月別アーカイブ: 2016年12月

とふりやの高こるせ石・津口北の端の高こるせ石  石垣市大浜 ( 沖縄県 )

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とふりやの高こるせ石・津口北の端の高こるせ石  石垣市大浜

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。国道390号沿い大浜公民館から国道をしばらく下る。右側に牧場があり、この手前の農道を奥へ進む。牧場ブロック塀のところに「とふりやの高こるせ石」がある(写真1〜7)。
あと1つの「津口北の端の高こるせ石」は、国道をもう少し進む。右に大浜海岸展望所があり、ここから沖合を眺めると、はるか彼方の海上に見えるのが「津口北の端の高こるせ石」のようである。ズームでも良く写せなかった。国道先の橋際から海岸へ出ても、この津波石は沖合に見える(写真8〜12)。

とふりやの高こるせ石
石垣市 (石垣島) とふりや 津波石 1771年 国天然 WEB 牧場の一角にブロック塀や石積みの延長として使用→外側からのみ見学可 明和の大地震の前後に島で起きた不思議な現象を記録した『奇妙変異記』に記載/津波大石と違い明和の大津波によるもの 3 C

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

高こるせ石(たかこるせいし)
石垣島南東部の大浜(沖縄県石垣市字大浜船着原)の国道390号線に面した個人牧場と畑地の境界にある津波石です。2,000年前の先島津波でコルセ御嶽(黒石御嶽)に運ばれていた石が、1771年の明和の大津波で再び北方に約600m移動したものと考えられています。大中小の3つに分かれており、合計推定重量は約700トン。「奇妙変異記」には、元々、コルセ御嶽の中に2つの石が並んでいたものが、津波で流されてひとつが畑地(「とふりや」という所)に、もうひとつが沖合にそれぞれ移動したと記録されています。

畑地の石は「とふりやの高こるせ石」と呼ばれ、沖合の石は「津口北の端の高こるせ石」と呼ばれています。今回指定を受けたのは、畑地の「とふりやの高こるせ石」の方です。
この津波石は、現在、牧場のブロック塀や石積みの延長上(南側)として利用されています。塀の外側からの見学ができますが、牛がいたり農作物の栽培が行われていたりしますので注意して下さい。
「とふりやの高こるせ石」は牧場の南端に位置しています。沖合中央にあるのが「津口北の端の高こるせ石」です。

津波大石  石垣市大浜 ( 沖縄県 )

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津波大石  石垣市大浜

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。国道390号沿いの大浜公民館前へ右折し、大浜小学校の先まで行く。崎原公園の北側に「津波大石」はある。
2枚目写真は、津波大石と関係はないが、美崎御嶽近くの「オヤケアカハチ之像」。

津波大石 つなみうふいし
石垣市 (石垣島) 崎原公園 津波石 長径12.8m,短径10.4m,高5.9m 約2000年前 国天然 WEB 公園内/石の上に一面に木が生えている 日本最大の津波石(津波によって打ち上げられた石)/炭素14等による年代測定により約2000年前の先島津波により現在地に移動したことが判明/明和大津波では移動しなかったが回転した可能性は指摘 1 A

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

津波大石(つなみうふいし)
石垣島南東部の大浜の崎原公園(沖縄県石垣市字大浜下屋敷地)にある津波大石は、長径12.8m、短径10.4m、高さ5.9mで、推定重量700トン(最近では1,000トンとも言われています)の巨大なサンゴ石灰岩の岩塊です。牧野清氏によって命名されました。表面に付着したサンゴを炭素14により年代測定した結果、この石は1771年の明和の大津波に由来するのではなく、先島津波と名付けられる約2,000年前の津波によって打ち上げられたものと考えられています。
この津波石は、大浜公民館から海側に進んで行った所の、大浜小学校の東側にある崎原公園の北側にあります。

パイナーカー  石垣市平得 ( 沖縄県 )

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パイナーカー  石垣市平得

HP「石垣市内の文化財 (史跡)」による説明は、次のとおり。国道390号の平得交差点手前、沖縄県警察安全運転学校八重山分校から対面南側の市道へ入る。すぐ「パイナーカー」の史跡説明板がある。

