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鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋(縮小復元)  鹿児島市池之上町 若宮公園内

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鹿児島県のアーチ式石橋 大乗院橋(縮小復元)  鹿児島市池之上町 若宮公園内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。次記事も参照。

№1,513  大乗院橋(縮小復元)

鹿児島市池之上町 若宮公園内
移設後   橋長:7.25m  拱矢:1.97m
移設:平成10年(1998)3月
照国神社前から国道10号線を1.9Km北上、春日町交差点を左折、交番を左に見て150m先に若宮公園があります。

大乗院橋 (現地説明板)
「大乗院橋は、薩摩藩の祈願所であった宝成就寺大乗院(現在の清水中学校のところにあった寺)の参道に架けられた橋で、もともと板橋でしたが、天保13年(1842)岩永三五郎により石橋につくりかえられました。
大乗院橋は長さ14.5m、幅4.2mで、橋の中央が道路の両側より大きくせりあがり、アーチの丸みが強く美しい石橋でした。
しかし、昭和63年(1988)夏の大雨により、大乗院橋のアーチを形作る輪石などの一部が破損・流失しました。
平成10年(1998)3月、旧大乗院橋の残された石材を主に使用し、当若宮公園に2分の1に小型化した石橋が完成しました。その姿は往時の面影を残しています。」

垂水千本イチョウ  垂水市新御堂

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垂水千本イチョウ  垂水市新御堂

垂水市観光協会HP「鹿児島県垂水市の観光案内-たるみずinfo」による説明は、次のとおり。NPO法人かごしま探検の会により「世間遺産・僕立公園」に指定されており、見頃は12月上旬となっている。垂水市役所前の県道71号線を東へ、車で約10分(約4.7km)

垂水千本イチョウ
30年程前、中馬吉昭氏が先代から引き継いだミカン山(荒れ放題)を前に思い描いたのはここに銀杏を植え東京原宿にある銀杏並木を再現できないかという事だった。中馬家は畠山重忠の流れで垂水伊地知家の分家にあたり氏で29代目になる。東京のデパートをやめ、帰郷した氏は鹿児島の不動産屋に勤める傍ら休みの日にコツコツ切り開き(平地なら機械もはいるが傾斜のきつい段々畑、ほとんど手作業)最初植えたのは7本だった。(木市で買ってきた)現在1200本

銀杏の見ごろは毎年異なるが22年度は11月25日~12月10日、23年度は12月1日~20日だった。気候の変化(紅葉する頃の寒暖差が大きい程きれいである)に影響される。中馬氏が一番恐れているのは台風で実が落ちてしまうこと。熟さない内に落ちると収穫ゼロで紅葉も葉が傷むと深い黄金色にならない。
銀杏だけでなく駐車場近くに樹齢100年以上といわれる山桜がある。氏は春も楽しめるよう山桜の苗100本を植えたそうです。

中馬吉昭氏のプロフィル
千本銀杏の中馬さんの事は県内はもとより最近は全国レベルにまでなったが他の顔もいろいろとおもちで自宅近くにある手貫神社の氏子として月1回の清掃は欠かさない。この手貫神社には氏の先祖中馬重頼が大永2年(1522)肥後氏と戦った時使用した長刀が(約2メートル)保管されている。この長刀、もともと馬込集落の荒人神社に奉納されていたが賊に盗まれた。後に返ってきたが物騒なので今は手貫神社に保管されている。指定はうけていないが今から489年前の戦国武将が戦に使用し(重頼はこの戦で戦死)たものが残っている。

他にも垂水の数々の委員をされ、スタートした当時道の駅たるみず、生産者代表も務められた。午前中は銀杏山の手入れ、午後は読書まさに晴耕雨読の日々です
第1回鹿児島景観大賞「個人)を受賞、 かごしま検定グランドマスターを取得

たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

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たかくまふれあいの森のスダジイ  鹿屋市下高隅町

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。「たかくまふれあいの森」は場所がわかりにくいので、地図を載せる。

