月別アーカイブ: 2009年5月

野母崎の散策 (8) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

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野母崎の散策 (8) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(8)は、野母の風景・史跡。野母は続く。

蔵徳寺、葉山神社、小立神岩、大立神岩、権現山展望公園、日の山神社、深浦(ケゴシラ)、野母崎海の健康村 陽の岬温泉

長崎さるくマップブック「野母崎界隈」80〜81頁による説明は次のとおり。

写真  4〜     葉山神社
神仏混淆禁止令が出された明治の初め、神像があまりにも仏像に似ているということで没収。以来、神社となった葉山神社。社殿と鳥居は残され、その後、付近の住民によって祀られるようになったといわれています。

写真  8〜     権現山展望公園と椿公園
日本最西南端に位置する標高180mの権現山からは、東に天草灘、西に五島灘、そして南に果てしない東シナ海が一望できます。権現山には、江戸時代以前から海外から入港してくる貿易船などを見張る”遠見番所”が置かれていました。展望公園内には、世界平和の願いを込めた梵鐘や烽火台跡が残っています。
また、権現山は国内外の椿250種約300本、やぶ椿1万数千本が自生する椿の名所としても知られ、一帯が椿公園となっています。その中には野母崎でしか見られない可愛らしい白椿”陽の岬”があります。

写真 14〜     日の山神社
貞観13年(871)。熊野神社の例祭の夜、海の彼方から流れた光が鳥居道の海岸で消えた。その夜、宮司の夢に現れた観音菩薩が、海上遥かに見渡す山頂に自分を安置するようにお告げがあり、不思議に思った宮司達が鳥居道の浜に行くと、観音菩薩が流れていたので、これを日の山に祀ることになったといわれています。日の山の名称は、朝日が昇ってから西の水平線に陽が沈むまで輝いている山、という意味です。

写真 15〜     深  浦(ケゴシラ)
熊野神社の縁起によると、孝徳天皇の御代(645〜654)、紀州熊野の漁師が漂着したのが、ケゴシラ(毛頭)と呼ばれるこの辺り。その後、近隣、遠国から人々が集まり、村をなした場所です。この野母崎で最初に人々が住み着きできた村落は、今はのどかな漁業の町となっています。

写真 17〜     野母崎海の健康村 陽の岬(ひのみさき)温泉
客室は全室オーシャンビュー。雄大な海を望める宿泊と温泉施設。泉質は美容効果が高い重曹泉で鉄分を多く含み、婦人病にいいとされています。併設するレストランでは、野母崎特産の ”のもんあじ”や”伊勢えび”などの旬の食材を使った季節料理が楽しめます。

野母崎の散策 (7) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

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野母崎の散策 (7) 野母の風景・史跡  長崎市野母町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(7)は、野母の風景・史跡。野母は続く。

長崎市野母崎行政センター、長崎市立野母崎中学校、前県道道路元標、海岸通りの児童作品、長崎市立野母崎病院、権現山展望公園の案内標識、無量山海蔵寺、熊野神社、同神社から港と町を見る、長崎市立野母小学校、庄屋跡の石垣、母ヶ浦海岸、対岸の造船所、のもざき朝市直売所

長崎さるくマップブック「野母崎界隈」80〜81頁による説明は次のとおり。

写真  9〜     無量山海蔵寺
慶長年間(1596〜1614)に僧・善金が野母に来て真宗の教義を布教、その後、万治3年(1660)僧・以峰によって開基、本願寺14代琢如上人から木佛尊像を下附され無量山海蔵寺と号しました。野母八景の屏風絵や多数の古文書を所蔵しています。
10代彰己住職は河原白朝の俳号で知られる俳人。権現山山頂には、俳人・下村ひろしの書による「蘭船このかたの水路や雲の峰」の句碑が建立されています。

写真 10〜     熊野神社     
斉明天皇4年(658)、紀州熊野の漁師夫婦の漂着により、夫婦の故郷の神、熊野神社の加護によるものと感謝し、自宅近くの丘に勧進しました。明治維新までは神仏混淆で、阿弥陀如来が祀られていたといいます。野母の地名の由来には諸説ありますが、この熊野神社の縁起によると、無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、「野の母」の野母と名づけられたといわれています。

写真 17〜     庄屋屋敷跡の石垣
野母小学校前、地元では城と呼ばれるこの界隈は、かつての領主・深堀(野母)仲家の居住地。仲家は深堀家の3男で、2男は高浜の領主でした。その後、庄屋となり、この地は今でもその名残がこの石垣に見られます。

