月別アーカイブ: 2015年4月

新八丁、白坂越分岐点付近の石橋  朝倉市秋月 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

新八丁、白坂越分岐点付近の石橋  朝倉市秋月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。秋月から国道322号と県道66号により白坂峠方面へ向かう。新八丁、白坂越分岐点付近の石橋は、場所がわかりにくいから所在図を載せる。
1枚目写真のとおり、県道66号の九州自然歩道の標識がある所から、不動滝に下る道の反対上の谷に上がる。荒れているが、これが旧街道。県道がカーブする民家裏近くの下の沢にすぐ一枚岩?の石橋がある。多分、これだろう。出典102頁の掲載写真は何を写しているか疑問がある。最後の写真は、民家用の裏一本橋。

新八丁、白坂越分岐点付近の石橋
朝倉市 <秋月街道> 石桁橋 長2.3m(G),幅2.5m 江戸期? 歴史の道 一枚岩の橋 2 C

不動滝から高内付近の石橋・不動滝前の石橋  朝倉市秋月 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

不動滝から高内付近の石橋・不動滝前の石橋  朝倉市秋月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。秋月から国道322号と県道66号により白坂峠方面へ向かう。秋月大橋のところは標識に従い少し先から県道66号に入る。不動滝は、この県道沿い下の沢にあり、街道筋である。私は県道から街道を下って不動滝まで往復した。
その途中で、民家の下にある石橋がこれだろう。同じ街道筋で、その下の不動滝の前にある石橋は、最後の写真で前記事参照。これも古い石橋である。 

不動滝から高内付近の石橋
朝倉市 <秋月街道> 石桁橋 長3.1m(G),幅2.3m 江戸期? 歴史の道 4本の石梁 2 –

不動滝前の石橋も、サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストに、次のとおり登載された。

不動滝前の石橋 ふどう
朝倉市 <秋月街道> 石桁橋 (G) 江戸期? WEB(みさき道人) 保存状態良好 4本の石梁 1 –

不 動 滝  朝倉市秋月 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

不 動 滝  朝倉市秋月

歴史の道・2秋月街道: 『歴史の道調査報告書 第2集 秋月街道/福岡県文化財調査報告書 第195集』,福岡県教育委員会,2000 の102頁による説明は、次のとおり。
秋月から国道322号と県道66号により白坂峠方面へ向かう。秋月大橋のところは標識に従い少し先から県道66号に入る。不動滝は、この県道沿い下の沢にあり、街道筋である。私は県道から街道を下って往復した。
記事が前後したが、前記事の「秋月街道涙坂」は、まだこの先の県道の話。県道の様子を先に調べた。

四 夜須郡
26 不動滝
寛政年間(1789〜1801)自仙という人物が目黒不動尊を信仰し、この滝に不動像を彫ったことから不動滝と呼ぶようになった。不動滝付近には石畳(幅290センチ)が残る。

秋月街道涙坂  朝倉市秋月 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

秋月街道涙坂  朝倉市秋月

現地説明板は、次のとおり、秋月から国道322号と県道66号により白坂峠方面へ向かう。秋月大橋のところは、標識に従い少し先から県道66号に入る。峠手前に秋月隧道がある。トンネル入口が見えるすぐ前右側に、この説明板があった。
白坂越の街道は、これから植林地内の石畳道を登るようだが、先は踏跡不明で引き返した。皇太子殿下成婚記念植樹の碑があった。

秋月街道 涙坂
江戸時代秋月藩は参勤交代にこの秋月街道白坂越を最も利用していた。
この位置は涙坂といい秋月城下を見る最後の場所で江戸参勤に向かう主人をここまで家族が見送り三年
間の別れを惜しんで涙を流したことから「涙坂」と呼ばれるようになったという。
この一帯に石畳・石垣・水路等がよく旧状をとどめ当時の秋月街道の様子を偲ぶ事ができます。
平成九年六月建立

