月別アーカイブ: 2015年4月

宝珠山炭坑の坑口・二坑跡  東峰村福井 ( 福岡県 )

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宝珠山炭坑の坑口・二坑跡  東峰村福井

現地説明板は、次のとおり。宝珠山駅先の踏切から宝珠川の橋を渡る。宝珠山グランド・テニスコートの手前にこの史跡説明板があった。ほかの場所は訪ねていない。

宝珠山村 史跡ガイド
18 宝珠山炭坑の坑口・二坑跡

18世紀末江戸時代の寛政年間以来、村民が燃料としていた宝珠山の石炭は、明治になると産業化され、明治45(1912)年には、石炭王・伊藤伝右ェ門による買収で伊藤合名会社宝珠山炭坑となり、本格的な開発が始まり、昭和10(1935)年、ここ大字福井地区に延長1640mの第二坑が開坑されました。
周囲には、採炭機、水洗機、山神社、総合事務所、鉱員・職員住宅、診療所、浴場などの施設が作られ、昭和26(1951)年4月には、3194トン、宝珠山炭坑の53%を出炭しました。
正負両面を宝珠山に与え、日本近代化の一翼を担った日本炭業宝珠山鉱業所は、エネルギー革命により、昭和38(1963)年、完全閉山しました。

宝珠山大山林道沿いの国境石群  東峰村福井 ( 福岡県 )

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宝珠山大山林道沿いの国境石群  東峰村福井

この項は、HP「筑前国境石散歩」の14宝珠山(日田街道) 朝倉郡東峰村宝珠山を参照。概要は下記のとおり。   http://www.geocities.jp/chikuzensakaiisi/page138.html

№1の国道211号線脇歩道上。JR日田彦山線宝珠山駅東側。…は、前記事とした。№2以降の国境石も、私は興味があり主な石を訪ねてみた。現地は、宝珠山駅先の踏切から宝珠川の橋を渡る。宝珠山グランド・テニスコート上の左奥の谷間である。ここに国境線があった。大山峠への大山林道開設記念碑があり、このあたりから林道沿いや田の畦道、山中に国境石群を見かける。

私が撮影した8基のNo.など写真の詳しい説明は省く。林道で出会った地元の茂木氏が教えてくれたのは、東峰村教育委員会と最近調査し、駅側を除き13基の国境石を確認したと言う。正確な調査資料を持っておられた。
№2のある林道開設記念碑の手前にも、1基あるというので私も探してみた。実際、記念碑のある林道反対側の田の中の用水タンク脇に1基(写真3,4)見つけた。
私からこのことは、HP「筑前国境石散歩」氏へ知らせたので、東峰村から資料を取り寄せ13基全部の現地調査を、そのうちしてもらえると思う。

朝倉郡東峰村宝珠山

文献(天保の古図)によると、19基の国境石を建て現在11基が残っているはずなのですが、何度探しても10基しか見つけることができませんでした。
№は私が勝手に東から西へ打っています。…

№1は、国道211号線脇歩道上。JR日田彦山線宝珠山駅東側。…

№2以の石の石は数mおきに隣接しています。本来、川(道路北側)の中央が国境になるはずですが、ほんの少し(私の見た感じではせまいところで4〜5m、広いところで15m程)国境が南にずれていたため、天草代官とのトラブルを避けるために国境を細かく主張したようです。
№2〜10まで直線で400m程です。№2以降の石は、取り合えず大きさを整えて文字面はきれいに加工してありますが、横・裏面はほぼ自然石のままです。

№2・3
文 字 2) 従 是 北 筑  以下不明  3) 従 是 北  以下不明
場 所 JR宝珠山駅の西側にある村民グランドから大山峠の方へ向かい、民家が途切れたすぐ先の道路南側に2、その上数mのところに3。
備 考 この2つの石だけが道路の南側にあります。
サイズ 2)高さ 88×横 26×奥行 22(cm)  3)高さ 105×横 35×奥行 32(cm)

№4
文 字 従 是 北  以下不明 
場 所 この石から上は道路の北側になります。この石は道路のすぐ脇にあります。
備 考
サイズ 高さ 57×横 26.5×奥行 20(cm)

№5・6
文 字 5・6共) 従 是  以下不明 
場 所 道から見えます。
備 考 5以降、民有地(田の中)にありますので充分ご注意ください。
サイズ 5)高さ 84×横 30×奥行 27(cm)  6)高さ 56×横 27×奥行 20(cm)

