月別アーカイブ: 2015年8月

坂ノ上お駕籠据場  阿蘇市一の宮町中坂梨 ( 熊本県 )

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坂ノ上お駕籠据場  阿蘇市一の宮町中坂梨

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。一の宮町中心部から国道57号により滝室坂上の坂の上バス停まで行くと、4〜5軒の集落がある。「坂ノ上お駕籠据場」とは、このあたりの豊後街道の道筋であろう。

調べると坂の上バス停手前約600mの写真の場所に,「参勤交代道」と「カヲの墓」の案内板があった。この説明板に「参勤交代の時、この場所は駕籠を置き、「坂梨手永」と「久住手永」の人足交代の場所でもあり休息の場所となった。休憩中の殿様にお茶を献じたといわれる美人の「カヲ」に殿様が恋をしたという話が残っており、その墓標がこの奥に建てられている」と説明されていることがわかった。
「カヲ」の墓碑までは、ここから約200m奥へ歩く。

坂ノ上お駕籠据場 さかのうえ、おかごすえば
阿蘇市 <豊後街道> 駕籠据場 江戸期 市教委/歴史の道・豊後街道p.128 藩主休憩所で、人夫交換の場でもあった/道の一部が広くなっている 3 C

宮地道路元標  阿蘇市一の宮町宮地 ( 熊本県 )

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宮地道路元標  阿蘇市一の宮町宮地

阿蘇神社駐車場から「阿蘇一の宮門前街」仲町通りを北へ進むと、県道110号に突き当たる。銘菓「阿蘇の白雪」菓舗さとう店先右の水基「白雪の水」のところにある、大正13年熊本県が設置した「宮地道路元標」。
内容は、史跡説明板のとおり。 

十二里木跡と石畳  阿蘇市一の宮町宮地 ( 熊本県 )

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十二里木跡と石畳  阿蘇市一の宮町宮地

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。阿蘇神社から県道110号により西に岳川橋の先まで行く。豊後街道が斜めに入り、岳川沿いに上流に進むと、「十二里木跡」の標柱があり、このあたりに大榎と杉並木、石畳道があったのではないか。街道はすぐ川を渡り一の宮へと続く。

十二里木跡と石畳 じゅうにりぎ
阿蘇市 <豊後街道(岳川右岸)> 石畳道 長約50m,幅4-6m 江戸期 市史跡 市教委/WEB 昭和54 表面をアスファルト舗装 十二里木→明治末まで大榎があったと伝わるが、現在はない/石畳→現在は見えない/明治末まで両側に杉並木があった(伝承) 5 –

滝室坂の石畳  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

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滝室坂の石畳  阿蘇市一の宮町坂梨

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道57号を東進、豊後街道坂梨の宿を過ぎて、13里木跡の先の国道に「滝室坂入口」の案内標識があり、坂ノ上まで登る。

滝室坂の石畳 たきむろざか
阿蘇市 <豊後街道>/阿蘇の外輪山 石畳道 長約3km→断続3ヶ所残存→350m,幅3.8m 江戸中期以前? WEB 歴史の道保存整備事業で修景復元 阿蘇の外輪山を東で越える滝室坂(標高653m)の石畳/標高差約200mを急坂で登る豊後街道最大の難所=「大坂に坂なし、板梨に坂有り」 3 B

天 神 橋  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

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天 神 橋  阿蘇市一の宮町坂梨

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。国道57号を東進、坂梨小学校方面へ右折、450m先に架かっている。

№683  天 神 橋

阿蘇市一の宮町
橋長:11.5m  橋幅:3.8m  径間:6.1m
架橋:弘化4年(1847)
国道57号線、一の宮町中心部山ノ下より1.5Km東進、坂梨小学校方面へ右折、450m先に架かっています

天神橋
「天神橋の工事は、あしかけ3年を要し、約百個の石がみごとなアーチをえがいている。橋のたもとには「弘化四年丁未吉辰(1847)八代郡種山手永(現東陽村)棟梁 石工卯助」と刻まれている。
卯助の最大の事業は、緑川に架けられた下益城郡砥用町清水の霊台橋で、石工棟梁種山の卯助ら総勢72人で行なわれたとある。この霊台橋が完成の日彼はもう天神橋の着工に向けて出立していたという。
卯助は最後の一石を頂点にはめる時、その真下に威儀を正して正座したといわれ、覚悟の程がしのばれる。」
阿蘇市

豊後街道 坂梨の宿  阿蘇市一の宮町坂梨 ( 熊本県 )

