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陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (2)

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陸軍省要塞標石探し  佐世保市高橋輝吉氏の足跡 (2)

2007年(平成19年)8月31日付読売新聞夕刊と同記事が9月2日付佐世保版に掲載があった。東京都小笠原諸島まで調査しているので、写真とも続報として紹介する。

多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

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多良見町に見る自然石の「立石」と「石仏」

上の写真のとおり、多良見町に不思議な自然石の立石が建てられている。

最初の①は、長崎バイパス前岳トンネルの北上の山で大山と言われるピーク。四等三角点があり、標高は424.2m。長崎市畦別当町と諌早市多良見町山川内、同西川内の三方境にある。
これは別項「藩境塚」ですでに紹介している「大村郷村記」壱岐力村(伊木力村)や浦上木場村に記された三方境折木境塚の塚上「立石」である。「山」と刻みがある。「郷村記」よる寸法は「高さ四尺(121.2cm)廻り五尺(151.5cm)」。ここは西川内の小字「折木」か山川内の「大山」。

次の②は、多良見町西川内の虚空蔵山公園登り口となる西川内高部配水池のタンク裏にある。これは多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊751頁に次のとおり記している「石仏」である。
11.石 仏 西川内から中里へ越える峠の畑の中にある。立石峠の「立石」と同種のものであろう。余所(よそ)から悪霊(病気など)が入って来るのを塞ぎとめる<塞ぎの神>ではなかろうか。
畑が今、配水池となっている。寸法は高さ120cm、根元の全横80cm、石の厚さは20cm。台座廻りは125cmだった。ここは西川内の小字「石佛」。

次の③は、多良見町元釜の高岩神社の参道途中左に建つ。同「多良見町郷土誌」774頁に次のとおり記している「巨石」である。
1.高岩神社 『諌早日記』文政八年四月四日に「大草村元釜金毘羅山」と記されたところで、一般には「こんぴらさん」といわれている。登山口に明治十三年建立の「高岩神社」の鳥居がある。尾根筋に出ると眺望が展け絶景である。路傍に巨石が建つ。嘉永六年の大草村地図にも載っているものである。…
以前に水洗山からの下りにこの石は見ていた。寸法は再度行って測ると、高さ170cm、横60cm、巾36cmあった。ここは元釜の小字「下ノ谷」。

最後の④は、まだ現地に行ってないので写真はない。②にも記している多良見町木床・東園境の立石峠にある。同「多良見町郷土誌」757頁に次のとおり記している。
3.立 石 峠 旧喜々津村・大草村の村境の峠。傍らに大きな石が立ててある。道端に「十六善神道 木下又平」の標石がある。ここは喜々津・大草を結ぶ道筋であり十六善神へ参詣する人が通った道であった。
郷土誌には大きな石の写真はない。道端の標石はある。ここは東園の小字「上西ノ浦」か、すぐ下に「立石ノ下」なる小字がある。

以上、多良見町にある4つの同じような格好の石を紹介した。①のみ「山」と刻みあり、他は無刻の自然石である。「郷村記」に記した①との関連から、特に②が寸法が似ていたので少し調べてみた。「境石」か「石仏」か。小字名もいろいろあり、地元でもう少し詳しく調べていただければ幸いである。
なお、同郷土誌は稿の前書きとなる721頁、「三、野の仏たち」は次のように記していた。

路傍の祠をたずねて町内くまなく歩いたつもりだが、まだまだ失礼している祠もあるかもしれない。それを思うと何だかバチがあたりそうで気が安まらない。
さて、この写真の石(注 高岩神社 こんぴらさん参道脇に立つ巨石が掲載されている)は何のいわれ、目的でたてられたものかはっきりとは判らない。旧大草村と旧喜々津村の村境、立石峠にも大きな石が据えられているし、中里名と西川内名の名境の峠の畑の中にも石仏(いしぼとけ)と称する巨石が立っている。
佐瀬の黒崎海岸近くにあるエビスさまも自然石である。これらの石は、一見してただの石ではない、と思わせる何かをそなえているのである。
人はこれに霊気を感じ、禍霊(まがつひ)の侵入を遮断するカミ—塞の神や、海の幸をもたらす蛭子神としてあがめまつったのであろうか。
この稿のタイトルに用いた「仏たち」は、如来、菩薩、天、神、明神、権現などの総称である。人々はこれら「仏たち」にすがって、豊かな収穫と家内安全をこいねがいつつ、つつましくくらしたことであったろう。他に記念碑等も二、三記録した。

