月別アーカイブ: 2009年9月

船廻小学校跡のクロガネモチ  五島市奈留町船廻

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

船廻小学校跡のクロガネモチ  五島市奈留町船廻

奈留港ターミナルから奈留のメインストリートを抜け、奈留カトリック教会前を通る右道へ入る。山手の草摘峠に城山展望台入口の分岐があり、そのまま峠をまっすぐ下ると宮の森総合公園を過ぎ船廻湾の湾奥にある船廻地区に着く。

五島市立船廻小学校は、平成19年3月小中高一貫教育の取り組みに伴い、奈留小学校に統合され閉校となっていた。校舎は奈留出身の画家笠松宏有記念館として利用され、アート村として校庭隅に登り窯があった。
クロガネモチは前校庭の中に立つ。そんな巨木ではないが、樹形は良い。台風により中央上の幹の一部が折れたのか、緑のブルーシートを被せ手当てしていた。

2003年針本氏調査資料によるHP「奈留島の巨木達」は、次のとおり記している。
クロガネモチ  船廻(船廻小学校):胸高で(幹回り)293cm、グランドの真中に1本立つ老木。

船廻神社社叢  五島市奈留町船廻ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

船廻神社社叢  五島市奈留町船廻ほか

奈留港ターミナルから奈留のメインストリートを抜け、奈留カトリック教会前を通る右道へ入る。山手の草摘峠に城山展望台入口の分岐があり、そのまま峠をまっすぐ下ると宮の森総合公園を過ぎ宮の浜海水浴場に着く。船廻湾の湾奥となり、この前に船廻神社がある。
社叢は本殿の四周に広がるが、通路から中へは立ち入り禁止である。右方の外周道路からか、左方の前小学校に入ると一部の巨樹を見ることができる。

2003年針本氏調査資料によるHP「奈留島の巨木達」は、次を記している。cmは幹回り。
エノキ      船廻(船廻神社西端):胸高で440cm、道路からよく見える。
船廻(船廻神社):胸高で320cm、道路端のものの内側
タブ       船廻(船廻神社):胸高で420cm、角なのですぐ解る。
船廻(船廻神社):胸高で400cm、かなり痛んでいる。
船廻(船廻神社):胸高で390cm、胸高で2本に
ナタオレノキ  船廻(船廻神社):胸高で445cm、小学校そば、絡んでいるアコウごと
船廻(船廻神社):胸高で300cm、北西方向

長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。特にナタオレノキの巨樹の多さは、県下一と言われる社叢であると現地説明板にあった。

船廻神社社叢 天然記念物(県指定) 

よみがな ふなまわりじんじゃしゃそう
指定年月日 昭和31年(1956)年4月6日
所在地 五島市奈留町船廻939ほか
管理責任者 五島市
船廻は奈留町の門戸である浦港の北約3㎞のところにある集落で,ここに八幡をまつる船廻八幡神社がある。この神社は海岸の平地にあって,さほど広くはないが,ホルトノキ・ナタオレノキ・イスノキ・バリバリノキ・ナギ・モクタチバナ・アコウ・カカツガユ・サツマサンキライなどの暖地性の樹木や草本が茂っている。現在ナタオレの幹の回り1mの樹木も多数みられ,そのなかには3mを越す巨樹が2本もある。

奈留島皺ノ浦のハマジンチョウ群落  五島市奈留町大串浦字池塚

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

奈留島皺ノ浦のハマジンチョウ群落  五島市奈留町大串浦字池塚

奈留港ターミナルから奈留高校の方へ向い、学校手前から西海岸通りの道へ入る。途中8kmに江上天主堂があり、大串湾を回り込んだまだ4km先の車道終点が皺ノ浦の海岸である。
または港から県道168号線により相ノ浦湾沿いに行き、遠命寺トンネルを抜けると江上天主堂に着く。
ハマジンチョウは、池塚観音堂が祀られた海跡湖の湖岸に群落がある。開花期写真は現地ビーチロック(別掲)説明板から。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

