月別アーカイブ: 2011年11月

国見町の主な石橋  沙川橋・上松橋・天神井手水通橋・石場橋

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国見町の主な石橋  沙川橋・上松橋・天神井手水通橋・石場橋

国東市国見町の石橋のうち、沙川橋・上松橋・天神井手水通橋・石場橋。石橋のデータと紹介文は、HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋による。

写真   1〜  3    沙川(すながわ)橋
国見町大字岐部
橋長:8.4m  橋幅:3.0m  径間:7.3m  拱矢:4.4m
架設:明治18年
岐部神社から国道213号線に戻り、300m北西を左折。
2.2Kmでオレンジロードと交差するが、直進300m先左に架かっています。

写真   4〜  6    上 松 橋
国見町大字岐部
橋長:21.0m  橋幅:3.1m  径間:10.4m  拱矢:
架設:昭和7〜8年
沙川橋からオレンジロードに戻り、北東へ600m。左折100m先に架かっています。
「国東半島最大 自然石利用」の標柱あり。

写真   7〜  9    天神井手水通橋(てんじんいでみずとおしばし)
国見町大字岐部
橋長:9.6m  橋幅:1.6m  径間:7.1m  拱矢:3.5m
架設:明治5年
上松橋からオレンジロードに戻り100m南下、よく見ると右手に小道があります。
下るとこの橋が架かっています。
探すのに苦労しました。それもそのはず、歩道併設水路橋でした。
朽ちた標柱には「歩道併設」と記されていました。

写真  10〜 12    石 場 橋
国見町大字竹田津 井上  竹田津川
橋長:13.8m  橋幅:3.6m  径間:10.2m  拱矢:3.5m
架設:大正初
国道213号線、香々地町と国見町境の新竹田津隧道のすぐ東から300m南左折。
200m先に架かっています。

山神社のムクノキ  国東市国見町岐部

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山神社のムクノキ  国東市国見町岐部

国道213号の適当なところから山腹を行くオレンジ道路へ入る。「岐部隧道」の登りにかかる集落が国見町上岐部。岐部川を渡る橋の少し上流に「山神社」があり、ムクノキの高木が見える。
HP「人里の巨木たち」大分県による説明は、次のとおり。

名 称 山神社のムクノキ
名称の典拠 なし(注1 神社名の読み方については未確認)
樹 種 ムクノキ
樹 高 25m(注2 環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による)
目通り幹囲 7.5m(注2)
推定樹齢 300年以上(注2)
所在地の地名 大分県国東市国見町岐部(注3 2006年3月31日、東国東郡内4町が合併して国東市誕生。旧行政区は東国東郡国見町)
天然記念物指定 なし
国東半島の東半分、内陸部をぐるっと半周する広域農道は「オレンジロード」の愛称を持つ。そのオレンジロードが岐部川を渡るあたりに山神社がある(愛用の道路地図には山神宮と記されていた)。
山神社はどう読むのだろう。「さんじんじゃ」? それとも「やまがみしゃ」? 各地にさまざまな呼称があるため、ここではどう読めばいいのかわからない。早朝のことで、尋ねようにも人の姿がない。とにかく、山の神を祀る神社であることは確かだ。
近くに達すると、ムクノキの大きな樹冠が見えてくる。付近に視界を遮るものがないため、どの方向からもはっきり見える。当地のランドマークと言ってよい。
本殿の左手後方(向かって右奥)に立っている。根元付近で急速に太さを増し、しっかり地面を踏みしめている。目通りも十分。しかし、上方に向かって幹囲の減少率が大きいため、幹そのものは、思っていたより細く感じられた。下部には空洞もありそうだが、今のところ樹勢は良さそうだ。葉を繁らせた姿も見事なことだろう。

弥生のムラ安国寺集落遺跡公園  国東市国東町安国寺

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弥生のムラ安国寺集落遺跡公園  国東市国東町安国寺

国道213号の国東町の中心から案内板により、西方の横手川上流平野部へ向かう。「弥生のムラ安国寺集落遺跡公園」と「歴史体験学習館」がある。
大分県観光情報サイトによる説明は、次のとおり。

弥生のムラ安国寺集落遺跡公園
安国寺集落遺跡公園は国の指定史跡です。1800年前の弥生の世界を体感できる体験型の史跡公園内には、太古の営みを再現した高床式建物や竪穴式住居が復元れています。また、遊びながら古代の文化や生活の知恵を学べる「歴史体験学習館」では安国寺式土器を中心に、この遺跡からの出土品を多く展示し、まが玉造りをはじめ、古代の火おこし、土器づくり、編み物やガラス玉造り、古代食体験など盛りだくさんの古代体験が用意してあり 社会見学や家族で弥生時代が楽しめます。