№7
文 字 従 是 北 筑  以下不明 
場 所 6の数m先です。
備 考
サイズ 高さ 81×横 27×奥行 24(cm)

№8・9・10
文 字 8) 不明  9) 従 是  以下不明  10) 従  以下不明
場 所 田のあぜ道にあります。道から見えますが、稲が成長する季節になれば見えなくなるでしょう。
備 考 8は表が棚田の法面に面していますので、間違いなく文字が書いてあるのですが、何と書いてあるのか全く読めません。
サイズ 8)高さ 76×横 26×奥行 25(cm) 9)高さ 41×横 29×奥行 23(cm) 10)高さ 26×横 27×奥行 23(cm)

宝珠山の国境石  東峰村福井 ( 福岡県 )

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宝珠山の国境石  東峰村福井

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道386号夜明三叉路交差点から国道211号に入り、JR宝珠山駅近くまで行く。国道脇に福井神社があり、その手前の県境のコンクリート擁壁歩道上に国境石がある。

宝珠山の国境石  ほうしゅやま
(朝倉)東峰村 国道211号・歩道上 <日田街道> 境界石 高187㎝,幅28㎝,厚23㎝ 天保5(1834) WEB(筑前国境石散歩) 下部1/3の所で破断→修復 (正面)「従是北 筑前國」/筑前国〜豊前国 3 C

大 肥 橋  日田市夜明 ( 大分県 )

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大 肥 橋  日田市夜明

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。国道386号夜明ダムの先、夜明三叉路東側、大肥川に架かる現橋のすぐ上流に架かっている。

№1,049  大肥橋

日田市夜明 大肥(おおひ)
大肥川
橋長:27.6m  橋幅:4.6m  径間:22.5m  拱矢:4.7m
架設:明治32年(1899)
夜明三叉路東側、大肥川に架かる現橋のすぐ上流に架かっています

大肥橋
「この橋の上流約1.5Kmに位置し、参勤交代の街道でもあった茶屋の瀬に架けられた歌詠橋は、石造アーチ橋で、当時は名橋として評判も高く、広瀬淡窓の詩にも詠われたものであった。しかし惜しいことに、翌嘉永三年の洪水によって流失し、長い間多くの人々は困り果てていた。
その代わりとして明治三十二年に完成されたこの大肥橋は、セメントやコンクリートの無かった時代に拱矢比4.8という日本でも珍しい扁平な石造アーチ橋であって、余程熟練した石工の手によって作られたものであろう。以後約80年間年々通過する自動車が増加し、今では1日1万台を越す交通量となり、その上1台1トンもなかった車が現在では20トンも越すように大型化してきた。この莫大な荷重にもめげず、又洪水や地震にもびくともせず今日までその役目を果たしてきたのである。
石造アーチ橋はもはや作られなくなってしまった現在、私達はこの美しい石造アーチ橋を何時までも大切に保存してゆきたいものである。」 案内板より

杷木地域生涯学習センターの国境石  朝倉市杷木池田 ( 福岡県 )

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杷木地域生涯学習センターの国境石  朝倉市杷木池田

サイト「筑前国境石散歩」朝倉市杷木による説明は、次のとおり。国道386号杷木交差点の次の角から朝倉市杷木支所の方へ上がる。その先が朝倉市杷木地域生涯学習センター(らくゆう館)で、前庭に国境石を展示している。以前、こども未来館はき(旧杷木町中央公民館)前に展示していたのを移設したもの。

現こども未来館はき (現在は、杷木地域生涯学習センター前庭に展示)
文 字
表)從 是 西 北 筑 前 領 
裏)谷 川 半 境
場 所 現 阿蘇神社の石と同じ川(境谷川)にあったものです。
備 考 杷木町は筑後境でもあったわけですが、杷木町 教育委員会にお聞きしたとこ
ろ「志波村の控石」以外に筑後との境石は現存していないそうです。

阿蘇神社の国境石  朝倉市杷木穂坂 ( 福岡県 )

