月別アーカイブ: 2008年7月

明人堂  五島市福江町

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明人堂  五島市福江町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前左方に五島市指定史跡「明人堂」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の守り神・明人堂  ◎福江港から歩いて10分

天文9年(1540)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求め福江に来航した。財政的に苦しんでいた領主宇久盛定公は喜んで通商を許し、城下(江川城)の高台に居住地を与えた。これが現在の唐人町である。
その一画に王直ら中国人が、航海の安全を祈るために廟堂を建立し、その跡が現在の明人堂であると云われている。王直はその後、平戸に居を構え、倭寇の大頭目に転じていくことになる。以前は明人堂のそばに、交易の時に使用したと思われる荷揚げ場が残されており、付近一帯が交易の場として栄えていたと思われる。
現在の新しい明人堂は、官民一体となった建設資金の募金活動により、島内外の浄財を集め建設されたものであり、建設にあたっては石材等は中国から取り寄せ、中国風の瓦葺きや壁画は中国の工人の手によりなされたものである。

六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

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六角井(ろっかくいど)  五島市江川町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前に案内標識があり、県道から右方路地へ入るとすぐ県指定史跡「六角井」がある。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」による説明は次のとおり。

倭寇の遺跡・六角井戸  ◎明人堂のすぐそば

倭寇の頭目・王直が、当時深江と呼ばれていた福江に来航し、藩主に通商を求めたのは天文9年(1540)である。江川城主第17代宇久盛定は、海外貿易の必要を認め、財政再建のため通商上の黙約を結んだ。そして彼らに居住地(現在の唐人町)を与え、更に飲料、船舶用水として江川城本丸下に井戸を掘らせた。これが六角井戸である。
平戸市にある六角井より早く造られたこの井戸は、井戸枠(広いところで125センチ)を六角形に板石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形の井壁が板石で造られているので、ちょうど六角柱を地中に立てたような形になっている。
五島における倭寇時代の貴重な遺跡の一つである。

六角井近くのナタオレノキ  五島市福江町

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六角井近くのナタオレノキ  五島市福江町

福江港ターミナルから福江商店街へ入る。奥浦方面への県道162号線により唐人橋へ向かうと、橋の少し手前の左手の一角に、大きなナタオレノキの木があり、説明板が付いていた。県道向い側には県指定史跡「六角井」があるところである。
五島市観光協会HP「五島市観光情報サイト 五島」天然記念物・植物による説明は次のとおり。
ナタオレノキ

種 別 天然記念物  指定年月日 未指定  所在地 五島市末広町
ナタオレノキは、別名サツマモクセイといわれているとおり、モクセイ科の植物で、10月中旬ごろ香り高い純白の花をつけ、街行く人の心をやわらげている。以前は、河川改修前の福江川がナタオレノキのたもとを流れており、川のせせらぎとともに、風情が漂っていた。
この木は雌雄異株の植物で、雌樹は少ないといわれているが、このナタオレノキは雌樹であり、老木ながら生気は盛んで、根回り10m、樹高8mの大木となっている。ナタでも折れる堅さから、この名が付いたと思われる。長崎県では、男女群島、奈留島船廻神社の社叢、平戸南部、中通島北部、対馬南部の神崎半島などに見られる貴重な植物である。

五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋  

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五島市の桁石橋  石田城蹴出門の石橋・岩川の石橋

五島市に残る桁石橋の2橋。アーチ石橋の「石田城本丸眼鏡橋」は別項を参照。
「石田城(福江城)蹴出門の石橋」は、福江港ターミナルから「五島観光歴史資料館」の通りへ出て、外堀公園の通りを右回りして行くとある。左回りのときは、本丸眼鏡橋から心字池前を通り城外へ出る門が蹴出門である。

「岩川の石橋」は、福江小学校側から武家屋敷通りを抜け、城山町バス停から路地へ入る。または最教寺前の市道を通って行く。
HP「長崎県石橋を訪ねて 長崎の石の桁橋等」による説明は次のとおり。

写真   1   第K−050番  石田城蹴出門の石橋    五島市池田町
嘉永6(1857)年  長さ  m  幅員  m  スパン  m
五島市の石田城の石橋と言えば、この橋が上げられる。本丸眼鏡橋と言っても五島市民でさえ知らない人が多い。かつての石田城の通用門に当たる蹴出門は、幾度かの改修は加えられたものの、江戸時代最後の城としての風格が有る。

慶長19(1614)年、江川城(現在の五島第一ホテル周辺)を焼失したため、寛永14(1637)年に石田陣屋を藩庁にした。盛成は海辺への築城に際し福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を弘化3(1846)年に建設した。幕末の嘉永2(1849)年、五島盛成の代に築城が認められ、最後の藩主である盛徳の代になった文久3(1863)年、ようやく念願であった居城を完成させた。
同時期に着手した松前城が僅か5年で完成したのに比べ、竣工までに14年の歳月を要したのは海城の特殊性もあったろうが、松前城はいわば国家事業として築城されたのに対し、一小藩の事業であったという財政上の理由が大きかったと思える。

写真   2   第K−048番  岩川(ゆわがわ)の石橋   五島市上大津町(城山・山崎)
岩川の湧水水場の石橋
年代は不詳では有るが、同形式の水場(かもん川)が永正4年(1507)に造られている。
長さ m  幅員 m  スパン m
武家屋敷通りから脇道に入り善教寺の前にでる。そのまま市道を進むと左手下に水場が見える。今歩いている道の下から湧いている。その水は清浄で今でも飲めるという。岩川の水場だ。
島原の湧水の水場でも同じだが、飲用や炊事に使う水は上流側。橋の下流の水場は洗濯や雑用水に使われている。川底にも石張りが施され、橋もカッチリと組まれている。