椿八幡社のクスノキ  国東市武蔵町三井寺

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椿八幡社のクスノキ  国東市武蔵町三井寺

武蔵町の中心から両子へ通じる県道55号を1.7kmほど上り、武蔵川に架かる橋(武蔵中学校近く 55号では最初の橋)へ左折する。まもなく椿八幡社へ着く。大きなクスノキは、県道からも見える。
大分県HP「豊の国の名樹」による説明は、次のとおり。

特別保護樹木  7.椿八幡社のクスノキ

樹種名 : クスノキ
樹 齢 : 950年
樹 高 : 22m
幹 周 : 8.4m
所在地 : 武蔵町大字三井寺
所有者 : 椿八幡神社
来 歴
武蔵町大字三井寺、椿八幡社境内、楼門前の石橋を渡った北側に聳える巨樹。ご神木。県指定特別保護樹木。
当社は、武蔵郷の旧郷社。社記によると、天平元年(765)、三井の御座所峯に影行、後に現在地に奉斉したと記録されている。クスノキは、現在地に遷座したときに献納し、ご神木として育てられたものと伝えられる。遷座の年は、「椿社縁起」によれば治安三年(1023)、「椿八幡宮大縁起旧規略」によると文永四年1267)となっている。どちらかをとるかで、樹齢140年の開きができる。指定調書は、古い年代を採っている。

このクスノキは武蔵郷のシンボルとして、遷座以来氏子一同が連綿と愛育してきたところ。武蔵町の町の木にも指定され、武蔵東小学校の校歌にも、「空にそびえる大くすの」と歌われている。亭々と聳えていた樹冠も、戦後の相次ぐ台風の被害で梢頭を欠き、枝葉も透けた姿になっている。社叢にはご神木クスノキのほか、クスノキ2本、ケヤキ1本、タブノキ1本、スギ約20本が成立。目通り周囲は250ー400cm。それよりやや小さいが、珍木としてオガタマノキ1本がある。何れも人手によって移し植えられたもの。旧社屋、旧社叢は野火によって焼失したが、塀の外にあったご神木は、類焼を免れたのだと伝えられる。社殿の再建は延宝六年(1678)、現社叢はそれ以後の造営である。

笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

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笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

国道202号線で西海市大瀬戸町多以良内郷まで行く。史跡小佐々城跡登り口のすぐ先、国道左側に「造形 笑道? 202」の家があり、庭に展示している。
先のバス停「柳口」には、トトロがいた。

2010年7月の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2388
1年ぶりに寄ると、庭の展示が変わっていた。バス停のトトロは盗まれた?らしく、別のかわいいカエル?となっていた。

西海市大瀬戸町多以良近辺の山岳史跡めぐり  2011年11月

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西海市大瀬戸町多以良近辺の山岳史跡めぐり  2011年11月

2011年11月13日(日)曇り。西海市大瀬戸町多以良近辺の小佐々水軍史跡めぐり。山登りを兼ねて、近辺の史跡を訪ねた。参加10人。みさき道歩会の例会。
長崎8:00発ー大瀬戸町多以良の岩倉神社(権現岩)—小佐々氏墓所ー小佐々城跡—多以良川の船場(昼食)ー高帆岳(金比羅山 標高232m)—伊佐の浦ダムー基幹林道ー雪の浦ダムー長崎16:00着(自家用車利用 徒歩距離 約5km)

長崎を車2台で出発。大瀬戸町多以良は五島灘海域を領有支配した小佐々水軍と呼ばれる戦国大名小佐々一族の本拠地である。板の浦トンネルを出ると、右手に岩倉神社があるが、ここは下宮拝殿。国道の旧道を左へ行くと、「権現岩」を祀る上宮神社へ上がる車道がある。権現岩は写真のとおり。迫力があった。

「小佐々氏墓所」は、国道の下多以良橋右岸にある。風格ある墓である。小さなキリシタン墓2基もあり長崎県指定史跡。墓所から左上に見える小高い山が、小佐々城跡の城の辻(標高133m)である。国道から歩いて約20分。
石垣など見当たらないが、湾曲して流れる多以良川が、堀の役目をよく果たしている。山頂岩は展望が良く、遠く狼火台があった「高帆山」も見える。

多以良川の流れに沿い下流へ向かうと、奥に3軒ほどの農家があり(小峰の館跡?)、城山を裏手から眺められる。しかし、車道はここまで。
国道に戻って、トトロバス停「柳山」(ラビリンス次の記事とする)から旧道に入る。谷間が開けて、渡り橋がある。城山を巻いて流れた堀状の多以良川が、ここに流れている。
橋から少し上流へ行くと、貴重な遺構がある。河口の海から潮がこの近くまで上がり、あと川は引いて小佐々水軍の軍船を隠した池のような船場の石垣が残る。橋で昼食。

