月別アーカイブ: 2015年8月

須刈原の道標  山都町白石 ( 熊本県 )

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須刈原の道標  山都町白石

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道218号大野幣立宮から馬見原側の次のバス停白石まで戻る。国道カーブ地点を横切る「日向街道 白石」の標柱があるので、これを登って行く。視界が開けて四辻となった広場のところに、この道標はある。

須刈原の道標 すがるばる
(上益城)山都町 <日向往還> 石道標 高0.97m,幅45㎝,厚17㎝ 天保12(1841)- 明治4(1871)の間 歴史の道・日向往還 保存状態良好 「右は幣立社あ みち左はやべくま本みち」

HP「百街道一歩の日向往還」4聖橋〜馬見原による記事は、次のとおり。

・「日向往還 白石」の石標の矢印に従って、国道からは右手に上って行く土の山道に入る。
・すぐに左に曲がって、なおも上って行く。
・突然視界が開け右手前方に山並みが見える。明日はここを越えて高千穂に行くのだろうか。
・なおも山道を行くと、左手に石の道標があり、その左に「史蹟 道標 板碑」と題する白い標柱、右手に「標示」と題する案内板がある。馬見原の酒造業者八田恒助が天保十二年(1841)寸志上納により地士を仕り苗字を許された記念に、「籠場」(休憩所)であるここに建てたものだそうだ。道標は、読めないが、古道日向往還《散策の記録》」(日向往還顕彰会)によると、「右へいたてみち 左やべくまもとみち」と書かれているようだ。
・ここは変形四辻になっており、右前の二股に「日向往還 白石御籠場跡」の石標がある。

幣立神社の森  山都町大野 ( 熊本県 )

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幣立神社の森  山都町大野

HP「山都観光ガイドブック」による説明は、次のとおり。表参道の石段を往復したので、横参道の並木の中で最大の五百枝(いおえ)杉は見忘れた。

幣立神社の森(へいたてじんじゃのもり) ふるさと熊本の樹木/山都町天然記念物

所在地:山都町大野
樹齢:400年以上 樹種:スギ 幹周:7.0m 樹高:34m

アクセス:国道218号、旧清和村をとおり過ぎて約4km また国道265号高森方面からそよ風パークを過ぎて約5kmの距離にある。熊本方面から馬見原行きのバスで約2時間

幣立神社は、阿蘇南外輪山のなだらかな斜面の東南部が九州中央山地の北端に接し、西に流れて有明海に注ぐ緑川と東に流れて太平洋に注ぐ五ヶ瀬川の分水嶺となる、眺望の良い丘の上にあります。国道218号から旧蘇陽町に入るとひと際高い杉木立が左手にみえます。広い境内は巨樹が林立する県内一ともいわれる社叢の荘厳な雰囲気に包まれます。ここには伊勢神宮の内宮と外宮と阿蘇十二社と北宮が合祀されています。阿蘇の神話の中心である健盤龍命(たけいわたつのみこと)は、大和朝廷を開かれた神武天皇の御孫です。命は五ヶ瀬川をさかのぼって、高千穂経由でこの地に到着され、ここで幣を立てて天神地祇を祀り、阿蘇への第一歩とされたといわれています。表参道の石段と直交する横参道は、巨大な杉並木が神々しい雰囲気を醸し出しています。並木の中で最大の五百枝(いおえ)杉があります。名前が示すように多くの枝が豊かに茂る素晴らしい枝振りで、根本から何本にも分かれた大枝が高く伸び、神様をお迎えしているようです。

甲斐有雄の道標群  高森町・高千穂町 ( 宮崎県 )

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甲斐有雄の道標群  高森町・高千穂町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県及び宮崎県リストによるデータは、次のとおり。高森町「津留−長野」旧道中間の森林内に在った道標は、高千穂町分とも現在12本が、宮崎県高千穂町河内染野の亀頭山城址内「甲斐有雄道標公園」に移設、屋外展示されているので、私はここを訪ねた。
亀頭山城址へは、高森峠トンネルを抜け、柳から国道325号へ入る。寧静ループ橋先の川内郷大橋手前に城址入口案内板がある。ここから徒歩で15分、車(普通車以下)で5分。
最後の写真は、高森峠の九十九折り旧国道の道。

甲斐有雄の道標群 かい・ありお
(阿蘇)高森町・宮崎/(西臼杵) 高千穂町 甲斐有雄道標公園 (高千穂町) 石道標(12基) 文久元(1861)〜明治42(1909) 高千穂町教育委員会 高森町の津留〜長野旧道中間の森林内の道標は高千穂町の甲斐有雄道標公園に移設(写真は、高千穂町のもの) 熊本県を中心に、ほぼ半世紀の間に約1900基にもおよぶ道標を立てた石工の生誕地/このうち江戸期は1861-67年しかないので、甲斐有雄の立てた初期の道標は高森町内に限定されると推定できるが、時代の特定はされていない 4 B

