路方面へ急斜面を下るとサイクリング道路へ出る。

そのまま黒浜ダムの稜線尾根道へ入る。五洋建設の測量杭沿いにアップダウンして行くと、やがて標高157.5m三角点ピークに着く。ここの展望もすばらしい。木立を少し切っている。黒浜まであと2つのピークを越して下る。アンテナ塔へ出ると、黒浜ダム駐車場はすぐ近くである。
今回歩いたどおりでないが、参考のルート地図を2枚載せる。

第4回は、「寛斎帰路長崎往還道」の踏査と草刈り整備。5月19日(日)午前9時30分、三和行政センター前広場に集合。西大道道塚—平山—土井首—茶屋道塚—二本松道塚−大浦石橋まで歩く。距離 約10km。折込鋸・軍手・弁当・雨具持参。雨天のときは、5月26日(日)。

大正十一年頃のガラス写真 080ほか 諏訪神社の長坂・神燈

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大正十一年頃のガラス写真 080ほか 諏訪神社の長坂・神燈

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
080,169  (諏訪神社の長坂・神燈)

目録番号:6033 諏訪神社の長坂(6)

目録番号:5092 諏訪神社神燈
〔画像解説〕
明治後期から大正初期(1900年前後)頃の手彩色の絵葉書。諏訪神社は秋のくんちで有名な長崎の氏神である。諏訪神社の神燈と周囲の風景を写した絵葉書であるが、得られる情報はほとんどない。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号080,169は、長崎「諏訪神社」の長坂と神燈であろう。
長崎大学データベースには、目録番号:6033「諏訪神社の長坂(6)」と、目録番号:5092「諏訪神社神燈」に、同じような作品がある。

現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。
長坂の下に、日本三大くんち「長崎諏訪神社お宮日」に奉納される踊り場の広場があり、大鳥居の列が写っている。長坂の石段が、無料で見物できる特等席となる。
神燈は、長坂上の大門に吊るされたものであろう。山の稜線で確認できる。

大正十一年頃のガラス写真 076ほか 諏訪神社の回廊・手水場

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大正十一年頃のガラス写真 076ほか 諏訪神社の回廊・手水場

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
076,249  (諏訪神社の回廊・手水場)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号076,249は、長崎「諏訪神社」の旧回廊と旧手水場であろう。
現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。

回廊は、背後の山から諏訪神社だろう。長坂上の大門の左右にあり、改修されている。太鼓楼の先端石垣のところから確認できる。手水場も大門と回廊が奥に写っているから、諏訪神社だろう。現在は場所が移されているが、石材は当時のものである。

大正十一年頃のガラス写真 075ほか 諏訪神社の社務所

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大正十一年頃のガラス写真 075ほか 諏訪神社の社務所

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
075,118,297  (諏訪神社の社務所)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号075,118,297は、長崎「諏訪神社」の旧社務所であろう。
1枚目と3枚目は、長崎公園側から、2枚目は拝殿側から撮影している。
現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。

同じ旧社務所の玄関は、HP「長崎ビフォーアフター ぼくらの古写真」に投稿されている。「戦前の諏訪神社の本殿横での祖母の記念写真です。カメラの後方は長崎公園です」とあり、説明は合致するので参照。  http://naagle.com/photos/view/229

大正十一年頃のガラス写真 072ほか 諏訪神社の拝殿・中門

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大正十一年頃のガラス写真 072ほか 諏訪神社の拝殿・中門

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
072,119,124,290  (諏訪神社の拝殿・中門)

目録番号:2866 諏訪神社境内(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
長坂を上がり総門をくぐった正面から、左側に肥前有田(現佐賀県有田町)から明治4年(1871)に献納された高さ約2.7mの陶器製常夜燈、街灯、右側に明治3年(1870)奉納の青銅の馬、明治2年(1869)に再建された諏訪神社中門の風景である。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真ではみえない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。諏訪神社は現在の松森神社の地に、寛永2年(1625)再興され、慶安4年(1651)現在の場所に遷宮した。この中門は延寳7年(1679)に創建され、享保3年(1734)の改修後も度々修理が行われたが、安政4年(1857)の火災により焼失した。明治2年(1869)に再建され、さらに昭和58年(1983)御鎮座360年を迎えて大改修が行われた。

目録番号:5094 諏訪神社(7)
〔画像解説〕
明治後期から大正初期(1900年前後)頃の手彩色の絵葉書。長崎市諏訪神社の拝殿。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。明治初期の古写真や手彩色の絵葉書で、数多く紹介されている。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号072,119,124,290は、長崎「諏訪神社」の旧拝殿・旧中門であろう。
長崎大学データベースには、目録番号:2866「諏訪神社境内(1)」、目録番号:5094「諏訪神社(7)」などの作品がある。

現在の社殿は、御鎮座360年(昭和58年)、370年(平成6年)を迎えて、2度の造営が行われ完成した。当時とは建物の様子が変わっている。
旧中門は、現在の拝殿坂段の上部途中にあり、拝殿との間に回廊の屋根を渡していた。中門とも取り払われ、門は長坂上の大門のみとなっている。

長崎の西空の夕日  13−02

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長崎の西空の夕日  13−02

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜  3  2013年 4月 3日の18時36分頃
写真  4〜  6  2013年 4月 4日の18時42分頃
写真  7〜 10  2013年 4月19日の18時40分頃
写真 11〜 12  2013年 4月27日の18時51分頃