奈留島皺ノ浦のハマジンチョウ群落 天然記念物(県指定)

よみがな なるしましわのうらのはまじんちょうぐんらく
指定年月日 平成元年(1989)年9月29日
所在地 五島市奈留町大串浦字池塚503−1
所有者 五島市
ハマジンチョウはハマジンチョウ科の熱帯性の常緑低木で,東南アジアから北上分布し,台湾,琉球,種子島を経て,九州西岸を五島列島まで至る。本種は波静かな入り江の奥の海岸に生育し,満潮時には株元は海水に浸る。しかし入り江の奥にあった本来の大規模な生育地は,古くからの人の居住地に近いため多くが失われている。奈留町大串郷字池塚には,直径100メートル,短径50メートルの海跡湖があり,その湖岸に長さ80メートルにわたってハマジンチョウが群落をなす。それは3つの特色を有している。一つは,かつて五島列島の入り江各所に存在していたであろう大規模な群落をなしていること,二は群生地が海岸ではなく海跡湖の岸にあること,三はその環境の高い自然度である。いずれの点からも我国第一級のハマジンチョウの群落である。ほかに海跡湖の湖岸には,本種とともにヒトモトススキ,シバナ,シオクグ,ハマボウなどの塩湿地植物が自生する。

奈留島権現山樹叢  五島市奈留町浦

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

奈留島権現山樹叢  五島市奈留町浦

奈留港ターミナルからすぐ左手に見える小山。海岸通り裏手の旧通りに入ると説明板がある。近くの梯子から樹叢内に登られるらしく、アコウの巨樹が数本あると聞いたが、樹叢内には立ち入らなかった。
2003年針本氏調査資料によるHP「奈留島の巨木達」は、次を記している。cmは幹回り。
アコウ    浦(権現山):胸高で750cm、頂上の港側
浦(権現山):胸高で565cm、頂上の南東側
スタジイ  浦(権現山):胸高で330cm、北西斜面の中程
ホルトノキ 浦(権現山):胸高で335cm、頂上西側下、アコウが絡む

長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

奈留島権現山樹叢 天然記念物(国指定) 

よみがな なるしまごんげんやまじゅそう
指定年月日 昭和33年(1958)3月11日
所在地 五島市奈留町浦1897−1ほか
管理団体 五島市
この樹叢は,奈留町浦郷の海岸にある海抜52mの小山にある。樹高は10〜15m,高木の幹径は50cmを越すスダジイ・イスノキを主木とし,ヤブツバキ・シロダモ・ホルトノキ・タブノキ・モッコクなどがあり,林下にはオオカグマ・フウトウカズラ・ノシラン・アオノクマタケラン・ヤブランなど常緑草本が密生する。テイカカズラ・サネカズラ・サカキカズラ・ムベなど常緑つる植物も多い。山頂近くにはアコウの大木があり,四方に枝を広げ,気根を垂下し,一部は地面にとどいて支柱根となっている。この樹叢は,五島列島中部の低地の森林を代表するものである。かつてオオタニワタリ(大型シダ植物)が生育していたとの記録があるが,いまは姿を消している。

落矢ダム尾根から八郎岳と兜岳へ  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

落矢ダム尾根から八郎岳と兜岳へ  平成21年9月

平成21年9月19日(土)快晴。落矢ダム尾根から八郎岳(標高589.9m)と兜岳(標高462m)へ。参加11人。落矢ダムの尾根を八郎岳まで登る道は、5年前に古地図によって途中まで山道があることがわかり、当会が整備したコースである。「要塞標」もその時発見した。
江川運動公園9時半発ー落矢ダムー竿浦分岐ー水場ー植林地ー八郎岳山頂(昼食)ー兜岳分岐ー兜岳ー江川分岐ー土井首中同窓会植林地ー江川町14時半着(距離約13km)