甲斐有雄の道標群 かい・ありお
(西臼杵)高千穂町・熊本/(阿蘇)高森町 甲斐有雄道標公園 石道標(12基) 文久元(1861)〜明治42(1909) 高千穂町教育委員会/WEB(みさき道人) 高森町の津留〜長野旧道中間の森林内の道標を甲斐有雄道標公園に移設/時代の特定ができないため、「保存評価」を低くしてある 熊本県を中心に、ほぼ半世紀の間に約1900基にもおよぶ道標を立てた石工の生誕地/このうち江戸期は1861-67年しかないので、甲斐有雄の立てた初期の道標は高森町内に限定されると推定できるが、時代の特定はされていない 4 B

上玉来の大スギツリーハウス  高森町河原上玉来 ( 熊本県 )

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上玉来の大スギツリーハウス  高森町河原上玉来

波野笹倉交差点から高森町へ出るため、広域基幹林道阿蘇東部線へ入った。高森町河原上玉来で見た巨木と巨石の公園。
ブログ「手のじ行くバイ」による記事は、次のとおり。写真・所在地図は、次を参照。
http://paapurin.exblog.jp/14383790/

偶然出会えて良かった 上玉来の大スギ 高森町

…一体、ここはなぁに?
まずは大きな杉の木ですが、こちら上玉来(かみたまらい)の大スギと言いまして、推定樹齢600年、幹回り9メートル、高さ30メートルという巨木だそうです。
で、なんでこんな風になってるかと言いますと、どうも数年前の台風の時に根元が傷んで伐採される予定だったところ、丸山農園の社長さんが譲り受けてツリーハウスを造り始めたのだとか。
でもね、この杉の枝、葉などを採って行った人には必ずたたりがあるので、絶対伐採したり小さな枝でさえ持ち帰らないようにという言い伝えみたいなものもあるらしいんですわ。

(‾〜‾;)うーん。まぁ、見るだけならよかろ(^^;
実はこの木、探してたんですよ。まさかこんなところで偶然出会うとはビックリ。…

境ノ松の石畳  産山村大利 ( 熊本県 )

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境ノ松の石畳  産山村大利

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道216号により産山村へ向かう。谷間の大利バス停から少し進むと分岐に案内標識がある。大利橋を渡って豊後街道の道に入ると、「境ノ松の石畳」となり大分県境まで登る。

境ノ松の石畳 さかいのまつ
(阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長200m,幅2.3m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/肥後と豊後の国境の「松」にちなんだ名 2 B

大利の道標・参勤交代道御休所跡・新里程標  産山村大利 ( 熊本県 )

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大利の道標・参勤交代道御休所跡・新里程標  産山村大利

「ぐんさん 物見遊山記 : 豊後街道を歩く 久住〜笹倉 – ライブドアブログ」による説明は、次のとおり。私は県道216号により産山村へ向かった。谷間の大利バス停から豊後街道を戻ると、屋敷端に道標、竹林前に「御休所跡 参勤交代道」、バス停前へ進むと新しい里程標、大利橋を渡って「境の松の石畳」と続く。ブログとは、一部逆に歩いている。

豊後街道を歩く 久住〜笹倉

…熊本県にはいってすぐに、豊後街道の石柱と「境の松の石畳」の案内板。
すぐに道は石畳に変わり下っていく。かつてこの石畳を下ったところに「境の松」と呼ばれる松の木が立っていたそうだ。石畳があると俄然街道歩きをしている気分が盛り上がる。
石畳の道を下り、さらに進むと玉来川に架かる橋。先ほど上から見えた橋だ。

橋を渡るとここにもしっかりした案内板と標識がある。熊本県側は案内がしっかりあって分かりやすくありがたい。
杉並木の道をしばらく進むと右手に里程標の標柱があり、そのすぐ先の三叉路には豊後街道の標柱。この三叉路は右へ進む。
立派な石垣と塀に囲まれた屋敷がある。その屋敷の端辺りに道標が残っている。正面には「右 笹倉阿蘇」「左 白丹久住」とあり、向って右側面には「右 大利片俣」とある。

道標のすぐ先に 「殉難碑」 が建っている。昭和二十九年に建てられたもの。昭和二十一年、県道高森久住線の建設工事において大利橋の架設に尽力した当時の大利区長 井水裁氏は工事従事中に不慮の事故に遭い帰らぬ人となった。また昭和二十八年に九州全土で大きな被害をもたらした水害はここ大利の地でもがけ崩れにより和藤氏の家が埋没し長男・次男・三男が生き埋めとなり、さらに救出にあたった数名も二次災害で死傷するという痛ましい災害となった。これらを偲び建てられたのがこの碑である。

「御休所跡 参勤交代道」 の標柱が立っている。かつてこのあたりで殿様が駕籠から降りて茶を飲み休憩したことから御休所と呼ばれている。
集落を通り抜けると道が左右に分かれるので右手の未舗装の道へと登って行く。…

弁天檪(鞍掛け檪)  産山村大字大利字北向  ( 熊本県 )