この稿は、中里名にお住まいの田中秀穂氏がまとめられたものである。「多良見町郷土誌」に①の境塚立石の紹介がなかったからふれてみたが、よく読むと「山」と刻みのある①の立石は、「山川内」の項768頁に「6.山守神社 むかしは道が谷川ぞいにあったらしく、この神さまも谷底にあったそうである。このずっと奥「大山」に「山ノ神」があるというが未確認である。」と記述があり、これが「郷村記」の記す境塚立石であり、奥の「山ノ神」ではないだろうか。田中氏には先日お会いし、この報告はした。
同氏の話では、高岩神社③の石は格好が陽石に似ており、神社の手水を陰石に見立て陰陽石と考えられるとのことであった。④立石峠については、先日調査した結果を別項に載せた。

長崎街道の郡境石  諌早市旧九山峠

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長崎街道の郡境石  諌早市九山峠

長崎街道の「九山峠」と言われた現諌早市多良見町化屋と久山町の境に、復元されてある。井樋ノ尾岳の北麓で水神清水祠の先となる。
多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊733頁の説明は次のとおり。

2、郡境石
往時の長崎街道の路傍にある。昔のものは失われ、もとの位置に再建したもの。文化三年(1806)書かれた「筑紫紀行」には「貝津から…又一里行けば九山村、人家二〇軒計り茶屋あり、又十丁ばかり登り行けば九山峠、此所に郡境の表(しるし)、南は高来郡北は彼杵郡とあり。…」と記されている。

大村湾の風景(1)  喜々津から伊木力と琴ノ尾岳へ

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大村湾の風景(1)  喜々津から伊木力と琴ノ尾岳へ

平成19年9月18日、喜々津から伊木力と琴ノ尾岳へ行く。県道207号と33号線沿いの大村湾の風景。のぞみ公園や琴ノ尾岳展望台などから写した。長崎空港がすぐ近くに見える。道路が整備され、快適となった。

中尾ダムの風景  長崎市田中町

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中尾ダムの風景  長崎市田中町

平成19年9月19日、復元された「鮎帰橋」を見に行ったついで、ダム周辺を写した。中尾ダムは平成12年完成。前からあった吊り橋「中尾大橋」の四隅に地元伝統芸能「中尾獅子舞」のコミカルなモニュメントが設置されていた。ダムをまたぐのは長崎高速道。風景が一変していた。

復元された鮎帰橋  長崎市田中町中尾ダム

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復元された鮎帰橋  長崎市田中町中尾ダム

インターネットHP「石造アーチ橋を訪ねて」を見ていたら、長崎市田中町の中尾ダムに「鮎帰橋」という石橋があり、復元されていると記事があり、訪ねてみた。吊り橋の中尾大橋を渡り、中尾中央公民館の先に城戸岩橋があり、このすぐ下流側に「鮎帰橋」はある。

大正6年造られた橋は、写真のとおり平成12年中尾ダムの建設によって橋は新しくなって、親柱は昔のものを取り付けているが、橋全体が当時のまま復元されたのでなく、近くの花壇の場所に、それを模したものが昔の橋の輪石を利用して造られ、公園として整備されていた。