写真 18〜     母ヶ浦海岸
最初にこの地に移り住んだ漁師夫婦のうち、夫は帰郷のため老母が1人残りました。母に抱かれた浦という意味で人々は母ヶ浦と呼ぶようになりました。

写真 20〜     のもざき朝市
野母崎三和漁協、約70名の組合員さん達が獲れ獲れの活魚を入荷。週末は開店30分前から行列ができる料理人さんにも人気の直売店。鮮魚が3分の2を占め、あとは地元で採れた野菜や水産加工品が並びます。アジやエソを原料としたカマボコが自慢の逸品です。

長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (2)  平成21年5月

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長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (2)  平成21年5月

平成21年5月3日(日)曇りのち小雨。長崎学さるく幕末編第4回”長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” 講師は、諫早市郷土館織田武人先生。参加32人。
矢上バス停9時半発ー矢上神社ー教宗寺ー役の行者ー福端寺ー古賀大村庄屋屋敷跡ーラカンマキー迎仙閣(昼食)ー滝の観音ー奥の院ー間の瀬峠ー現川古窯跡ーJR現川駅15時着

長崎街道を矢上宿から古賀まで歩き、滝の観音から現川へ旧道の山越えをして、途中の史跡など見る。約14kmを歩く。
現地を詳細に調べられている資料と説明があった。昼前から小雨となったが、迎仙閣で昼食。現川への峠越えに雨は止み、山道は濡れてなかった。

前年10月にも開催したため、今回は史跡の詳細な写真を多くした。(1)は、親和銀行保養所迎仙閣の昼食まで、(2)は、午後の現川まで。
次回は5月31日(日)に”坂本龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上から田結境まで歩く”
宮さんブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/15923979.html

長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (1)  平成21年5月

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長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (1)  平成21年5月

平成21年5月3日(日)曇りのち小雨。長崎学さるく幕末編第4回 “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” 講師は、諫早市郷土館織田武人先生。参加32人。
矢上バス停9時半発ー矢上神社ー教宗寺ー役の行者ー福端寺ー古賀大村庄屋屋敷跡ーラカンマキー迎仙閣(昼食)ー滝の観音ー奥の院ー間の瀬峠ー現川古窯跡ーJR現川駅15時着

長崎街道を矢上宿から古賀まで歩き、滝の観音から現川へ旧道の山越えをして、途中の史跡など見る。約14kmを歩く。
現地を詳細に調べられている資料と説明があった。昼前から小雨となったが、迎仙閣で昼食。現川への峠越えに雨は止み、山道は濡れてなかった。

前年10月にも開催したため、今回は史跡の詳細な写真を多くした。(1)は、親和銀行保養所迎仙閣の昼食まで、(2)は、午後の現川まで。
次回は5月31日(日)に”坂本龍馬が歩いた道ー島原街道を矢上から田結境まで歩く”
宮さんブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/15923979.html

野母崎の散策 (6) 高浜と南越の風景・史跡  長崎市高浜町・南越町

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野母崎の散策 (6) 高浜と南越の風景・史跡  長崎市高浜町・南越町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(6)は、高浜と南越の風景・史跡。高浜は続き。

高浜海水浴場前の八幡神社、昭和58年改築前の扁額など、神社横に片付けられた破損の手洗い石など、料亭松実の高浜温泉給水所小屋、料亭入口に移され祀られた浜添の忍ぶの地蔵、古里海岸埋立地に残る建岩(たていわ)、みさき道の堂山峠入口、堂山峠と道標、南古里の海岸、南越の龍田神社、高浜村と野母村の境となる田ノ子島

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  1〜     八幡神社
髙浜本村の氏神さま。9月25日に、秋の大祭が行われています。地元の人には(にじゅうごんち)といわれしたしまれています。(最近は、23日の秋分の日) 
まつり当日、地元相撲協会や小学生による奉納相撲も行われています。御輿は八幡神社から三浦神社にお上りして三浦神社からお下りになります。
建立:元禄6(1693)  祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后

写真  6〜     八幡神社の手洗い石
髙浜の字名の由来考に八幡神社の手洗い石の文字が有り探してみましたが、見つかりませんでした。再度、探しに行ったらそれらしきものが八幡神社の右に無造作に置いてありました。昭和58年に改築したので、そのとき破棄されたのでしょうか。