20年ほど前に書かれた案内看板は判読しがたいが、藩政時代には入り江が、この近くまで迫り貿易船の用水としても使われたという。郡家真一氏が、昭和49年に発行した「五島物語」に寄れば、鎖国後も中国・朝鮮との密貿易が行われていた五島藩の歴史の一端が思い出される。

五島市に残るアーチ石橋

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五島市に残るアーチ石橋

五島市に残るアーチ石橋は、1橋である。五島市池田町の「石田城(福江城)本丸眼鏡橋」。
福江港ターミナルの通りからすぐ見える建物は「五島観光歴史資料館」。 石田城本丸眼鏡橋は、この裏手となる長崎県立五島高校の正門入口にあるので、外堀公園の通りを回って行く。
同城の「蹴出門の石橋」と市街「岩川の石橋」は桁石橋であるので、別項を参照。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真      第 103 番   石田城本丸眼鏡橋    福江市池田町
嘉永6(1857)年  長さ 8.6m  幅員 約4.7m
石田城祉は県立五島高校になっている。
日本で最後に出来た城、石田城の石橋と言うと外堀に架かる桁橋ばかりが紹介されるが、城内に入っていくと立派な石造アーチ橋に出会える。

中の浦のソテツ  天草市久玉町中の浦

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中の浦のソテツ  天草市久玉町中の浦

国道266号線により久玉トンネルを越して天草市久玉町の中心に出る。久玉郵便局角から左の県道26号本渡牛深線へ入り、約4km進むと中の浦集落となり、この道でただ1つの無人販売所と消防団格納庫が見える。ソテツのこの手前、県道左方の一角に墓石とともにある。
現地説明板は次のとおり。

中の浦のソテツ
久玉争乱の後、切支丹宣教師がこの地に布教を始めたのを記念し久玉村大庄屋中原家によって碑が建てられた。同家の墓石も文化・文政のもの数基がある。この時植えられたこの蘇鉄は約三百年を経過している。

<久玉争乱>
中世末期、の切支丹流入のころには天草南部を中心に反切支丹騒動(久玉騒動)があり、反切支丹派のリーダー天草刑部大輔や天草三郎大和守種満らが籠城(註:久玉城に)、天草にあって切支丹流入に最後まで抵抗した。(熊本県大百科事典 熊本日日新聞社)

権現山の夫婦椎(シイノキ)  天草市久玉町西権現平

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権現山の夫婦椎(シイノキ)  天草市久玉町西権現平

権現山は、牛深の手前となる久玉町の背後にある標高401.9mの山。権現山公園となり、登山道路が久玉町からと、山の反対方の魚貫町からある。
久玉町からは、国道266号線が久玉トンネルを越して町へ下って行くと、途中の右に案内標識がある。これからカーブの多い悪路の登山道路をかなり登ることとなる。

公園駐車場のすぐ上に魚貫権現社と展望台があり、山頂へこの山道を少し進むと「夫婦椎」がある。説明板の両脇にシイノキの老木2本があり、これが「夫婦椎」だろう。左の木が格段に大きく、右のは傾いて生えている。
熊本県自然保護課「ふるさと熊本の樹木」資料による説明は次のとおり。

登録番号  No.192  登録 平成3年11月11日
権現山の夫婦椎(シイノキ)
所  在  地  天草市久玉町西権現平1721
登録時の状況  樹齢 200年  幹の太さ 3.2m  樹高 15m  樹勢 中
権現山の山頂付近に位置する自然林で、樹齢は200年以上と推定され、夫婦椎の木として市民に親しまれている。

維和島(いわじま)  上天草市大矢野町維和

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維和島(いわじま)  上天草市大矢野町維和

維和島は、大矢野島の東にあり、クルマエビの養殖は全国的に有名。東京へ出荷されているものの多くは、この島の近辺で養殖されたものだそうである。別名「千束蔵々島」(せんぞくぞうぞうじま)とも呼ばれる。

島の面積6.42㎡、周囲17.2km、人口約1700人。野牛島を挟み大矢野島間に西大維橋・東大維橋の2つの大橋が架かり、車で行ける。
国道266号線からの道路入口は、大矢野「中」交差点からか、次の大矢野中学校手前交差点からである。

舟つなぎの木(菅原神社のクスノキ)  上天草市大矢野町登立

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舟つなぎの木(菅原神社のクスノキ)  上天草市大矢野町登立

国道266号線の天草5橋を渡って大矢野町の中心まで行く。上天草市役所先の交差点から右折し、大矢野郵便局を過ぎた先に三叉路があり、菅原神社(登立天満宮)はこの正面角である。
大楠の根元に奇妙な石があった。手水石のようだが、海岸の石と思われる。
熊本県自然保護課「ふるさと熊本の樹木」資料による説明は次のとおり。

登録番号  No. 60  登録 昭和57年2月20日
舟つなぎの木(クスノキ)
所  在  地  上天草市大矢野町登立14256
登録時の状況  樹齢 200年  幹の太さ 5m  樹高 20m
枝張り 南北20m×東西15m  樹幹 湾曲  樹勢 良
かつて、この樹のあたりまで有明海が来ていたそうであるが、この地は九州本土と大矢野島とを結ぶ交通の拠点として栄え、大矢野へ米などの物資を運ぶ舟々が出入りしたと言う。これらの舟が来航した際、この樹に繋船したところから「舟つなぎの木」と伝えられている。今でも「寄船」「積米」という地名が残っている。