古処山道分岐点の追分石  朝倉市秋月野鳥 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

古処山道分岐点の追分石  朝倉市秋月野鳥

歴史の道・2秋月街道: 『歴史の道調査報告書 第2集 秋月街道/福岡県文化財調査報告書 第195集』,福岡県教育委員会,2000 の100頁による説明は、次のとおり。
秋月から国道322号を旧八丁越峠の方へ登って行く。橋を渡った脇に古処山登山道や秋月キャンプの案内標識があり、その角石垣の大木の根元に移設された追分石がある。

四 夜須郡
12 古処山道分岐点
旧八丁越と古処山登山道の分岐点。街道は直角に折れて恵観院へと続く。国道322号によって分岐点そのものは残っていない。分岐点にあった追分石は、本覚寺下の秋月キャンプ場入口付近に移設されている。追分石は高さ96センチ、幅24センチの角柱で、各面に「右 古処山」、「せんす 左 ふせん道 大くま」、「明治六年正月」と刻銘されている。

旧八丁越峠付近の追分石  朝倉市秋月野鳥 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

旧八丁越峠付近の追分石  朝倉市秋月野鳥

歴史の道・2秋月街道: 『歴史の道調査報告書 第2集 秋月街道/福岡県文化財調査報告書 第195集』,福岡県教育委員会,2000 の99頁による説明は、次のとおり。
国道322号近く旧八丁越峠から街道の道を秋月側へ下る。追分石まで約10分はかかった。分岐道がここにあった。

四 夜須郡
2 追分石
旧八丁越の峠付近にある。表には、「右 川ソコ ヘイ ムマミ ヲノタニ クワノ」、「左 大リキ センズ 大クマ ウス井 ブゼン」、裏には、「秋月 明治三十三年夏再建 指月庵」と刻銘されている。追分石は高さ85センチ、幅45センチ、厚さ12センチを測る。

八丁苑の石橋・古八丁越の石畳  朝倉市秋月野鳥 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

八丁苑の石橋・古八丁越の石畳  朝倉市秋月野鳥

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。秋月から国道322号により旧八丁越峠を目指す。峠近くなると国道左脇に「八丁苑跡」碑がある。フェンスの中を下ると八丁苑キャンプ場跡の広場があり、この下の沢に街道石橋が架かっている。
この辺りでも、旧八丁越の石畳が確認できた。

八丁苑の石橋
朝倉市 <秋月街道> 石桁橋 長3m(G),幅2m 不明 歴史の道 3本の石梁 2 –

古八丁越の石畳は、サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストに、次のとおり登載された。

古八丁越の石畳 こはっちょう
朝倉市・嘉麻市 <秋月街道> 石畳道 文政(改修記録)以前 嘉麻市教育委員会/WEB(みさき道人) オリジナルのまま 永禄10(1567)に文献に現れる歴史のある峠道/冷水峠が開削されるまでは、幹線街道/新八丁越の完成で寛永7(1630)に閉鎖、正徳元(1711)に追加で人馬通行禁止令が出されている/石畳は1630以前の築造の可能性が大 2 B

秋月八幡宮の太鼓橋  朝倉市上秋月 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

秋月八幡宮の太鼓橋  朝倉市上秋月

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道322号秋月入口の女男橋を渡った長谷山交差点から右折、国道500号へ入る。上秋月の秋月公民館手前に、秋月八幡宮の参道口がある。

秋月八幡宮の太鼓橋 あきづき
朝倉市 秋月八幡宮 石桁橋(弓型) (花崗岩) 長4.4m(G), 幅3.9m 元文4(1739) WEB 弓型の長い高欄が特徴/石桁と橋面石の二重構造 2 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。  

№2,195  秋月八幡宮太鼓橋
朝倉市上秋月
橋長:4.4m  橋幅:3.9m
単径間円弧桁橋
架設:元文4(1739)年
ずっと奥に本殿への階段があります
親柱  元文4年でしょうか