3−2.パイナーカー
この井戸は、長さ約20m、40段の石段があるウリカー(降り井戸)である。ウリカーとは直接水面まで降りて水をくむ井戸のことで、琉球石灰岩の岩盤を削って作られている。
平得村の伝承によると、年代は明らかではないが、井戸のある場所付近がナカントゥと呼ばれていた頃、ウーリヤー(宇里家)に武勇に優れた7兄弟がいて、昼間は彼らが井戸を掘り、夜は神が掘って、この井戸が完成したといわれている。
平得村の共同井戸として、一般家庭へ水道が普及されるまで大切に利用された。また、井戸の周辺からは多くの鉄滓や土器が見つかっており、パイナーカー遺跡としても知られる。 [碑文より一部抜粋]

パイナーカーは石灰岩の岩盤を削り、斜面に40段の石段を築いて直接水際まで下りて汲むウリカー(降り井戸)です。井戸底までの急勾配の通路は約1m、長さは約20m。地表から垂直に約11mの深さで底に達します。

仲道の三番アコウ  石垣市登野城 ( 沖縄県 )

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仲道の三番アコウ  石垣市登野城

沖縄県環境部環境再生課HP「おきなわ緑と花の広場」沖縄の名木百選による説明は、次のとおり。石垣市登野城の市街地、平真郵便局手前の国道390号とぅーばらーま記念碑五叉路交差点のところに、「仲道の三番アコウ」はある。  

仲道の三番アコウ
「仲道道(なかどうみち)から七けえら通うけ・・・」と歌われる八重山の代表的叙情歌 「とぅばらーま」ゆかりの地にあり、地元では「三番アコウ」と呼ばれている。
この三番アコウの生育する登野城区には以前まで一番アコウ、二番アコウがあったが枯死し、現在は三番アコウのみが現存している。
これらのアコウは、昔は道しるべや行商人の憩いの場として親しまれた。現在は旧暦8月に行われるとぅばらーま大会の前夜祭が樹下で開催され、歌を刻んだ歌碑が建立されている。
地域の人に守られ、葉を約20mも広げ、大きな緑陰をつくり出している。

認定番号  022
認定年度  平成14年度
樹   種  オオバアコウ
樹   高  13m
幹   周  5.4m
推定樹齢  200年
所在地   石垣市登野城636-2
経度・緯度 24.3377008_124.171275
所有者   石垣市
その他   ■市指定天然記念物■ 「仲道の三番アコウ」平成3年11月3日指定

登野城まつむとぅ家の津波石  石垣市登野城 ( 沖縄県 )

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登野城まつむとぅ家の津波石  石垣市登野城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。国道390号が石垣島地方気象台の先、仲道交差点で右へ曲がるが、そのまま直進し住宅地に入ると、左へ入る八重山そば「まつむとぅ家」の案内標識がある。
下記HPに記録があったから、念のためこの津波石というのを見学し、遺産サイトへ報告した。

登野城まつむとぅ家の津波石 とのしろ
石垣市 (石垣島) 津波石 1771年 WEB(みさき道人) 民家敷地内 同上 3 C

HP「石垣島・東海岸の津波石群」による説明は、次のとおり。

まつむとぅ家の津波石
「四ケ字」に残っている津波石です。住所は「石垣市登野城 685-8」 (3号線仲道給油所北西) ですが、気象台よりもかなり上った、昔ながらの民家の「そば屋さん」の敷地内にあります。住宅街の中にあるので、少し見つけにくいかもしれません。敷地内には古井戸もあります。

石垣市立八重山博物館の展示品  石垣市登野城 ( 沖縄県 )

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石垣市立八重山博物館の展示品  石垣市登野城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。石垣市立八重山博物館の所在地は、石垣市登野城4−1。県道87号桟橋通りを上がり、すぐの沖縄海邦銀行角から右折する。
八重山博物館所蔵「八重山の石敢當」を見学に行ったのだが、ブログ公開はできないので、玄関ホールにあった明和大津波の津波石写真展示コーナーと館内の様子のみ紹介する。