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阿蘇神社の国境石  朝倉市杷木穂坂

サイト「筑前国境石散歩」朝倉市杷木による説明は、次のとおり。国道386号の夜明発電所近く、県境の手前に阿蘇神社はある。国境石は、神社参道口の保坂地区農林業経営研修館の前庭にある。
6〜8枚目の写真は、昭和3年福岡県設置の縣界標。境谷橋脇にある。
現阿蘇神社
文 字
表)從 是 西 北 筑 前 領 
裏)谷 川 半 境
場 所 杷木町(2006/03/20より朝倉市)は、東部が豊後境・南部が筑後境でした。この石は「西北」となっていること、大きな筑後川でなく「谷川」が境いであることから、豊後境であることがわかります。
現在は、杷木町の外れ阿蘇神社の入口にありますが、阿蘇神社の東、阿蘇山から筑後川に流れる川が国境でした。この川に置かれていたものです。
備 考 川の名前は境谷川です。

杷木池田の水刎群  朝倉市杷木池田 ( 福岡県 )

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杷木池田の水刎群  朝倉市杷木池田

サイト「古賀河川図書館」碑文が語る筑後川(131)〜(140)による説明は、次のとおり。国道386号杷木交差点から南の県道52号に入る。筑後川に昭和橋が架かる。この右岸すぐ上流や下流側に水刎群がある。

(133)杷木町の水刎

碑銘  杷木町の水刎(碑文はない)
建立地 福岡県杷木町昭和橋直上流
建立日 江戸期
建立者 —————————
福岡県杷木町の昭和橋右岸の直上流から、大石堰の下流の間に、水刎(みずはね)がいくつも群れをなして設置されている。碑文はない。江戸期の「筑後川絵図」には、この水刎が描かれており、地元ではただ単なる「刎」と呼ぶ。このように破壊されずに現存する水刎は、全国的に珍しく、土木遺産としては非常に価値が高く、今後の調査が望まれる。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストのデータに、次のとおり登載された。

杷木池田の水刎群 はき、いけだ
朝倉市 筑後川(右岸) /昭和橋直上流 水制(17基) 江戸期 WEB(みさき道人) いろいろな保存状態が混在 江戸期の「筑後川絵図」に描かれている 1-3 A

吉井町生葉の郡境石  うきは市吉井町生葉 ( 福岡県 )

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吉井町生葉の郡境石  うきは市吉井町生葉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道210号浮羽究真高前交差点から北の浮羽バイパス生葉交差点へ向かう。巨勢川の橋を渡り、すぐクロネコ大和の手前の南新川水路を横切る。水路沿いの市道を下流にたどると、田の傍らに郡境石が立っている。

吉井町生葉の郡境石 よしい、いくは
うきは市 境界石 高150㎝,幅22.5㎝,厚21㎝ 元禄8(1695) 市有形民俗 WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「東 生葉郡/西 竹野郡、分界」/生葉郡〜竹野郡/17世紀の郡境石 2 B

倉吉(天満神社)の国境石控石  朝倉市倉吉 ( 福岡県 )

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倉吉(天満神社)の国境石控石  朝倉市倉吉

HP「筑前国境石散歩」筑前・筑後 兼用(朝倉市・大刀洗町)によるデータは、次のとおり。県道584号により朝倉市倉吉地区へ行く。天満神社は場所がわかりにくいので、所在図を載せる。「控石」の意味は、HP参照。

朝倉市倉吉(天満神社)
文 字
表)百十番境杭 
右)百九番境杭
左)百十一番境杭
天保十五年甲辰
裏)(控)石
三月建立
場 所 朝倉市倉吉「天満神社」の中にあります。
備 考
サイズ 高さ 98×横 29×奥行 29(cm)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストのデータに、次のとおり登載された。

倉吉の国境石控石 くらよし
朝倉市 天満神社 境界石〔控石〕 高98㎝,幅29㎝角 天保15(1844) WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「百十番境杭」、(右面)「百九番境杭」、(左面)「百十一番境杭」、(裏面上部)「控石」/筑前・筑後兼用の国境石群の控石の1つ 2 C

元・長渕の国境石  朝倉市宮野 ( 福岡県 )

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元・長渕の国境石  朝倉市宮野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道386号朝倉町役場・町民センター入口交差点から南に入ると、朝倉市朝倉地域生涯学習センターがある。国境石は前庭に展示されている。

元・長渕の国境石 ながふち
朝倉市 朝倉市朝倉地域生涯学習センター・前 境界石(中央部で厚くなった板碑型) 高199㎝,幅68㎝,厚40㎝ 文化12(1815) WEB(筑前国境石散歩) 昭和40頃、筑後川下流の河原(土中)から発見→移設 (正面)「従是西北 筑前國」/筑前国〜筑後国/文化12の前年に洪水があり、筑後川沿いの国境が分からなくなったため建立されたとされる 3 B