笹又の道しるべ(西園橋三叉路) 八女市矢部村矢部
「笹又の道しるべ」は、現在、国道442号から県道801号が分岐する日向神ダム西園橋の角の崖地下に移設されてある。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。
HP「矢部村の歴史 」矢部村の開発の項による説明は、次のとおり。道しるべのもともとの建立場所・建立年代・建立者を推測されている。
矢部の旧道
矢部は、すべて奥深い山の中にある。
四方峻険な山々に囲まれ、矢部川とその支流に沿って 細長く伸びる谷間に狭い土地がへばりついている。矢部への道は、おそらく原始時代からその矢部川沿いに、谷を渡り岩間をつたい、杣道をたどって細々とつづいていたであろう。
かつて南北朝の動乱期は、天然の要害として、南朝方のとりでとなったのは必然であった。杣人や武人の通行も多かったであろうその道は、ほとんど尾根を越え、谷を渡って細々つづく杣道であった。都の竹の園で育たれた両親王や供奉の都人にとっては、地の果てに来た思いであったろうことは想像にかたくない。
最近でもはじめて矢部を訊ねて来た人が、この上に人家があるのだろうかと心細くなったと話す人もいる。昭和十六年に宗像郡から椎葉に嫁した小森ハルコ(六十九歳)は、こんな山中にまだ人の生活があるのかと心細くなり、あまりの淋しさに涙したことを昨日のことのように述懐している。
筑後路の主要道路を整備し、交通の便を図ったのは、慶長九年(一六〇四)、関ヶ原の功により筑後一円を領して柳川城に入った田中吉政である。吉政は、新田の開発や河川の改修にも力を入れたが、矢部川を境に北に方二間、高さ一間の塚に、榎、樫などを植えた一里塚を築き、南側に一里石を建てて柳川からの里程とした。
江戸時代になると、矢部村は矢部川をはさんで久留米藩と柳川藩の領有となった。道路は、矢部川をはさんで久留米道と柳川道があった。久留米道(矢部道)と柳川道ともに、両藩では最長の道路で、風光明媚ではあるが、峻険な坂道であった。大渕より上流は、峻峰群立して河岸に迫り、行手をさえぎり、通行や貢納物、産物の輸送はきわめて難渋したルートである。道路の開削、整備には、多くの辛酸と犠牲の歳月を要したことであろう。
久留米藩の矢部道のルートは、大渕の花巡りから八升蒔、平野を通り空室(うつろ)からこう仏谷(奥 日向神)を巡って鬼塚へ出たらしい。
柳川道は、柳川街道という。大渕の上月足から通称朝開き(おそらくここに朝日が一番早く当たったであろう)から九十九折の急坂を越え、日向神の黒岩トンネルの上おうむ岩を巡って椎葉に抜け、谷野から伊良道(いらどう)(蚪道(いらど))を通って西園、飯干、笹又、所野へとつづいていたようである。
蚪道の柳川道に十二里の一里石が建っている。のちに、椎葉から分岐して谷野に下り矢部川沿いに上って飯干、笹又へ通じる新道が出来たという。現在、西園橋の三又路に「右大ぶち左ひご道」と刻まれた石の道標が建っているが年代はわからない。笹又の三又路に建っていたのをダム水没のため、現在地に移したものである。嘉永六年(一八五三)に、大渕村寄谷の篤志家良作という人が、黒木町大渕の牟田峠に「右肥後道・左矢部」という石の道しるべを建てて、肥後方面や矢部・豊後に旅する人の利便を図っているが、笹又の道しるべも、あるいはその良作という人が建てたのかもしれない。
正保四年(一六四七)に「久留米領大道小道 之帳」という道路台帳のようなものが作られている。それによると、
「一、本分村より矢部村豊後境目迄六里六町、
但豊後ノ内梅野村へ出ル
此内川壱ツ 渡リ七所
黒木川ちんノ内(陣の内) 渡リ
広サ拾五間、深サ壱尺
同川塚瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐尺
但久留米領木屋村より柳川領木屋村へ渡ル
同川とくう瀬ノ渡リ、広サ拾八間、深サ弐
尺、但柳川領木屋村より久留米領木屋村へ渡ル
同川花遶ノ渡リ、広サ拾三間、深サ弐尺、
但久留米領大渕村より柳川領大渕村へ出ル
同川鬼塚ノ渡リ、広サ七間、深サ壱尺五寸
但柳川領矢部村久留米領矢部村へ渡ル
同川三瀬ノ渡リ、広サ八間、深サ壱尺、但
久留米領矢部村より柳川領矢部村へ渡ル
同川柴庵ノ渡リ、広サ五間、深サ壱尺五寸
但柳川領矢部村より久留米領矢部村へ渡ル」
とある。
黒木町本分から矢部村柴庵まで七ヶ所の瀬を渡っていたが、そこには小さな板橋か丸太橋が かかっていたのであろう。また、久留米領から柳川領へ、柳川領から久留米領へ交互に入っているのもおもしろい。けわしい谷間がつづくこの地では、両藩の了解で、通行手形なしで行き来した生活優先の事情がよくわかる。
矢部村では、鬼塚と三瀬、柴庵の三ヶ所の渡りがある。鬼塚や柴庵の瀬は大体想像がつくが 三瀬とはどこであろうか、中間から下った谷の合流点あたりを三ッ渕というそうであるから、その辺りの瀬ではなかったろうか。
貞享元年(一六八四)北矢部柴庵から竹原峠を越えて日田郡梅野村(中津江村)に通じる「川沿新道、別名豊後別道」が開かれ、豊後への往来も便利になった。それまでは杣道であったのを官道として整備したのであろう。柴庵から八知山鉱口あたりを通って竹原へ上る近道がそれに当たるのではないかと思われる。
蚪道(十二里)所野(十三里)虎伏木(十四里)に残る一里石や西園橋の三又路に残る道しるべは、当時の交通、道路のようすを知るうえで貴重な史料であり、子孫に継承すべき史跡として大切に保存しなければならない。
なお、久留米領の笹又にあったといわれる一里塚や肥後境三国山の麓にあったという一里石や境木は今は見あたらない。…
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータに、次のとおり登載された。
矢部村矢部の道標 やべ、やべ
八女市 西園橋三叉路<矢部街道> 石道標 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 (正面)「右 大ぶち/左 ひご、道」 2 C