午後は、明治県道一里標を見て、柳浜へ出て金比羅山と呼ばれる「高帆山」へ登った。山頂近くまでミカン畑の農道が上がる。
狼火台があった山で、遠くから見ると、円錐形の端正な姿をしている。
農道には案内板があり、駐車場から石段を歩いて160段登る。高帆山頂は五島灘を向き、大島・崎戸島も全面に広がるのだが、あいにく霞んでいた。

長崎への帰りは、国道202号ではなく、七釜から伊佐の浦ダムへ行った。堰堤を渡ると西彼杵半島広域基幹林道へ出る。快適な林道だが、雪の浦付近がまだ工事中で繋がっていない。
雪の浦ダムへ上がり、県民の森を通って帰った。結構、楽しめた史跡めぐりの山登りの1日であったろう。次の記事も参照。
大瀬戸町の主な史跡(1)  https://misakimichi.com/archives/2396
大瀬戸町の主な史跡(3)  https://misakimichi.com/archives/2398

瑠璃光寺のサルスベリ・モッコク  国東市安岐町糸永

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瑠璃光寺のサルスベリ・モッコク  国東市安岐町糸永

安岐川沿いに安岐ダム公園へ上がる県道34号の途中、掛樋から県道651号へ右折する。しばらく行くと、左の谷間奥に瑠璃光寺がある。案内板のとおり進む。
サルスベリは本堂前にあり、「名木 さるすべり 日本一」と標柱があった。本堂裏手の屋根上にも大木が見え、何かと思って林内に行ったら、この木にも、「名木 モッコクの大樹 樹齢凡そ 
六百年」?の標柱があった。

HP「妖樹の森」九州の巨樹・巨木たちによるサルスベリの説明は、次のとおり。モッコクの説明はない。瑠璃光寺には、参道入口の駐車場隅に、鎌倉時代の作とされる「石殿」が残り、これも珍しいらしい。

瑠璃光寺のサルスベリ
所在地 : 大分県東国東郡安岐町大字糸永字堂ノ上、瑠璃光寺
樹 齢 : 600年
樹 高 : 15m
幹回り : 2.1m(地上0.5m)
枝張り : 南北11m
国東半島の名士、三浦梅園(江戸中期の哲学者)旧宅に程近い山の中に、奈良時代からの古刹「瑠璃光寺」があります。平安時代の作と伝えられるカヤの木の一本造り・阿弥陀如来像が有名ですが、寺の境内には、日本一の大きさといわれる「サルスベリ」の大木が立っています。
百日紅は、地上0.6m〜1.3mのところで五本の幹に分れ、それぞれ四方に張り出していますが、内2本は、途中で一旦癒着して又夫々の方向へ伸びています。
花期には、枝先に可憐な紅色の花房をつけ、カッと照りつける真夏の太陽に輝く姿は、華やかと言うより清浄な美しさを感じます。 (ミソハギ科落葉樹)

白木神社のイスノキ  杵築市大田白木原

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白木神社のイスノキ  杵築市大田白木原

大田白木原集落は杵築市の北部にある。私は杵築中学校近くの県道49号交差点から、永代橋を渡り安岐ダムへの県道405号に入った。城ヶ岳峠を越し安岐ダム公園まで行き、ダム際の県道34号を左に行くと大田俣水に出る。
俣水から走水峠への県道709号に入り、白木原川沿いに北上。宝蓮寺を過ぎると、左手谷向かいに白木神社鳥居が見えてくる。
大分県HP「豊の国の名樹」による説明は、次のとおり。

特別保護樹木  3.白木神社のイスノキ
樹種名 : イスノキ
樹 齢 : 600年
樹 高 : 20m
幹 周 : 4.0m
所在地 : 大田村大字白木原477
所有者 : 白木神社
来 歴
大田村大字白木字花渡路に鎮座する白木神社境内に聳える巨樹。県指定特別保護樹木。ご神木。
白木神社は、昭和30年に、花渡路山神社に宮の木山神社を合祀したもの。前社は現在地に所在。創建は大宝元年(701)と伝えられる。
社前の鳥居を潜って右側、石橋の手前に成立する。幹下部に大人が立って入れるくらいの空洞があり、黒く焦げている。終戦の年(1945)付近の腕白坊主どもが、洞の中に棲むフクロウを捕らえようと燻したのが因で、枯損部に延焼し、消防団が出動するほどの騒ぎになったという。
怪我の功名で、これが空洞腐朽防止の外科手術的役割を果たしている。樹勢旺盛、老衰の兆しはない。鳥居を挟んで左側にもイスノキの伐痕があり、伐痕径から推し現在木より大きい。昭和28年6月の大雨被害によって倒伏したものという。社殿背後の社叢にも数本の大径木が成立している。当地方は古くから山野に自生するものも多く、神社境内のものも、社叢構成植物として自生したものか。ただ、鳥居の両側のイスノキと、社庭周囲のタブノキ、ムクノキ、ヤブツバキなどは、人手によって移植、管理されたものであろう。