八重山の石敢當 やえやま
石垣市 (石垣島) 八重山博物館 石敢當(石灰岩) 高51㎝,幅37㎝,厚19㎝ 1736-95年 日本の石敢當p.178 上部破損 (正面中央)「太公在此」、(その右)「泰山石敢當」/県内で2番目に古い/起工・修築を意味する「太公在此」の方が主体 3 B

ウィキペディアフリー百科事典による「石垣島東海岸の津波石群」の説明は、次のとおり。

石垣島東海岸の津波石群
石垣島東海岸の津波石群(いしがきじまひがしかいがんのつなみいしぐん)は、沖縄県石垣市の石垣島の東海岸に点在する津波石である。
国の天然記念物(地質・鉱物)に指定されている。

概要
2013年3月27日付で、4箇所の津波石が「石垣島東海岸の津波石群」の名称で天然記念物(地質・鉱物)に指定された[1][2]。その後、2013年10月17日付で、さらに1箇所の津波石が天然記念物に追加指定された[3][4]。

指定の対象となった津波石は、科学的分析や史料によって津波によって移動したことが裏付けられている5箇所の石である。このうち、「津波大石」については、約2000年前に発生した津波によって打ち上げられたことが、付着したサンゴの分析などにより科学的に裏付けられている。残る4つについては、1771年の八重山地震による津波(明和の大津波)で移動したとの記録が、被害状況の報告書である『大波之時各村之形行書』の末尾に収録された『奇妙変異記』に残っている。同書によれば、石垣島の4箇所と黒島の1箇所で計7つの岩塊が移動したとされる[5][6]。

石垣市教育委員会では、天然記念物への指定後に、周辺の環境整備や標柱及び看板の設置を行う予定としている[6]。

天然記念物に指定された津波石の一覧

・津波大石(つなみうふいし)
石垣島南東部の大浜の崎原公園(沖縄県石垣市字大浜下屋敷地)にある。長径12.8m、短径10.4m、高さ5.9mで、推定重量1,000トンの巨大なサンゴ石灰岩の岩塊である。表面に付着したサンゴの年代等を分析した結果、この石は1771年の明和の大津波ではなく、先島津波と名付けられた約2000年前の津波によって打ち上げられたものと考えられている[7][5][6]。

・高こるせ石(たかこるせいし)
石垣島南東部の大浜(沖縄県石垣市字大浜船着原)の畑地にある。2000年前の先島津波でコルセ御嶽に運ばれた石が、明和の大津波で再び北方に約600m移動したものと考えられている。大中小の3つに分かれており、合計推定重量は約700トン[8]。『奇妙変異記』には、元々、コルセ御嶽(黒石御嶽)の中に2つの石が並んでいたが、津波で流されてひとつが畑地に、もうひとつが沖合にそれぞれ移動したと記録されている[5][6][9]。

・あまたりや潮荒(あまたりやすうあれ)
石垣島中部の伊野田(沖縄県石垣市字桃里伊野田)の海岸から約200m離れた畑地内にあるサンゴ石灰岩。推定重量は約300トン[8]。『奇妙変異記』には、元々、あまたりやという浜の沖合約3町(約327m)にあった2つの石が、津波によって浜から約2町(約218m)の内陸に移動したという記載があり、この石に該当すると考えられている[5][6][9]。今回指定されたのは2つのうち、一方のみである[10]。

・安良大かね(やすらうふかね)
石垣島北部の平久保半島の安良(沖縄県石垣市字平久保平久保牧)の浜辺にある。直径7.5m、高さ2.4m。サンゴ石灰岩ではなく流紋岩で、鉄分を多く含んでおり赤く見える[5][6]。『奇妙変異記』には、元々は浜にあったものが、津波で約30間北へ動いたと記されている。通称イファンガニとも呼ばれる[10]。