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豊後街道 坂梨の宿  阿蘇市一の宮町坂梨

現地説明板は、次のとおり。

豊後街道 坂梨の宿

豊後街道は、熊本市新町一丁目御門前「札の辻」を起点とし、大分市鶴崎に至る全長三十一里(124km)に及ぶ参勤交代路です。
坂梨町はこの「札の辻」から東へ十三里(52km)に位置します。
天正十六年(1588)熊本城に入り、のちに肥後一国の藩主となった加藤清正はこの街道を「鶴崎路」と称し豊後の国「鶴崎港」から瀬戸内海を経て、大坂、江戸に参勤しました。
清正は肥後四大街道(豊前、豊後、薩摩、日向)のうちこの鶴崎路を最も重要視して道路の確保、保全に万全を期したといわれています。
寛永九年(1632)加藤氏のあと藩主となった細川忠利もこの道路に大きな関心を寄せ改良整備に力を入れました。
寛永十二年、徳川幕府の定めた「武家諸法度」により参勤交代が法制化された為、忠利以降の藩主も更に道路の整備改良維持に意をそそぎ江戸への参勤、熊本への下国と街道を利用しました。
また、街道のこうした整備保護により庶民の旅の世界が拡大され商取引が盛んになり寺社参詣が流行し、単に参勤路としてでなく産業、信仰の道としても大きく発展していきました。
坂梨の町はこうして時代背景の中で豊後の国境にも近く野尻日向往還、南郷矢部に至る火野尾峠越えの交通の接点となり宿場町として栄えました。
交通の要衝としてだけでなく行政、経済、文化の中心地として、細川藩独特の手永政治の坂梨手永会所(役所)や、女性の出入りには特にきびしかった街道の坂梨番所には女改の部屋があったと伝えられています。
藩主が参勤、下国の時、宿泊休憩をされる坂梨御茶屋を始め、旅人宿、酒造業、娯楽、雑貨、問屋、薬屋、医者、諸請けなど屋号持ちの店が軒を連ね大変な賑わいであったといわれています。
参勤交代制度は藩主を始め多数の供侍、沿道の住民それぞれに大きな労苦と負担をあたえましたが、文化伝達の極めて困難な時代に阿蘇地方の文化発展に多大の貢献と影響をもたらしました。
毎年反射の参勤、下国は数百千の供侍の上がり下がりの移動により江戸、京都、大阪や瀬戸内の文化、風俗ならびに産業、殖産を伝え中央政治の一緊一緩をも知ることができました。
旅人の往来もさかんで、その中には日本初の実測地図を作成した伊能忠敬、勤王の志士高山彦九郎、儒教で詩人の頼山陽、藩校時習館教授高本紫溟など多くの文人も訪れ歌や漢詩を残しています。
街道には坂梨手永会所跡、霊台橋で有名な石工卯助が架けたアーチ型の天神橋、木喰上人作子安観音像などの文化財、藩主の避難場所円通寺や浄土寺、浄行寺、妙法寺、馬場八幡宮などの寺社もみられます。
「大阪に坂なく、坂梨に坂あり」の里言で名高い滝室坂は街道一の難所として坂梨町の東端から高低差200メートルの峻坂で、すべて石畳でした。頂の坂の上から笹倉へと通じています。
街道の周辺には阿蘇谷の七鼻八石の内、妻子ヶ鼻、卯の鼻、箱石、いぼ石や古閑の滝など自然の景観にも恵まれています。
大政奉還により明治維新となり参勤交代制度が廃止され明治、大正、昭和、平成と時代は移りましたが坂梨の町並みは歴史の道「豊後街道」の宿場町として今も往時のおもかげと静かなたたずまいを色こく残しています。

旧国鉄宮原線の橋梁とホーム跡  小国町国道387号沿い ( 熊本県 )

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旧国鉄宮原線の橋梁とホーム跡  小国町国道387号沿い

小国町北里の国道387号沿いで見た旧国鉄宮原線の北里橋梁・汐井川橋梁・堂山橋梁跡と北里ホーム跡。

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

宮 原 線
宮原線(みやのはるせん)は、大分県玖珠郡九重町の恵良駅から熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年の国鉄再建法の施行を受け、第一次特定地方交通線として1984年[1][2]に全線が廃止された。なお、線名の宮原(みやのはる)とは、終点の肥後小国駅のある阿蘇郡小国町の大字名である[3]。

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋による参考資料は、次のとおり。

北里橋梁
旧国鉄宮原(みやのはら)線
国登録有形文化財
小国町北里字北里
橋長:60m
コンクリート造5連アーチ橋
架設:昭和13年頃
幸野川橋梁から県道318号線を2.2Km東進。県道が国道387号線へ上がるところに架かっています。

北里橋梁
「久大本線の恵良駅から分岐し肥後小国駅に至る旧宮原線の施設。昭和10年着工,同29年全線開通した。いずれも単線仕様のアーチ橋で,設計は鉄道省熊本建設事務所,鉄材節約のため無筋コンクリート造である。径間長10mで11連のアーチが連続する菅迫橋梁が橋長136mと最大規模を誇る。幾何学形状の構造物が,山間部の近代化を象徴的に物語っている。」