写真 15〜     古里の建岩
古里港の埋め立て地に大きな岩が有ります。地元の人はトーンビーゼ゛といって地元の象徴になっています。

写真 20〜     南越の龍田神社
南越地区のの一番上にある神社です。古里と出口にもにも龍田神社があります。神社の裏手に有った、古い鳥居には獅子祇社と名が書いていました。出口の龍田神社も鳥居には獅子祇社となっています。龍田神社の下にある祠は、明治41年9月15日となっています。

野母崎の散策 (5) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (5) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(5)は、高浜の風景・史跡。高浜の続き。

高浜海水浴場右手(北西側)のインゲリ鼻海岸の岩場、ポットホール(甌穴)、木の化石、洞穴(コウモリ穴)、岩場の潮溜り、端島を向いた地磯釣場と高浜海水浴場

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  1〜     インゲリ
髙浜海水浴場の右手に見える磯です。黒浜や以下宿のような斑糲岩ではなく大部分が砂岩でなっています。木の化石や洞窟(地元ではコウモリ穴と呼んでいる)があります。ここの磯にはポットホールもたくさん見あたります。

野母崎の散策 (4) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (4) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(4)は、高浜の風景・史跡。高浜の続き。

県営高浜ダム、三浦能仲を祀る三浦神社、浄水場の水神と道の地蔵、大野の大石と祠、大石の川上流の滝、長崎市立高浜小学校、弁天山の農道途中から高浜海水浴場を望む、弁天山(祗園山)の厳島神社と展望

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  9〜     三浦神社
髙浜の開祖、三浦能仲を祀った神社です。髙浜を開いた人は二つの説が有ります。
一つは、平家が滅びた頃一人の武将(三浦能仲)が家来と家族を連れ殿隠れ山に隠れて、しばらして麓に降り城山に仮の城を建て住んでいたそうです。そのうち人々が集まりそこに髙浜村が出来たという言い伝えが有ります。
別の説では、戸八浦(長崎半島付近)の地頭をしていた深堀能仲と同一人物だとの話もあります。詳しい資料がないので詳細が分からないそうです。
天明元(1781)石碑建立、大正7(1918)拝殿新設、昭和56(19811)拝殿再建。

写真 12〜     大野の大石
大野の字名石鍋の近くに大きな岩が有ります。字名からして石鍋を作っていたと思われますが、その形跡が有りません。近くの人からは石垣の材料にしていたと聞きました。

写真 19〜     弁天山の厳島神社
髙浜小学校の下を通り海岸にでると登り口が有ります。畑を直に登ると早いんですが、農道があります。携帯電話のアンテナの横から林の中に入っていきます。途中の道では海水浴場や殿隠山、遠見山がよく見えます。
頂上には弁財天と厳島神社が祀っています。展望台もありそこから北を見ると以下宿から野々串の景色が美しいです。浜添公民館の弁財天は、山の上まで参りに行くのは大変なので仮の参拝所として設置しているそうです。

野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

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野母崎の散策 (3) 高浜の風景・史跡  長崎市高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(3)は、高浜の風景・史跡。野々串は前項。高浜は続く。

野中の延命水と碑、高浜の字名由来考掲載の碑文、長崎県立野母崎高等学校、長崎市高浜地区公民館・高浜連絡員事務所、長野観音堂(長野公民館に建て替え)、高浜村役場跡と門柱、高浜農林公園、高浜保育園、正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)、正瑞寺の地蔵銅像(長崎市指定有形文化財)、正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等、正瑞寺墓地から望む町並み、金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。正瑞寺の地蔵銅像写真も同HPから。

写真  1〜     野中の延命水
むかし、大きな松が有ったそうです。松の根元には大きな穴が空いており人一人がたてるぐらいの大きな穴だったそうです。松の近くに湧き水があり、岬の観音様に巡礼に来る人たちの休憩所だったり、戦地に行く兵隊さんをここで送ったりしたそうです。
松の穴は雨露をしのぐ為にも使ったようで、大正3年(1914)巡礼さんの火の不始末で松が燃えてしまい、今ではその形跡も分かりません。