・バリ石(ばりいし)
石垣島北部の平久保半島の伊原間の東側、トムル崎とヤバガ崎間のヤバガ浜にある。直径9m、高さ3.6m、推定重量220トンのハマサンゴで、津波で打ち上げられたハマサンゴとしては世界最大とされる。中心で2つに割れていることから「バリ石」と呼ばれる。付着したサンゴの分析等から、明和の大津波で打ち上げられたものと考えられている[11]。当初の天然記念物指定から漏れていたもので、地元公民館などからは指定を望む声があった[12]。2013年6月21日に追加指定が文化審議会により答申され[3]、同年10月17日付で指定された[4]。

その他の主要な津波石[編集]

・午ノ方石
石垣島の南西のウマノファ干瀬と呼ばれる堡礁にある。1667年に起きた地震の津波で石垣島南部の海岸に打ち上げられ、明和の大津波の引き波で数km離れた現在地に移動したものと考えられている。『奇妙変異記』には、「ふくらおり石」と呼ばれる岩塊が津波によって石垣島南部の糸数浜からアーサー干瀬に移動したとの記載があり、午ノ方石は「ふくらおり石」であると推定されている[13]。

新川の星見石  石垣市新川 ( 沖縄県 )

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新川の星見石  石垣市新川

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。県道208号によりホテル日航八重山近くの石垣(北)交差点まで行く。左折して次の信号から住宅地内に入り、右のランチフーズビルまで進む。ビルと住宅の間に路地あり、奥まで行って右側を覗くと、カヤ道に「新川の星見石」が見える。
案内標識はなく、新しい住宅が建ち場所がわかりにくいから、所在図を参照。

新川の星見石 あらかわ・ほしみ
石垣市 (石垣島) 天体観測石 高約1m 1670年代? 市教委/WEB ほぼ原位置/周辺は荒廃 宮良長重により設置?/WEBでは、登野城の星見石と間違えて紹介されていることが多い 3 C

ウィキペディアフリー百科事典による「星見石」の説明は、次のとおり。

星 見 石
星見石(ほしみいし)は、沖縄県の八重山諸島において、かつて農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた石である。

概要
八重山では、星の観測すなわち「星見」が漁業や農業に利用されており、農業については播種などの農作業の時期を特定していた。原初的な形としては、山を基準として星の位置を観測し、観測の対象とした星が特定の時間に特定の位置に来ることを季節の指標として、播種などの作業を行っていたと考えられている。
星見石は、山に代わるより精緻な基準として用いられたものである。星見石には、立石状のものと、方角を刻んだ方位石のものがあり、立石状のものには穴が開けられたものと、穴のないものがある。方位石は立石状のものより後の時代のものとされる。

立石状のものの場合、穴のあるものでは穴を通して、また、穴のないものでは頂点を基準として、星を観測した。方位石の場合には、中央の穴に竿を立て、その先を基準とした。星見石と組になる背の低い石を用い、2つの石を基準とすることでより正確な観測を行ったものもある。
観測対象の星としては、群星(むりぶし、ぶりぶし)と呼ばれるすばる(プレアデス星団)や立明星(たつあきぼし)と呼ばれるオリオン座が用いられた[1]。

『山陽姓系図家譜』、『八重山島諸記帳』によると、八重山の頭職であった宮良親雲上長重(みやらぺーちんちょうじゅう)が、1670年代から1690年代にかけて立石状の星見石を八重山の各村に立てたとされる[1]。
現在は、石垣島に3つ(うち1つは石垣市教育委員会蔵)、竹富島に1つ、小浜島に1つの所在が確認されている。
宮古島にある人頭税石は、立石状の星見石とほぼ同じ大きさであり、星見石と同様の用途に用いられたのではないかとの説もある。