五田八坂神社のクスノキ  杵築市鴨川

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五田八坂神社のクスノキ  杵築市鴨川

鴨川集落は杵築市の北西部にある。杵築中学校近くの県道49号交差点から、永代橋を渡り安岐ダムへの県道405号に入る。県道は川沿いに上がり大分空港道路の下を通ると、まもなく川の合流部に「鴨川橋」がある。五田八坂神社は、橋手前から右手の道へ入る。クスノキの大木がすぐ見える。大雨のため林内では詳しく写せなかった。
HP「人里の巨木たち」大分県による説明は、次のとおり。

名 称 五田八坂神社のクスノキ
名称の典拠 現地の標柱(注1 朽ちつつあり、幹に立てかけてあった。多分杵築市教委が設置したもの)
樹 種 クスノキ
樹 高 30m(注2 環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による)
目通り幹囲 7.3m(注2)
推定樹齢 伝承700年(注2)
所在地の地名 大分県杵築市鴨川(五田)
杵築市指定天然記念物
大分空港道路鴨川大橋の北に見える集落が五田である。集落に近づくと、山裾にクスノキの樹冠が見えてくる。
八坂神社の御神木だ。「牛頭天王」の額を掲げる石鳥居のすぐ先の斜面に立っている。
地上4mほどで2幹に分かれている。そのうち1本には蔓が多く絡まっている。そのせいか、2本は表皮の色が異なって見える。全体に若々しく、樹勢は良好。伝承される樹齢より、実際はずっと若いのではなかろうか。

北台・南台武家屋敷  杵築市杵築

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北台・南台武家屋敷  杵築市杵築

杵築城近くの武家屋敷などの風景。写真は主に、1〜8が北台、9〜14が南台である。あいにくの大雨の日だった。
杵築市観光協会HP「きつき」による説明は、次のとおり。

江戸時代の風情が今もなお残る杵築

杵築城を中心に、南北の高台に武家屋敷があり、その谷間に商人の町が挟まれています。このような凸凹のある“サンドイッチ型”城下町は、杵築だけと言われています。
町がまるごと“江戸村”の杵築を散策してください。

酢屋の坂(杵築・北台)   (写真  2,3,南台から 12,13)
北台の武家屋敷と商人の町をつなぐ、土塀と石垣の調和がとれた美しい石畳の坂です。
凸凹のある“サンドイッチ型”城下町がよくわかるスポットです。

北台武家屋敷通り(杵築・北台)   (写真  4)    
長い土塀や白壁の続く静かな佇まいの残る町並みは、多くの歴史研究家から「日本一の城下町」と呼ばれるほど江戸時代の面影を色濃くとどめています。

大原邸(杵築・北台)   (写真  5)
松平藩家老を務めた大原家の屋敷。情緒あふれる堂々たる茅葺屋根をはじめ、長屋門から重厚な玄関構え、優雅な回遊式庭園などこの建物は杵築随一の武家屋敷です。

勘定場の坂(杵築・北台)    (写真  1)
緩やかな傾斜と広い階段は、馬や籠かきの歩幅に合うように配慮されたものです。富士山や扇の形をした石を探してみてください。

磯矢邸(杵築・北台)
加藤与五右衛門の屋敷跡。かつては、御用屋敷として利用されていました。現在邸内には栗原克実美術館が併設されており、水墨画などの作品が展示されています。

藩校の門(杵築・北台)   (写真  6,7)
杵築藩の藩校「学習館」の門、門をくぐると藩校の模型が展示されており、当時の様子がうかがえます。

南台武家屋敷(裏丁)(杵築・南台)   (写真  9,10)
武家屋敷の面影を最も残している裏丁では、高い石垣の上に土塀や長屋門が並び、今も江戸時代の風情が漂っています。

佐野家(杵築・上町)
代々町医者で藩医も務めた佐野家の屋敷は、天明2年(1782年)に建てられたといわれています。杵築の町屋では最も古い木造建築物で、接客部は旧状をよくとどめています。

杵築城(杵築・城山)    (写真  前掲)
木付頼直が応永元年(1394年)に木付城として築城。そして、松平氏入城後に「杵築城」となりました。現在の城は昭和45年に建築され、城山公園とともに市民に愛されています。天守閣からの海を望む景色は必見です。