写真  6〜     長野観音堂(観音菩薩、念仏塔)
現在、長野公民館に建てかえられています。以前は髙浜本村に多くの信者がいたそうですが、戦後少なくなったそうです。観音堂には二本のえの木が有りました。一本は観音堂の右後ろ(今は無い)、もう一本は階段付近。子どもたちがよく登って遊んでいたそうで、木から落ちた子どもも数人いましたが、一人も怪我をしなかったそうです。
木製の古い観音像が有ったそうですが、立て替えの時処分されてしまった。建てかえの時、手洗い石とお地蔵様はえの木のそばに移動。

写真 13〜     正瑞寺(放光山・浄土宗鎮西派)
寺伝によると1207年、三浦(深堀)能仲の創設で、中国の唐から来た禅宗の玉谿公大禅師(ぎょくけいしゅうこうだいぜんじ)を開山上人(かいさんしょうにん)とし建てたといわれています。しかし、能仲が地頭となったのは1255年のためその年代が不明である。
深堀文書では正平1年(1346)高浜時綱が正綱に高浜を相続させる時、弥陀安を僧として寺を建てたと記されている。最初は、現在の寺の上(寺屋敷の地名がある)の地に建てられたが、深堀族の殿様が現在の深堀に居城を移したため、荒れ寺になってしまう。
慶長19年(1614)長崎の大音寺を開いた法連社伝誉徹大和尚(ほうれんじゃでんかんてつ)が、当時、野母、蔵徳寺に行き、叔父僧・定誉孝春(じょうよこうしゅん)を尋ね帰る船の上、不思議な夢をみた。
それは荒れた寺の中から光がさし、仏様が現れ、「この寺を復興せよ」との有り難い夢をみ上陸して不思議な夢で見た地形と寺を探して、正瑞寺にたどりつき本尊を拝み、お姿の尊さに感じ、この寺を復興して、浄土宗と改宗して念仏の教えを広めることにした。
浄土宗に改宗し、高浜の人は皆、檀家となっていたが、4代直蓮社廓念和尚(じきれんしゃかくねん)のとき、庄屋との間に争いがおこり檀家を変える騒ぎがあり、信者が少なくなり寺は衰え住職はいなくなった。
慶長19年(1689)三浦八兵衛がこれを憂いて、田地、山林を寄贈して、我が子を大音寺に出家させて僧となし、後に6代 證巖良(しょうがんりょう)和尚となりその後、寺が盛んになった。

写真 15〜     正瑞寺地蔵銅像(市指定有形文化財)
銅造りの地蔵菩薩の像は、中国明末の様式を伝えており崇福寺の像と同じ流れの一つであろう。掌い宝珠を乗せ顔の表情も写実的であり、後頭部や胸部の状態が肉感的小指のつめ等細部にわたり、写実風の特異な表情を持った像である。
江戸時代初期(1674)の鋳銅像で、高さが86.7cmもあり、このような大きなものは近世仏像の中では貴重な作例といわれる。

写真 17      正瑞寺墓地の宝篋印塔(ほうきょういんとう)等
正瑞寺の小高い丘の上には深堀家に関係すると思われる十数基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が有る。高浜小学校を拡張したとき弁天山の麓にあった物を掘り出し移動した。

写真 20〜     金徳寺(光福山・浄土真宗大谷派)
1588年深堀家惣領家18代純賢は、大村藩の領土長崎へ出入りする商船を差し止めた事が海賊行為とみなされ、秀吉の怒りをかい、深堀の領土を没収された。そのころ肥後善行寺の僧が高浜に移り住み念仏をの教えを説き回り、村民は一同こぞってその教えに帰す。
特に当時高浜村2代目庄屋熊甚右衛門は誰よりも信仰が厚く、元和2年(1616)甚右衛門は出家名を祐正と改め一宇を建立し善行寺と号す。その後、長男祐閑を2代目住職にし、次子祐意を引き連れ築町に同じく善行寺を開創した。
しかし、使用人が国禁を犯し善行寺の寺号は取り上げられ廃寺となった。その影響が、本家である高浜にも及び、同じように寺号を取り上げられた。 2代目祐閑は寺号なきを嘆き、新たに寺号を受けることを発願し、広く門徒に助成を求めました。
その当時、新しく寺号を得るには、膨大な資金がかかり住職と門徒の苦労は大変なものであった。その後15年を経て、万治1年(1658)再興が許可され金徳寺に寺号変え今に至っている。交通の便がまだ悪かった時代には黒浜と以下宿に金徳寺の分寺が建てられた。