各地の星見石
・石垣島登野城の星見石
高さ約145cmの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。現在はさんばし通りを上った自動車のディーラーの隅に置かれているが、以前はその敷地は畑でその中にあったものを移設したとされる。
・石垣島新川の星見石
高さ約1mの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。本来の位置から若干移動されている。
・石垣島大川の星見石
菊目サンゴ石の中央に穴を穿ち、放射状に方位を示す12筋の溝を刻んでいる。中央の穴に竿を立てて星の位置を観測したものと考えられている。大川村にあったものだが、宮良川土地改良事業に伴い1986年(昭和61年)に撤去されて、石垣市教育委員会により保管されている[2]。
・竹富島の星見石
立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石で、中央やや下寄りに穴が開いている。かつては竹富島北部の與那国家の畑にあったが、1953年(昭和28年)に赤山丘を公園として整備した際に移設され、現在はなごみの塔の下にある。
野尻抱影の『日本星名辞典』初版(1973年)では、川平で撮影したとされる星見石が写真付きで紹介されているが、長らく所在地が不明であった。2010年(平成22年)になって、竹富島のこの星見石が同書で川平の星見石とされたものであることが判明した[3][4]。
・小浜島の節定め石
高さ約55cm、幅約130cmの横長の珊瑚石灰岩でできた星見石で、穴が開いている。1976年(昭和51年)7月15日に竹富町の史跡に指定されている[5]。

登野城の星見石  石垣市登野城 ( 沖縄県 )

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登野城の星見石  石垣市登野城

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによる説明は、次のとおり。県道87号桟橋通りを上ったダイハツ(自動車ディーラー)の隅、立石橋の傍にある。

登野城の星見石 のとしろ・ほしみ
石垣市 (石垣島) 天体観測石 高145㎝ 1670年頃 市教委/WEB 隣接地の道路沿いに移設/周辺が花壇化されている 宮良長重により設置/一定の距離をおいて人が座り、目、石、星とを結んで、農耕と関わる星座観測したと言われる 2 B

ウィキペディアフリー百科事典による「星見石」の説明は、次のとおり。

星 見 石
星見石(ほしみいし)は、沖縄県の八重山諸島において、かつて農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた石である。

概要
八重山では、星の観測すなわち「星見」が漁業や農業に利用されており、農業については播種などの農作業の時期を特定していた。原初的な形としては、山を基準として星の位置を観測し、観測の対象とした星が特定の時間に特定の位置に来ることを季節の指標として、播種などの作業を行っていたと考えられている。
星見石は、山に代わるより精緻な基準として用いられたものである。星見石には、立石状のものと、方角を刻んだ方位石のものがあり、立石状のものには穴が開けられたものと、穴のないものがある。方位石は立石状のものより後の時代のものとされる。

立石状のものの場合、穴のあるものでは穴を通して、また、穴のないものでは頂点を基準として、星を観測した。方位石の場合には、中央の穴に竿を立て、その先を基準とした。星見石と組になる背の低い石を用い、2つの石を基準とすることでより正確な観測を行ったものもある。
観測対象の星としては、群星(むりぶし、ぶりぶし)と呼ばれるすばる(プレアデス星団)や立明星(たつあきぼし)と呼ばれるオリオン座が用いられた[1]。

『山陽姓系図家譜』、『八重山島諸記帳』によると、八重山の頭職であった宮良親雲上長重(みやらぺーちんちょうじゅう)が、1670年代から1690年代にかけて立石状の星見石を八重山の各村に立てたとされる[1]。
現在は、石垣島に3つ(うち1つは石垣市教育委員会蔵)、竹富島に1つ、小浜島に1つの所在が確認されている。
宮古島にある人頭税石は、立石状の星見石とほぼ同じ大きさであり、星見石と同様の用途に用いられたのではないかとの説もある。

各地の星見石
・石垣島登野城の星見石
高さ約145cmの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。現在はさんばし通りを上った自動車のディーラーの隅に置かれているが、以前はその敷地は畑でその中にあったものを移設したとされる。
・石垣島新川の星見石
高さ約1mの立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石。本来の位置から若干移動されている。
・石垣島大川の星見石
菊目サンゴ石の中央に穴を穿ち、放射状に方位を示す12筋の溝を刻んでいる。中央の穴に竿を立てて星の位置を観測したものと考えられている。大川村にあったものだが、宮良川土地改良事業に伴い1986年(昭和61年)に撤去されて、石垣市教育委員会により保管されている[2]。
・竹富島の星見石
立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石で、中央やや下寄りに穴が開いている。かつては竹富島北部の與那国家の畑にあったが、1953年(昭和28年)に赤山丘を公園として整備した際に移設され、現在はなごみの塔の下にある。
野尻抱影の『日本星名辞典』初版(1973年)では、川平で撮影したとされる星見石が写真付きで紹介されているが、長らく所在地が不明であった。2010年(平成22年)になって、竹富島のこの星見石が同書で川平の星見石とされたものであることが判明した[3][4]。
・小浜島の節定め石
高さ約55cm、幅約130cmの横長の珊瑚石灰岩でできた星見石で、穴が開いている。1976年(昭和51年)7月15日に竹富町の史跡に指定されている[5]。

宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ・クワノハエノキ  石垣市石垣 ( 沖縄県 )

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宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ・クワノハエノキ  石垣市石垣

HP「八重山の巨樹」による説明は、次のとおり。石垣市役所前から県道208号により石垣小学校手前まで行き、左へ入ったところに宮鳥御嶽はある。
「3.宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ」は、すでに枯れ死して伐採され、標柱と説明板のみ残っていた。「4.宮鳥御嶽のクワノハエノキ」も、かろうじて生育している。

3.宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ

「リュウキュウチシャノキ」は宮鳥御嶽のイビ門前・東側にあります。
「宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ」の説明板より
県指定天然記念物 宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキ  昭和34年12月16日指定
宮鳥御嶽の境内にはムラサキ科チシャノキ属のリュウキュウチシャノキが自生しています。
この種は、熱帯原産で、北オーストラリア、マレーシア、フィリッピン、台湾の南東にある紅頭嶼に分布し、八重山諸島では波照間島、西表島、石垣島に分布します。
この御嶽は、市街地内にありながら自然林の状態をよく保ち、またリュウキュウチシャノキの北限地として、植物分布学上貴重な地域です。
なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
昭和58年2月28日   沖縄県教育委員会・石垣市教育委員会

石垣小学校の南側にある宮鳥御獄には、樹高7-11m、主幹胸高直径20-70cmもあるリュウキュウチシャノキの大木が古くから残されています。リュウキュウチシャノキは、台湾の隣にある紅頭嶼(蘭嶼)には自生しているものの、台湾を飛び越して与那国島や西表島、石垣島などの海岸沿いの低地林に生育する特異な分布をしており、植物分布の上から貴重な植物です。
宮鳥御嶽のリュウキュウチシャノキは、近年枯死が目立ち絶滅が危惧されています。

4.宮鳥御嶽のクワノハエノキ

「クワノハエノキ」も宮鳥御嶽のイビ門前・東側にあります。
樹種 クワノハエノキ[方言名ビンギ]
科名 ニレ科
推定樹齢 200〜300年
樹高 15m
主幹胸高 直径1.8m 幹周5.6m
※ クワノハエノキの下部は板根状を呈しています。イビ門前の広場の西側には他の樹木も生育しています。

盛加ガー  宮古島市平良字東仲宗根 ( 沖縄県 )

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盛加ガー  宮古島市平良字東仲宗根

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。宮古島市役所前の県道243号を北給油所交差点からファミマの方へ左折、次の信号から右折するが、場所がわかりにくいから所在図参照。

盛加ガー ムイカ
宮古島市(宮古島) 平良市街地 洞井(湧水) 深17.5m 14世紀後半との説も 市史跡 現地解説板/WEB 保存状態良好 大規模な自然洞窟/103段の石段 1 A

宮古島市HPの 宮古島市の文化財 > 史跡26〜50 による説明は、次のとおり。

市指定史跡 盛加がー  指定年月日: 昭和50(1975)年12月11日
水道の発達しないころ、人びとの生活用水は天水と各所に散在するうりがー(洞井)であった。集落はうりがーを中心に形成、発達してきており、宮古の歴史はうりがーを切りはなして考えることはできない。
盛加がー内には小規模ながら貝塚層もあり、周辺一帯からは多くの青磁片、土器片等が豹変採取でき、大きな集落跡を物語っている。郷土史家の稲村賢敷氏は、14世紀後半勢力をふるった与那覇原一党の本拠地をここ盛加がー一帯にもとめているが、異説もあってさだかではない。
盛加がーは、平良近郊ではもっとも規模の大きいうりがーで、石段は103段設けられ、婦女子の踏みしめた跡を残している。