「鮎帰り」というとおり、すぐ上流にはやや高い滑滝の岩面が見られた。なお、中尾ダムの風景は「長崎の風景」の項に別掲した。

伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった 

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伊木力・大草の旧村境尾根に「郷村記」が記す境塚があった

藤野保編「大村郷村記 第四巻」図書刊行会昭和57年刊の「壱岐力村」(伊木力村)の項、2〜3頁に「村境并他領境之事」が記されている。
この辺りは、当時、所領の違う村が山間で境をなし、伊木力村・長与村と畦別当は浦上木場村で大村領、大草村は佐賀領諌早、古賀村は天領だったが戸町村と交換されて大村領となる。
「郷村記」を読んで関心を持ったのは、大村領の伊木力村と佐賀領諌早の大草村の村境に多数の境塚と最合塚(両藩で築く)が築かれていることである。
「郷村記」は、安政三年、大村藩が藩政改革の一環として、一定の調査項目にしたがって藩内の実態調査をおこない、各村ごとに稿をまとめ、これを藩庁において集大成し、文久二年(1861)に完成したものである(同著凡例)。

「郷村記」の記述は次のとおり。
「一 佐賀領諌早境海濱田川尻より壱岐力村・浦上村・諌早領三方境折木境塚まで壱里拾弐町五拾六間半、此間諌早領との境なり。」
以下、この詳細として10区間の記述がある。ここに合計161+数拾基の境塚が表われ、その内の7基は最合塚である。境界に紛争があった場合に境塚が築かれるが、その詮索は今回行わず、文久2年から146年経過した現在、この境塚がどれほど残っているか、現地に行って調べてみることとした。

今は諌早市に合併された多良見町。旧伊木力村と旧大草村の村境は前の字名でわかると役場で聞いた。すなわち郷がついていたのは大村領、名は諌早領である。これから判断した当時の村境は、図のとおり赤線となった。
全部を歩いて探してみたいが、とりあえず境塚の現存する可能性が大きい大山の「峰尾境」へ行ってみた。「大山」とは一つの峰の名というより一帯の山地をさしていう名称。喜々津では”ウマヤマ”と訛ると、「多良見町郷土誌」新版平成7年刊「山岳」の説明にあった。
ここは「山川内郷」と「西川内名」の境で、車道が上がり一番わかりやすい。バイクで行き易かった。四角山林道の終点出合に車を置き、植林地内の道を上って尾根に出た。写真を写しながら、大山の三角点まで行った。往復で約3時間を要した。

今回調査したのは地図の赤線点線区間。この手前の尾根積み石は最近の地籍調査のもののようで測量杭が多い。「郷村記」の関係部分の記述は次のとおり。
「同岩首最合塚より三方境折木最合塚まで八町四拾間(944.8m)、此間峰尾境にて境塚 塚数四拾三、内二ッ最合塚 あり
塚上立石 高廿四尺廻り五尺 あり、左右山なり、諌早領との境此處にて終る」

ここに境塚が現存することは、「多良見町郷土誌」旧版昭和46年刊111頁、「一〇、玄蕃さん(山川内)」の項の末尾に次のとおりの文があった。
「山川内部落を取り囲む山は諌早領地、長崎天領境をなすのでその領境には石を盛った塚があって、三年ぐらいに双方立ち合って境の確認がなされて来ていて、石は所々に今も残っているという。」
著者は話に聞いているだけらしい。地元でこういった史跡の調査がされず、新版の郷土誌で記述が省略されているのは惜しく感じる。過去の「諌早史談」にも掲載はないようである。

この区間は、畦別当から大山に登り鎌倉山・普賢岳・水洗山へ行く縦走路の一部。大山のピークには朝霧山の会の指導標があり、四等三角点もあった。「郷村記」に記していると思われる「立石」は「山」と刻まれたものが三角点のすぐ傍らに立っていた。高さは1.2mの平石。基盤は一辺2m位の方形囲いの石組み。
「郷村記」の立石の記述は、「高廿四尺」とあるが、これは字の誤りで「高サ四尺」なら合う寸法だ。木場村235頁の記述は「三方境建石 高サ四尺、廻り五尺余の野石なり」とある。この立石は石仏ではないようだ。

最合塚を含めた境塚が当時の姿のまま、整然とこの峰尾境に数多く残る。苔むした石は緑の光に輝くものがあり、歴史の奥深さが感じらる。塚数は多く数え損ねた。
西川内虚空蔵山公園の道先なので、車で簡単に行ける。山道もあまり荒れていない。地元で詳しい調査をなされるよう期待したい。