たかくまふれあいの森  鹿屋市下高隅町

「たかくまふれあいの森」は鹿屋市下高隅町の谷田バス停近くの林道から入り、1.4kmの地点にある。この森は、森林保護・森林教室用として大隅森林管理署が管理している「水源かん養保安林」である。低地ながら、南日本特有の照葉樹林をつくるアカガシ、シイノキ、タブノキ、イスノキなどの天然広葉樹が原生に近い形で残っており、学術的にも貴重な場所である。

森の中のスダジイ(イタジイ)の巨木は、推定樹齢250年、樹高22m、幹周り609cmもあり、林野庁の「森の巨人たち100選」に選ばれている。森の近くには「神水の池」と呼ばれる一日当たりの湧水量が190万ℓの神秘的な池がある。「たかくまふれあいの森」は、里山で登山というより照葉樹自然散策や自然観察に適した場所である。近くには九州電力谷田発電所や谷田の滝、観音淵などの名所・遺跡がある。

樹林内は南日本特有の照葉樹林を形成する樹齢250年余りのタブ、クス、シイ、カシなどが原生林に近い形で残されている。80種類ほどの樹木がみられ、それぞれ樹木には樹木名プレートが付けられ、クイズ形式で各樹木の特性等が記してある。

高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

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高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)  鹿屋市上高隅町ほか

鹿屋市街から国道504号により高隅ダムまで行く。高隅山地・高隅城跡・高隅ダム(大隅湖)の風景。
ウィキペディアフリー百科事典、じゃらんnetによる説明は、次のとおり。

高隈山地
高隈山地(たかくまさんち)は、大隅半島中央部の鹿児島湾沿いに連なる山地である。一般には鹿児島県鹿屋市と垂水市との境界付近に横たわる南北約25km、東西約15kmの山地を指し、その中心部にそびえる大篦柄岳や御岳などを含む標高1,000m以上の山岳群を総称して高隈山(たかくまやま)と呼ぶ。
地理
日本におけるブナ林の南限があり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定されている。また、高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地は「高隈山県立自然公園」に指定されている。高隈山(日本三百名山及び九州百名山に選定されている。) 大篦柄岳(おおのがらだけ)- 最高峰、標高1,236m[1]
歴史
古くから山岳信仰の対象とされており、江戸時代末期の毎年3月から4月にかけて盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳、権現岳、中岳、近戸宮を巡る七岳参詣が行われていた。盆山、大篦柄岳、小篦柄岳、妻岳は樹木を御神体としていた。[2]
地質
地質学における高隈山地は高隈山付近から霧島山の南東付近まで連なる南北約60キロメートルの山地を指す。白亜紀に堆積した四万十層群と呼ばれる地層が隆起したものを基盤とし、阿多カルデラ、姶良カルデラ、加久藤カルデラなどの火山活動による噴出物が積み重なっている。
大篦柄岳の西側斜面には第三紀に形成された直径約7キロメートルの花崗岩ドーム「高隈花崗岩体」があり、その周辺部にタングステン、モリブデン、金、ビスマス、ウランなどの鉱脈が存在する。大篦柄岳や御岳などの山塊は、花崗岩の形成に伴い周辺の地層が加熱され緻密なホルンフェルスとなったため侵食から取り残されたものである。

高隈城址
中世に築城されたものと推定される。『三国名勝図会』にみると、永禄(1558)のころは肝付兼続に属し、そのあと伊集院忠棟の所領と変わり、文禄4年(1595)には細川幽斎が豊臣秀吉から与えられている。そして慶長4年(1599)には島津義弘の征韓の軍功によって、また島津氏に復したと記されている。