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弁天檪(鞍掛け檪)  産山村大字大利字北向 

現地説明板は、次のとおり。県道216号により産山村大利へ向かう。南部公民館手前まで行くと、ここに車道入口があり、「弁天坂の石畳」まですぐ行ける。石畳道を下ったカーブのところから山道をしばらく行くと、「弁天檪(鞍掛け檪)」に着く。
関連情報サイト「老樹名木が語る『ふるさとの自然・歴史・暮らし』」第332号も参照。
http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/11082007/roujyu.html

日本一の大檪 (鞍掛け檪)

樹高20m、枝張東西10m・南北13m、樹径0.91m、幹囲2.9m、樹齢推定630年
由来
七福神は福徳賦与の神として知られ、その中の弁財天は美女の形容詞で、弁天様と言われ親しまれている。弁財天が山鹿の祠に帰る途中の坂が急で、乗っていた鞍が牛の首まで下がったため、道の傍にあるこの檪の枝に鞍をかけて休息したことから、鞍掛け檪といい、その坂道を弁天坂と呼ぶようになった。この檪には母を思わせる豊かな両の乳房に似た瘤があり、これを弁天の垂乳という。
昔、旅人が精根尽きてこの木の下に眠っていると、優しい母の懐に抱かれ乳を飲む夢を見ていた。朝の光に目が覚めると檪の落ち葉が蒲団のように体を包み、垂乳から露が雫となり口に流れていた。檪の精を吸った旅人は、体力を回復して、再び旅を続けたという。以来、女性はこの瘤にさわると乳を授かると伝えられ、今日に至っている。
注  檪は、ぶな科で全国に分布し椎茸原木、薪炭材として利用されている。この檪の大きさ樹齢とも日本一といわれ、産山村の材木にも選定されている。古名を「ツルバミ」と呼び染料に用いた万葉植物の1つ、万葉集巻十二のなかに「つるばみの、一重衣のうらもなく、あるらむ子ゆえ、恋ひわたるかも」と詠まれている。
産山村教育委員会

説明板の「日本一」というのは、どうかと思われる。「櫟」は「クヌギ」だろう。「巨樹を調べる:環境省 – いきものログ – 生物多様性センター」によると、幹囲3m以上のクヌギの巨樹は、全国で18本が報告されている。

弁天坂の石畳  産山村大利・片俣 ( 熊本県 )

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弁天坂の石畳  産山村大利・片俣

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。県道216号により産山村へ向かう。水恩碑や大利石畳道路のあるところから豊後街道に入るが、弁天坂の石畳までは、まだ歩いて1.2kmある。そのまま県道を進み、南部公民館手前まで行くと、ここに車道入口があり、「弁天坂の石畳」まですぐ行ける。

弁天坂の石畳 べんてんざか
(阿蘇)産山村 <豊後街道> 石畳道 長80m,幅2.5m 文化8(1811) 村史跡 村教委 火山灰土のため何度も普請/昭和59から5年かけて復元整備 施主:惣庄屋・久住善兵衡/「弁天様が牛に乗って下られたので弁天坂と呼ばれる」との伝承 2 –

十五里塚・茶沸場跡・へき谷の道標  阿蘇市波野大字小地野 ( 熊本県 )

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十五里塚・茶沸場跡・へき谷の道標  阿蘇市波野大字小地野

HP「旧街道ウオーキング 人力」豊後街道を歩くによる説明は、次のとおり。

宮地〜坂梨〜久住
…笹倉に入り、57号線が右に大きくカーブしているところで、左側民家の塀の横に「参勤交代道石畳」と「豊後街道/歴史の道」の標柱が並んで立っているので、ここから左折して進む。

ここはきれいに整備された道で杉林の中、木漏れ日の中を歩いていく。気持ちがいい道だ。
左手に「十五里塚」の案内板が立っている。

その先、やはり左手に「茶沸場跡」の案内板が立っている。参勤交代の道路の途中に何ヶ所かの休憩所として茶屋があり、昔からこの地を茶沸場と呼んでいたのは、茶を沸かして飲んだという言い伝えがあるからと思われると説明されている。

「ヘキ谷の道標」がある。「前 熊本 鶴崎道」「ひだり ならきの なんこう」「明治元戌辰十二月建 播州龍埜 准南堂碧松」と刻まれており、「熊本城から61.5km、鶴崎港より62.5km」と書かれている。ほぼ豊後街道の中間点まできたということだ。…

笹倉の石畳  阿蘇市波野大字小地野 ( 熊本県 )

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笹倉の石畳  阿蘇市波野大字小地野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号により笹倉交差点先の集落外れまで行くと、左へ入る豊後街道の旧道に「参勤交代の道石畳」説明板がある。石畳はあまりはっきりわからないが、アスファルト舗装の左側部分にわずかの幅の石畳跡が確認できる。

笹倉の石畳 ささくら
阿蘇市 <豊後街道> 石畳道 長約10m,幅1.8m 江戸期 市史跡 市教委/歴史の道・豊後街道p.131 復元 街道上に残存した敷石を集めて復元したもの 4 –