なお、最後の2枚の写真は、9月22日調査した「郷村記」に記す「岩首最合塚」の下斜面で見かけた境塚。ここは大山林道の上下の植林地内にあった。群集落の小林氏からは集落の先の方の尾根に境塚が残っているとも聞いている。

琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

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琴ノ尾岳烽火台跡  諌早市多良見町佐瀬

諌早市多良見町佐瀬字竹山、琴ノ尾岳(451m)南側の中ほど(410m)の斜面に造られている。無線中継所塔の下の小駐車場に案内標識があり、遊歩道を下ってすぐのところである。現地説明板は写真のとおり。
詳しくは、多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊192〜195頁に次のとおりあった。

(二)琴ノ尾岳狼煙台

寛永十五年(一六三八)、島原の乱は終わった。この乱によってキリシタン勢力の巨大なることを知った幕府は、鎖国体制を強化しなければならなくなっていた。それは、鎖国令を出すことも必要だが、そのほかに異国船の動向に警戒を強化することであった。当時としては、「早継ぎ飛脚」もその一つだろうが、あらかじめ合図の意味を決めておけば事足りる「狼煙」による方法があった。これは、異国船の入港を見つけると、すぐに近隣の諸大名に知らせることを企画したのだった。長崎奉行に命じて、長崎村の斧山に狼火山番所と野母村の権現山に野母遠見番所を設置した。遠見番所は、異国船の船影を見つけると、「白帆注進」によって、早く長崎奉行所に知らせるという方式で、一方、長崎の狼火山番所(鳴滝町)は、異国船来航の知らせの狼煙をあげ、大村領に所属する琴ノ尾岳狼煙場と諌早領の多良岳狼煙場とに知らせ、長崎警備の体制を取らせることにした。

この「琴ノ尾岳狼煙場」跡が旧伊木力村に残っている。それは山頂付近の傾斜面に存在している。以前に実測した時の構造の大きさは、一辺約九・五メートルの方形の基壇の上に、外径約三・五メートルの円形の竈跡がある。構造は、専ら安山岩の石材によるが、かなり散在して、竈跡も土砂が堆積している状態であった。それで構造は破壊されて、往時の姿からかなりの変貌をしてしまっていたが、、現在、修復された形で存在している。

大村藩が残した『郷村記 伊木力村』を見ると、「狼煙場蹟之事」として、次のように記述してある。
狼煙場蹟之事
一 壱岐力村琴の緒嶽の半腹に狼煙竈の跡あり、古来より長崎異変の節、長崎狼火山の狼煙、此嶽にて請継、此火平戸錐崎へ通する定なり、然共試之に曇天且雲霧深き時分ハ、此狼煙分明に通し兼る故、文化六年(一八〇九)平戸よりの相談に依て、長崎府司に達し止之、飛脚を以通するよふに極るなる
(『郷村記 伊木力村』図書刊行会 刊 二五頁)

この狼煙は、平戸藩に報知する目的もあったと記してある。だが、じゅうぶんにその機能が発揮できなかったところから、この一文によると、平戸藩からの申し出によって長崎奉行の判断によりこれを廃止したという。その文化六年の前年(一八〇八)は、長崎でフェートン号事件が起こっている。この事件は、イギリス船フェートン号が不法に長崎に入港してきて、オランダ商館員を捕らえ、そして、長崎奉行所には、薪水、食糧などを要求し、それを獲得して退去するという事件である。長崎奉行の松平康英は責任を取って切腹した。このイギリス船の暴挙は、ヨーロッパでの国際戦争の流れの一環であった。オランダ国は、フランス帝国のナポレオン皇帝の支配下にあって、有名無実化していた。これを機に幕府は海防を強化し、再編成をしなければならず、それでこの狼煙場は、じゅうぶんに対応できなかったことが廃止の直接的契機となったと考えられる。