№2,193  秋月八幡宮参道橋
朝倉市上秋月
橋長:1.7m  橋幅:3.9m
単径間桁橋
鳥居の手前に単径間桁橋

№2,194  秋月八幡宮桁橋
朝倉市上秋月
橋長:2.0m  橋幅:0.6m
単径間桁橋
参道右手の池の祠の前に架かっています

千手女男石の道標  朝倉市千手 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

千手女男石の道標  朝倉市千手

県道386号筑前町弥永交差点から北東に集落内の県道594号に入る。「弥永の道標」はすぐ白塀の角にあったが、これと対をなすように県道594号を朝倉市千手の女男石集落南まで進むと、道路二俣の植え込みの中に、「女男石の道標」がある。

歴史の道・2秋月街道: 『歴史の道調査報告書 第2集 秋月街道/福岡県文化財調査報告書 第195集』,福岡県教育委員会,2000 の112頁による説明は、次のとおり。

74 追分石
秋月街道と甘木市の分岐点に立ち、「是ヨリ 右 さいふ 松ざ紀 左 あまき 本がう」と彫られている。高さ68センチ、幅50センチ、厚さ26センチを測る。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストのデータに、次のとおり登載された。

千手女男石の道標 せんず、めおといし
朝倉市 <秋月街道> 石道標(自然石) 江戸期? WEB(みさき道人) 原位置? (正面頂部)「是ヨリ」、(同右下)「右、さいふ/松さ起」、(同左下)「左、あまき/本かう」 1 C

大己貴神社参道橋  筑前町弥永 ( 福岡県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

大己貴神社参道橋  筑前町弥永

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」福岡県の石橋によるデータは、次のとおり。県道386号筑前町弥永交差点から北東に県道594号に入る。大己貴神社は集落中間の左手にある。     

№2,060  大己貴神社参道橋

朝倉郡筑前町弥永
橋長:3.6m  橋幅:2.8m
単径間円弧桁橋
大己貴(おおなむち)命は大国主命のことだそうです
極端に分厚い桁です。両側は単径間桁橋。

大己貴(おおなむち)神社
「筑前国続風土記によれば、『大神大明神は弥永村にあり。延喜式神名帳に“夜須郡於保奈牟智神社小一座”とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に貸すが大明神を合わせ祭る。宮所神さびて、境地ことに勝れたり』
日本書紀に『仲哀天皇九年秋九月・庚午朔己卯(の日)、(神功皇后)諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ずと聚る』とあり。九月二十三日祭礼ありて神輿御幸あり。御旅所は村の西十町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子殊に多くして、人の尊敬浅からず』との記載がみられる。
太宰管内志(国学者伊藤常足編)によれば『筑前神社志に神功皇后より後に嵯峨天皇弘仁二年勅願ありてご建立あり。その後、661年を経て後土御門院文明三年、勅願としてご建立あり。その間数度造り替えありといえども詳らかならず。伝われる縁起・記録類は天正十五年(1587)より96年の間、仮殿に居ましける。寛文十二年(1672)石鳥居建立。祭礼神幸の儀式は同十三年に再興す。本社、貞享四年(1687)改造す。拝殿は元禄五年(1692)建立、同六年社領少々、黒田甲斐守寄付し給えり。神職松本氏(本姓大神)先祖より宝永二年(1705)まで、六十二代相続せり』とある。
さらに、筑前国続風土記附録にも次の記録がみられる。『神殿一間半・二間半、拝殿二間半・四間(中略)この村(弥木)及び甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛木・馬田・野町・高田・依井・大塚すべて十四村の産土神にして、夜須郡の惣社なり。頓宮地は本社の西南、八町ばかりにあり。東西十間余り、周りに松杉植わり、中に礎石あり。神幸の時は、ここに仮殿をも葺く。また町の中に浮殿の地あり、切り石ありて里人は神輿休と云う。社内に祇園社・黒殿社・八幡宮・現人社・水神・神池あり』」