落矢ダム車道終点手前から右手尾根の山道へ入る。30分ほど登った道脇にある標石は、陸軍省が明治32年に建てた「長崎要塞第二地帯標 第十三号」である。落矢ダムは前香焼町の所有地。その境界柱に沿い雑木林の尾根を登る。水場を過ぎた最上部あたりに旧所有者川南造船の「川工」と刻んだ珍しい標石が1つ残っている。

山頂真下は、檜の植林地となり急登すると、一気に山頂へ出る。八郎岳は市内の最高峰。一等三角点がある。四方の展望が広がるが、きようは東の雲仙・天草・甑島方面は霞み写真とならない。山頂の寸胴なコンクリート柱は、昭和33年に地理調査所が設置した旧「天測点」。対の「子午線標」は大久保山に残る。

山頂へは12時着。昼食後、縦走コースを少し戻り、兜岳分岐から兜岳へ向かって下った。害獣「鹿」駆除の発信機を付けた猟犬がのこのこ現れ、下山した江川上の団地まで結局ついてきた。飼い主が下の国道で必死に探していたが、呑気なはぐれ犬なので、山へ戻ったことも考えられる。
詳しくは、宮さんの参加ブログ記事を。 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21163705.html

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (2)  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (2)  平成21年9月

平成21年9月13日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事で「大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり」。講師は長崎楽会中尾武先生。参加・スタッフとも19人。

女神バス停9時半発ー魚見岳台場跡ー明治9年地理局測点ーマテバシイ巨木ー大久保山ー子午線標ー天明藩境塚ー舫塚林間(昼食)ー採石所跡岩場ー萱の原ーセキ岩・オオ岩・ウマ岩ー褶曲地層ー了願寺ー千本松跡ー海底電線陸揚庫ー小ヶ倉神社15時着。

コースは約10km。国指定史跡「魚見岳台場跡」から大久保山(標高234m)に登り、小ヶ倉へ下った。途中にある史跡や珍しい標石などを見学した。
長崎港口にあり歴史ある山なのに、あまりに知られないことが多い。昨年5月に続き2回目だったので、参加者が少なかったが、見聞を深めたのではないだろうか。
大久保山の山頂は伐採され、採石所跡岩場と萱の原には新小ヶ倉側からブルが入り、一帯を伐り拓いていた。何のためだろうか。ブルが入ったのは3日前からだ。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21046818.html
次回の学さるくは、9月26日(土)に「長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり」。講師は諫早市郷土館織田武人先生。矢上バス停に午前9時30分集合。

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (1)  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (1)  平成21年9月

平成21年9月13日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事で「大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり」。講師は長崎楽会中尾武先生。参加・スタッフとも19人。

女神バス停9時半発ー魚見岳台場跡ー明治9年地理局測点ーマテバシイ巨木ー大久保山ー子午線標ー天明藩境塚ー舫塚林間(昼食)ー採石所跡岩場ー萱の原ーセキ岩・オオ岩・ウマ岩ー褶曲地層ー了願寺ー千本松跡ー海底電線陸揚庫ー小ヶ倉神社15時着。

コースは約10km。国指定史跡「魚見岳台場跡」から大久保山(標高234m)に登り、小ヶ倉へ下った。途中にある史跡や珍しい標石などを見学した。
長崎港口にあり歴史ある山なのに、あまりに知られないことが多い。昨年5月に続き2回目だったので、参加者が少なかったが、見聞を深めたのではないだろうか。
大久保山の山頂は伐採され、採石所跡岩場と萱の原には新小ヶ倉側からブルが入り、一帯を伐り拓いていた。何のためだろうか。ブルが入ったのは3日前からだ。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21046818.html
次回の学さるくは、9月26日(土)に「長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり」。講師は諫早市郷土館織田武人先生。矢上バス停に午前9時30分集合。

長崎の西の空の夕日  09−19

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

長崎の西の空の夕日  09−19

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成21年 9月 6日の18時33分頃から  大籠町善長谷教会から
写真  4      平成21年 9月 7日の 6時18分頃から  朝空けの満月
写真  5〜 9  平成21年 9月 8日の18時01分頃から
写真 10〜12  平成21年 9月 9日の18時33分頃から