野母崎の散策 (2) 以下宿と野々串の風景・史跡  長崎市以下宿町・高浜町

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野母崎の散策 (2) 以下宿と野々串の風景・史跡  長崎市以下宿町・高浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(2)は、以下宿と高浜の野々串の風景・史跡。

黒浜トンネル出口と網掛岩、トンネルを出た海岸国道、以下宿バス停にある野母崎観光マップ、野母崎の変はんれい岩露出地(長崎県指定天然記念物)説明板、夫婦岩から軍艦島を望む、特別養護老人ホーム永寿園、岳路みさき道の尻食い坂(しっくいざか)以下宿出口、同近くの川端の地蔵、金徳寺(高浜)の以下宿の分寺(以下宿公民館)、以下宿南谷の砂防ダム、同手前の岳路みさき道の延命水への登り口、みさき道本道の以下宿三叉路にある道塚⑦「御崎ヨリ二里 長崎ヨリ五里 文政七年申十一月(1824) 今魚町」
野々串漁港北側から、高浜漁業組合記念碑、野々串漁港南側から、南側防波堤から先の海岸に行った野々串の立岩、立岩先のインゲリ鼻方面海岸

野母崎町史年表によると「明治16年(1883)三山汽船(本社時津港)長崎〜野母航路を運航開始する」とある。昔から渡海船はあり、野々串にも寄港していた。
野母ー脇岬間にバス運行は昭和10年(長肥自動車)、同15年長崎自動車が長肥を合併。戦時中は運休されていた。
船便は同年表では「昭和38年(1963)8月7日野母商船 長崎〜野母航路を廃止」とある。

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  9〜     以下宿の金徳寺の分寺
黒浜や以下宿には昔からお寺がなく、金徳寺の分寺を住民が資金を出し合い建てたそうです。現在でも法事など有ると金徳寺から住職が来るとのこと。このお寺も金徳寺の分寺です。現在、以下宿公民館となっています。

野母崎の散策 (1) 黒浜の風景・史跡  長崎市黒浜町

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野母崎の散策 (1) 黒浜の風景・史跡  長崎市黒浜町

長崎市の野母崎地区は、長崎半島の先端部。九州本土最西南端にあたる。周囲を海に囲まれ、海岸の景観に優れる。野母崎町は平成17年1月4日、長崎市に編入された。
野母崎の散策(1)は、まず長崎市街寄りから黒浜の風景・史跡。
黒浜の弁慶の投石、黒浜ダム、黒浜の八幡神社と大イチョウ、黒浜海岸、黒浜海岸の変はんれい岩(長崎県指定天然記念物 説明板は以下宿の項で)、高浜小学校黒浜分校跡、岳路みさき道の尻食い坂(しっくいざか)黒浜側登り口、黒浜海岸を高台から、黒浜トンネル入口

黒浜の弁慶の投石は、安永2年(1773)当時の長崎代官「高木作右衛門支配所絵図」に、佐賀領蚊焼村と公領高浜村の境界地点「投上ヶ石」として表われている(写真1 長崎歴史文化博物館所蔵)。夕日を頂にローソク岩の景色も写せた。
八幡神社は、国道沿い黒浜トンネル手前にある。大イチョウは胸高樹囲4m位。鳥居脇の燈籠には文久二年(1862)の銘あり。この頃のものかと考えられる。
巨木の項は、https://misakimichi.com/archives/196

高浜紹介HP「さんぽみち」(検索は「高浜さるく」)による説明は次のとおり。同HPも参照。

写真  2〜     黒浜の弁慶の投石
黒浜の字名「投上(なげあげ)」というところにあります。地元の方も数人しか知りませんでした。岩の高さは10mぐらいあるでしょうか。「髙浜の字名由来考」には次の様に記されています。
投上は髙浜と蚊焼との境界地点で知られた場所である。俗称を「弁慶の投石」といった。海面に立つ巨石の頂上に人工的に乗せられたような自然の情景。先人達の伝説には、弁慶が投げた石が重なり乗ったものだとの昔し話が残されており、その地を字名「投上(なげあげ)」と呼んでいる。
黒浜の「ようこそ野母崎へ」の看板横の道を登り海岸に下りると正面に見えてきます。

写真  8〜     八幡神社
黒浜の国道沿いにあるのが八幡神社です。鳥居の近くに土俵があり、祭りの時は奉納相撲をやるとのこと。本殿は、拝殿の右側の道を少しあがった所に有ります。
祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后