高隈ダム(大隅湖)
高隈ダム(たかくまダム)は鹿児島県鹿屋市下高隈町古園、一級河川・肝属川水系串良川に建設されたダムである。
かんがいを目的に農林水産省九州農政局が管理する農林水産省直轄ダムで、堤高47.0mの重力式コンクリートダムであり大隅半島では最大規模のダムである。長年不毛の大地であった笠野原台地への農業用水を供給する「国営笠野原農業水利事業」の根幹施設として建設された。ダムによってできた人造湖は旧国名である大隅国より大隅湖(おおすみこ)と呼ばれている。
歴史
鹿屋市市街地の北東部に広がる笠野原はシラス台地と呼ばれる保水力の小さい火山灰土壌の高台であり、川は深い谷を穿っているため農業用水や生活用水を得ることが困難な土地であった。このため地域によっては80メートル以上の深さの井戸を掘り、牛の力を借りて水を得る有様であった。このような状況を改善するために1947年(昭和22年)頃からダム建設の検討が行われ、1959年(昭和34年)に着工され、1967年(昭和42年)3月に完成した。ダムの建設に伴い約200戸の住民が移転を余儀なくされた。灌漑面積は4,807ヘクタール[1](笠野原自体は6,000ヘクタール[2])におよぶ。

肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

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肝付兼経夫妻の宝篋印塔  東串良町川東

現地説明板は、次のとおり。柏原小学校西側の乾馬場という一帯が武家屋敷の続く通り。萩原家武家門のところに石敢當があったが、この通りの奥が熊野神社。宝篋印塔は境内左にある。

町指定文化財[史跡]  肝付兼経夫妻の宝篋印塔   昭和54年4月1日指定
宝篋印塔はもともと仏舎利及び宝篋印陀羅尼経を納める塔であったが、平安時代の末頃から供養碑等にこの形が用いられるようになりました。
この石塔は相輪の宝輪数その他の彫刻、形状等から鎌倉時代のものである。
更に笠石の連弁刻出は肝付氏をあらわしており相輪の文様、伏鉢の刻出は時代的に見て肝付氏二代兼経夫妻のものと言われる。
これは昭和52年に南九州古石塔研究会の黒田清光等によって発見考証された貴重な石塔であります。
東串良町教育委員会

川東の石敢當  東串良町川東

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川東の石敢當  東串良町川東

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。柏原小学校西側の乾馬場という一帯が武家屋敷の続く通り。萩原家武家門の左側石垣下に石敢當があった。最後の写真が柏原港。

川東の石敢當 かわひがし
(肝属)東串良町 石敢當 (自然石、凝灰岩) 高57㎝,幅24㎝,厚13㎝ 元禄14(1701)? 日本の石敢當p159 下方が石垣に埋もれている/上部が一部破損 周囲の石垣から推定すると元禄14の建立となり、それが正しければ、全国で3番目に古い 3 C

辰巳屋氏HP「街並みめぐり」鹿児島県による説明は、次のとおり。石敢当の写真が「萩原宅武家門」のところにあった。

街並みの名称  柏原     所在地  東串良町川東    訪問日  平成21年5月5日
肝付川河口左側にある浦で、対岸の高山郷波見(はみ)浦とともに漁業と交易の拠点であった。柏原が貿易港、漁港として発展をみるのは柏原と唐仁との間の干拓が行われた江戸時代中期以降とされる。
伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では、柏原浦は家数211軒とみえる。河口近くに浦番所が置かれており、郷士29軒は、浦役または番所の役目に就いていたとも考えられる。

萩原宅武家門(江戸前期の武家門特有の門構を今に伝える)
武家屋敷の続く通り
石敢当

柏原海岸・ルーピン畑  東串良町

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柏原海岸・ルーピン畑  東串良町

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。   

柏原海岸・ルーピン畑 東串良町   

志布志湾を望む東串良町の柏原海岸は,白砂青松の海岸線が続く景勝地。日南海岸国定公園の南端にあり、県下三大名勝地に数えられる。東串良から志布志までの海岸は長さ16km、巾500〜700mにおよび優美な景観を見せ雄大である。柏原海岸の広大な砂丘地には毎年春になるとにルーピンの花が咲き乱れ、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。ルーピンは同町の町花で畑は砂丘地の南北約1キロにわたり、約5ヘクタールに約100万本が咲き誇る。4月にはルーピン祭りも開催され、潮干狩り等のイベントで浜辺は賑わう。