狼煙場跡は、この地から約一キロメートル北側にも一基ある。これは『郷村記』には記されていない。位置にしても「長崎狼火山の狼煙」と直接には、「請継」ぐことはできないところにある。どのような意味をもち、働きをするものか容易には断定できない。本来の「狼煙場」がなんらかの事故により狼煙を上げえなかった時、その補助的意味をもつものであろうか、という見方もある。 

天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

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天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石  諌早市多良見町山川内

大石一久先生の研究によって近年解明され、本が発行されている話題の墓石。これまではただ「玄蕃(ゲンバ))さん」の石と呼ばれていた。
諌早市多良見町山川内にある。県道33号線がJR長崎本線に平行して反対側山腹を走り、伊木力へ下る手前「下川内」バス停の対面に赤レンガの線路ガードが見える。このガードの真裏となる。道順は案内標識が整備されている。現地説明板は次のとおり。

天正遣欧使節 千々石ミゲルとみられる墓石

千々石ミゲルは、天正年間(一五八二—九〇)にローマに派遣された天正遣欧使節四人のひとり。千々石町の出身で、永禄十二(一五六九)年ころに生まれ、十三、四歳で使節となる。帰国後、天正十九(一五九一)年にイエズス会に入会するが、慶長六(一六〇一)年ころに同会を脱会。その後、大村藩に仕え、神浦・伊木力に六百石の食禄を受けている。その間、名を清左衛門と改めて妻を娶り、四人の子息に恵まれた。また、慶長十一(一六〇六)年の大村藩によるバテレン追放令で、清左衛門はキリスト教を邪法と進言し、自らもキリスト教を棄てて日蓮宗に改宗したとされる。
その直後、理由は定かでないが、清左衛門は藩主大村喜前の愛顧を失って弾劾を受け、有馬領(島原半島)に移る。ただ、そこでも厳しい仕打ちをうけ、元和八—九年(一六二二—二三)年までは長崎に逃れたといわれている。
この墓石は、千々石ミゲル(清左衛門)夫妻のものとみられ、施主は墓石の裏面に名を刻む四男の千々石玄蕃と考えられる。銘文によれば、ミゲルは寛永九年十二月十四日(一六三三年一月二十一日)、妻は二日後に亡くなっているが、墓石には「大村に恨みをもって死んだので、大村の見えるこの地に、大村を睨みつけるように葬った」という伝承が伝わっている。
ミゲルの波乱に満ちた生涯を物語るこの墓石は、天正遣欧使節を今に伝える国内で唯一の証でもある。

幸仏橋  諌早市多良見町野川内

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幸 仏 橋  諌早市多良見町野川内

諌早市多良見町野川内に、小さいが珍しい石橋がある。長与から行くと松ノ頭トンネルを越え、伊木力へ下る県道33号線の中間ほどに「幸仏」(こうぶつ)というバス停がある。その下の谷間の川に架かる。
ここにコンクリート橋が2つある。小さな方の橋の欄干のすぐ下流側の下に並んで、写真のとおりアーチの石組みのみ残す古い石橋。この道は往時、大村から伊木力へ船で渡った大村殿様の「長崎往還道」道筋のようである。

多良見町「多良見町郷土誌」平成7年刊771頁による説明は次のとおり。
4 幸 仏 橋
町内に残る唯一の石造りアーチ橋である。橋造り職人の作とは思われない。割石を組んだだけの素朴な橋である。

なお、HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

第 149 番  幸 仏 橋    西彼杵郡多良見町野川内郷
年代は不詳(江戸時代と言われる)  長さ 約3.5m  幅員 約1.3m
大村藩の殿様道(長崎往還)に架かっていた橋だといわれる。
橋のすぐ上にお住まいの、前川さん(68歳)にうかがうと、この橋は往還であり、琴ノ尾岳の烽火台に、向かう大切な橋だそうで、前川さんの祖父の時代にはすでにあったそうだ。
大村のお殿様は、諫早領を通るのを嫌い、大村湾を渡って伊木力船津の海岸から、この橋を渡り長与・川平経由で長崎に赴いたと言われる。
〜県の河川課川内係長の情報で多良見町社会教育課の荒木氏から教えていただいた。