深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

深堀の散策 (7)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  3    城山全景(平山台と大籠町バス停から)と登る途中、平山台団地・為石方面を望む。

写真  4〜  6   (43)城塁及五条の空溝
城山(350m)の頂上に東西約200m、南北約100m、厚さ約4mをもって同山頂上を鉢巻状に石片と土をもって構築せられた城塁である。其の年代、目的等はさだかでなく中世期になるものと判定があるのみで学術的解明が期待せられる。
建長7年(1255年)3月彼杵戸八ヶ浦荘を将軍宗尊親王より賜った時、10万石の諫早をとるか天下の名城城山に赴くか二者択一の際、天下の名城を拝せん旨を申し上げたとの言い伝えがある処より、それ以前すでに構築せられていた事は間違いない。尚此の際附記して将来の参考に資したい。此の城塁の諸所に立射散兵壕が作られているが、これは第二次世界大戦時の末期に米軍の上陸に備えて築かれたものである。
五条の空溝は西南方に赤土部落方向に作られているもので、規模は長さ約100〜200m、巾約3mの空溝で、溝の両側には石をもって界を作っているものが五条あるもので、之が構築された時代及目的は城塁と共に今尚謎とされている。学術的解明を望むや切なるものがある。

写真  7〜  9   (44)八 幡 神 社
標高350mの城山(俵石山とも云う)の山頂にある社で、此の神社は建長7年3月28日上総より下向の際鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分神を奉持して此の地に祀ったもので、此の記録は境内祠に向って左側に石碑があるが今は風化甚だしく剥離し去って読み得べくもないが、その拓本(重建俵石八幡石詞誌銘参照)によれば菩提寺十一世鶴天大キ大和尚の撰銘にして、其の冒頭に「肥の前の州彼杵郡深堀邑俵石山八幡宮は原(もと)総州鶴ヶ岡八幡宮の若社也而して此の地に遷崇して凡そ茲に五百年なり。そもそも彼の八幡は往時三浦義明(系図参照)相州を領し執柄の日專ら住崇したる所の鎮守也」とある処から、三浦氏の崇信の神を奉遷したのもむべなる事である。古来八幡社は武神として崇められ、八幡大菩薩の旗をおし立て南支、ルソン方面を荒し廻った往時を追懐する時、祖先が如何に此の神社を尊崇したかがわかる様な気がする。
日露戦争の際有海の青年が此の境内にひる寝をした処、沢山の鎧武者が西北方へ向って出陣する様を夢現に見たそうである。其の人は誰であるか探していると前村長の志波原三郎氏から聞いた筆者の青年時代を思い出す。これは取るに足らないかも知れないが附記しておく。

写真 10〜 11   (45)神 籠 石
八幡社の境内にある直径約2m位の楕円形の石である。遠い昔石器時代に神を祭る際に用いたものではあるまいか。

写真 12〜 13    城山の山頂三角点(標高350m)と陸軍省「長崎要塞第二地帯標 第八号」

写真 14〜 19   (46)愛 宕 神 社
例年7月23日の夜此の愛宕山(標高250m)で立木を伐って火を焚く神事で、その起源については考証すべき何物もないが、只だ想像されるのは、その昔八幡船として活躍した和寇共が唯一の頼りとして此の山の火を望見した事もあったかも知れない事で、瀬戸内を夜航海すると或る夏の夜島の山上に火が燃えているのを見る事があるとは、松永隆氏の話しで同地には所謂村上水軍がはびこっていた事を想へば、平戸の松浦党、深堀の三浦党も又同じ様な事をしたと想定する事は唐突なことであろうか。又記録によると寛永15年(1638年)幕命により峰火台を始めて長崎に置くとあるをもって、当時唐、紅毛船の来通多く長崎港出入の見張りをなすに恰好な地でもある野母、香焼、伊王島、各遠見所からの峰火を、深堀で集約し長崎の烽火台へ、そして江戸へ3日を要して達したとも言われる。
此の火祭を主宰する処は3丁目の青年達である。元来3丁目は鍛冶町と呼び火を最も使う鍛冶屋の多い土地柄である此処が、火の神たる火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祭る愛宕神社祭事を主宰するのも当然の事で、今尚続けられている。翌7月24日は獅子舞で早朝から夕方まで、町中の処所を舞い廻る行事が例年行われている。(終)