柏原ルーピン畑

ルーピンは、海岸沿い約5ヘクタールに約50万本が植えられ、海岸一面は黄色いじゅうたんを敷き詰めたような景観になり甘い香りが漂う。4月には広大な砂丘にルーピンの花が咲き乱れルーピン祭りが盛大に開催される。
ルーピン(黄花ルピナス)とはマメ科一年草の草花で原産はアメリカ・地中海沿岸・南アメリカ。花ことばは母性愛。花のかたちや咲き方から日本では「ノボリフジ」と呼ばれ、藤と同じマメ科の植物で、花の形も似ている。

横瀬古墳  大崎町横瀬エサイ町

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横瀬古墳  大崎町横瀬エサイ町

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

横瀬古墳
【所 在 地】曽於郡大崎町大字横瀬字エサイ町 1427,1428
【種  別】国指定史跡
【指定年月日】昭和 18 年9月8日

大崎町役場から南へ約 3.2km,大字横瀬の平坦な水田地帯にある前方後円墳で,5世紀後半代と推定されている。全長 129m,後円部の高さ 15.4m,前方部の高さ 13m の墳丘を持つ。後円部の中心よりやや前方部よりに,竪穴式石室が露出している。過去に盗掘を受けており,鉄製直刀などが出土したといわれている。石室の葺石には花崗岩が使用されている。墳丘の北側に沿って農道があるために後円部北側は多少削り取られている。また,前方部の端には祠が祀られている。
本格的な発掘調査は行われていないが,かつて後円部から須恵器,円筒埴輪,形象埴輪(楯形埴輪など)が多数出土している。また,昭和 52,53(1977,78 年)年の試掘調査によって,周溝の存在も確認されている。古老の話によると,古墳の周辺の水田の中にも小墳丘が点在していたらしいが,現在は残っていない。おそらく前方後円墳を中心とした古墳群が形成されていたものと思われる。
前方後円墳は,わが国の特徴的な古墳の形式で,円形の墳丘と方形の墳丘が接続した形をしている。命名者は江戸時代の学者で勤王家として知られる蒲生君平である。その発生については諸説があるが,3世紀中頃に畿内で発生し,6世紀の終わり頃まで続く。県内では大隅の志布志湾沿岸に集中して分布しており,その数は 21 基にのぼる。最も古いものは志布志町ダグリ岬の飯盛山古墳であるが,近年の調査で墳丘の一部が残存しており,壺形埴輪などの出土が確認されている。

唐仁古墳群  東串良町唐仁、小新地ほか

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唐仁古墳群  東串良町唐仁、小新地ほか

鹿児島県教育委員会HP「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。国指定史跡碑地しか写していない。

唐仁古墳群
【所在地】肝属郡東串良町
【種 別】国指定史跡
【指定年月日】昭和9年1月 22 日

東串良町字唐仁,小新地,大塚,大塚原にまたがる日本南端の畿内型の大古墳群である。古墳時代前期から後期に及ぶものといわれる。
昭和9(1934)年指定の折は前方後円墳7基,円墳 125基となっていたが,昭和 37(1962)年の調査では前方後円墳5基(うち1基は不明)円墳 113 基,計測不能の円墳 14 基,台帳に記載されてない円墳6基である。昭和 57(1982)年夏に東串良町教育委員会が綿密な調査を行った。それによると前方後円墳7基のうち3基は変形して残っており,円墳125基のうち3基が所在不明で,122 基は所在がはっきりしている。最大の大塚古墳(第1号墳)は周溝をめぐらせた前方後円墳で,主軸の長さ 130m,前方部から周溝の端までの長さ 185m である。後円部の高さは 11m で,その上に大塚神社が建立されている。渡り廊下の下に堅穴式石室があり,内部に舟形石棺を納めている。
大塚古墳の規模は,全国的にみても規模が大きいものに属する。前方部は非常に低く、後円部の本来の高さは 12m と推定される。最高部がけずられて大塚神社が建っている。この形式は前期のものとされる。中期になると前方部が高くなり,後期になると更に高くなる。