汐井川橋梁
旧国鉄宮原(みやのはら)
国登録有形文化財
小国町北里字塩井川
橋長:36m
コンクリート造3連アーチ橋
架設:昭和13年頃
国道387号線北里の奴留湯温泉を過ぎて約600m先、右手町道へ。山川温泉方面へ200mほど進むと左手に汐井川橋梁、右手に堂山橋梁が見えます。

堂山橋梁
旧国鉄宮原(みやのはら)線
国登録有形文化財
小国町北里字塩井川
橋長:36m
コンクリート造3連アーチ橋
架設:昭和13年頃
国道387号線北里の奴留湯温泉を過ぎて約600m先、右手町道へ。山川温泉方面へ200mほど進むと左手に汐井川橋梁、右手に堂山橋梁が見えます。

光久寺門前橋  小国町西里上明星 ( 熊本県 )

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光久寺門前橋  小国町西里上明星

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」熊本県の石橋によるデータは、次のとおり。国道387号から下った北里記念館下の橋脇や、国道戸井戸先の交差点に西里集落への案内標識があるので、これに従う。
廃校となった西里小学校の上流「明星橋」四叉路さらに上流に光久寺がある。腹巻地蔵尊の対面近く。

№7,551  光久寺門前橋

熊本県阿蘇郡小国町西里1096
橋長:2.8m  橋幅:1.7m  桁:5列
方杖桁橋
「石工
佐藤勝麿 穴見孝夫
大正十五年架換
平成七年十二月欄干修復
穴見深」

妙見貫(西里の岩清水)  小国町西里上明星 ( 熊本県 )

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妙見貫(西里の岩清水)  小国町西里上明星

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。国道387号から下った北里記念館下の橋脇や、国道戸井戸先の交差点に西里集落への案内標識があるので、これに従う。
廃校となった西里小学校の上流「明星橋」真下に「妙見貫」の吐出口はあったが、車道敷下の角型しか確認できない。「素掘だが、石合掌のように山型に削られている」呑口は、どこにあるのかわからなかった。
後ろの3枚は、学校跡下流の集落、倉本の石清水。

妙見貫 みょうけんぬき
(阿蘇)小国町 湧水 長150-180m程度,幅1m,高50㎝ 19世紀前半 町教委 吐口はC化 施主:北里又右衛門父子の尽力/素掘だが、呑口は石合掌のように山型に削られている/現役 2 C

熊本県環境立県推進課HP「水の国 くまもと」水の名所による説明は、次のとおり。

妙見さん(みょうけんさん)

妙見さんの湧水も、阿蘇くじゅう国立公園の湧蓋山麓系の水源であると言われている。年間平均水温が22度と温かく、冬には湯気が立ち上る。地域に上水道が整備される前までは、地域の生活を賄う大切な水源であった。
湧水量が豊富で、湧き出た水は段々に5つに仕切られた水槽に流れ出ている。

その他(利用状況、水景・景観情報等)
山中の緑に囲まれ、苔がおおった石造りの水槽に湧出する水は透き通っており、まさに隠れた名水である。今も地区の2世帯が利用している。
アクセス  車=道の駅ゆうステーションから、国道387号を西里集落へ向かい約15分。
所在地   阿蘇郡小国町西里上明里

(2015年9月22日 追 記)
町教委の資料によると、「素掘だが、呑口は石合掌のように山型に削られている」とあり、この確認のため妙見貫を2015年9月14日再訪した。現在、この水を使用するシイタケ栽培と漬物工房の明石宅の主とちょうど会うことができた。
自分は6代目で、この水は素掘トンネルではなく、上段の底にある2箇所の岩の割れ目からの湧水である。水温が高く湯気が立つ。先代が年代は不明だが、下部の岩面を掘って5つの水槽を造り、壁面は当時のまま。今は底面だけコンクリート張りした。上段の水槽から飲料水、もやし生育のため藁敷き大豆漬け、野菜洗い、おしめ洗いなどと使い分けている。
末端に農業用水路はなく、対岸に渡ったパイプは廃校となった小学校のプール用だった。鋼製の渡り橋は、近所の3軒ほどが拠出して架けたという話だった。当日の写真を最後に2枚追加する。

(2015年10月13日 追 記)
場所はここの湧水に間違いないと思われるが、以上の状況からサイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、名称を次のとおり変更し登載された。

西里の岩清水 にしざと
(阿蘇)小国町 上明里 湧水 江戸期 WEB(みさき道人) 現役 下部の岩面を削って5つの水槽が造られている 1 C