写真 21(追加写真) 女の坂の首なし地蔵
深堀史跡案内図にはないが、深堀から大籠へ出るみさき道途中「女の坂」にある伝承で有名な地蔵。文久元年「深堀郷図」に地蔵堂がこの場所に描かれているので、それ以前の安置と断定してよい。
伝承の詳しくは、長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店昭和48年刊412頁にある。

深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

深堀の散策 (6)  長崎市深堀町1〜6丁目・大籠町

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  5   (38)座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ2つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切っている。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟りがあると信じられて誰も伐る者がない。
(老木は「タブノキ」。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/534

写真  6〜      (39)藩 主 の 水
座禅石より東約100mの谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

写真  7〜 14   (40)カトリック部落善長
此の地の歴史は比較的新しく、文化年間(1804年)甚介の子佐八が六家族を旅芸人の風を装い三重樫山から脇岬の木場、ゆりさき(鯨浜附近)を経て此処に住みついた。住みつく条件として八幡神社の毎月の祭礼及お水方として藩主用の水汲みの役を果す事であった。八幡社の祭礼を行う事は勿論隠れキリシタンで表向きは菩提寺の檀徒であった。それは佐八の碑銘には実三悟道信士天保九戌三月十三日とあるを見ても明らかである。(略)

明治維新信教の自由が認められ、此処に於いても今迄で隠れキリシタンで迫害を避けていたので、公然とキリスト教徒として立つ事の会議を開いたが、一部は今迄自分達が祀って来た神があるのではないか、何も明治になって信教の自由が認められたからと言って改宗の必要はない。との両論に分れその結果としてカトリック教徒は善長に残り、今迄通りの一派は蚊焼の岳路に袂を分つ事となり、今もカトリック教会に属せぬ「離れ切支丹」として密教的信仰を持ち続けている。八幡社の祭礼は今尚此の岳路善長の人達に依って祀り継がれている。濃緑のきれいな砂も同地から運び来ったもので、神社の200m手前の鳥居の根方に履物を脱いで参拝するを礼とし、水も途中休む事なく、肩から肩へ担いつがれて運ばれると言われている。

尚此処で深堀藩とカトリックの関係に就いて江湖の誤解を解くため参考迄に記しておくが、非切支丹深堀藩の支配下にあった所に、案外カトリック教徒の部落が多い事は特異的であろう。例へば三重の樫山、戸町の奥の大山、長崎港口に位置する神之島、蔭の尾、伊王島、そして善長等皆そうである。按ずるにこれは当藩においては同教を奨励はしないまでも黙認していたのではないかと思われる。海外との密接な関係(例えば貿易)などにより、耶蘇教への本質的理解が充分にあったのだということも考えられる。
(「善長谷開拓碑」は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/129

写真 15〜 16    善長谷教会上にある「ゆうこう」の大木    

写真 17〜 18   (41)俵   石
直径約30cm長さ1m〜1.5mの柱状の石が地中に規則正しく配列され或は地上不規則に散乱し其の数量は無数である。これを俵石と呼んでいる。
一説は古代人の手になるとするもので宮摺方面から為石に運び同所の川をさかのぼり平山方面から城山に運び石垣を築いたとする説。又一方「柱状節理」と言う言ふ現象により俵石が出来たとする自然説があって、考古学的はたまた地質学的に興味深いと思われる。

写真 19〜      (42)亀   石
俗称簡笥石と言われ1m×2m×1m位の石に亀の甲状に線が入った石で、俵石群から東北約100mの中腹にある珍しい石で、俵石と同様人工、自然の両説あり。