月別アーカイブ: 2008年4月

楠公神社のクスノキ  長崎市かき道1丁目

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楠公神社のクスノキ   長崎市かき道1丁目

佐賀県武雄市の川古の大楠など3大巨樹を見て、たいていのクスノキには驚かなくなったが、長崎市内ではこのクスノキは大きい方だろう。
矢上の八郎川沿い右岸は長崎市かき道1丁目である。ジャスコと東望橋を過ぎ矢上団地へ上がる交差点もまっすぐ行くと、すぐ左手に高木が見える。

すずらん薬局から曲がると、クスノキである。神社の鳥居は「楠公神社」。やはり蛎道地区で昔から大切にされた大木であった。幹回り6m、樹高16m、枝張り10mほど。根元5mから2つの幹に分かれる。上はだいぶん伐採されている。
周りはもう新興住宅地である。隣に大星稲荷神社。
このクスノキは、ちょうど長崎自動車学校のクロガネモチ大木と、八郎川を挟み相対立するように高くそびえている。

小菅修船場跡に残るアーチ石橋  長崎市小菅町

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小菅修船場跡に残るアーチ石橋   長崎市小菅町

またまた立派なアーチ石橋が長崎市内に残っていた。場所は、国指定史跡「小菅修船場跡」。明治元年にできた我が国最初の近代的ドック。船台の形から”ソロバンドック”と呼ばれている。
長崎市南部方面へ行く国道499号線の戸町トンネル北入口の手前が修船場跡。奥深い入江の地形をよく利用してドックが造られている。

石橋の情報を教えてくれたのは、九州・京都・東京など石橋巡りに熱中されるHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」の制作者N氏。この方のアンテナには驚くしかない。
「ドックの右側。干潮時しかよくわからない」と聞き、探しに行った。
戸町トンネル口が正門で、ドックへ入ると今は左手は小菅マリーンセンターがある。まずこの先の桟橋まで行って、対岸の海岸石垣を見てみた。ポッカリと丸い穴が空いていた。

次は日本最古の赤煉瓦建物という船台捲上げ小屋の前を通り右手へ。ここは三菱長崎造船所の大きな小菅倉庫建物が立ち塞がる。奥に行けないと思っていたら、海岸際は見学者通路の標識があり、ドックの港入口の方へ行けた。
100mほど歩いて小川を跨ぐ道下に写真のとおりの石橋が残っていた。小菅の谷水を集めた小川が国道沿いに流れ、ここで港へ出していたのである。
長さ2m、幅員9m、アーチ下の高さは1.8mほどの見事な石橋。海面が普段は1.3mまで来るため牡蠣殻がこの高さまで着いている。

橋の先は右手へ古い石段が上がる。国道がカーブしたラーメン店「一麺亭」駐車場の外側塀に突きあたる。ここは西琴平の岬の突端であったろう。明治元年創立時の小菅修船場正門口は、ここでなかったかと思わせる古い石段と立派な石橋である。
国指定史跡「小菅修船場跡」現地説明板は次のとおり。石橋はまったく知られていないのか、観光情報やHPなどにも記したものは見あたらない。
ドックの先まで見学通路を設けているので、ドックに付随した歴史遺産として石橋の存在をもっと広めてよいのではないだろうか。
N氏へ画像を送った。長崎市さるく観光推進課の馬見塚氏は、石橋を知っておられた。

国指定史跡  小菅修船場跡

指定年月日 昭和44年4月12日  所有者 三菱重工業株式会社長崎造船所
薩摩藩士五代才助(のち友厚)が小松帯刀・英人グラバーの協力を得て建設した洋式スリップ・ドックで、明治元年(1868)12月竣工した。船台がソロバン状であったから、通称ソロバンドックとよばれた。船体引揚げ用蒸気機関その他施設一切は、グラバーの仲介で英国から輸入された。
明治2年(1870)3月政府が買収、対岸の官営長崎製鉄所の所管とした。のちこの官営は民営に移管され、三菱造船所となる。
長崎県教育委員会・長崎市教育委員会

シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

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シシトキ川に残るレンガ造石橋  長崎市銀屋町

次は布袋厚著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。最後の図とも。

長崎では道ばかりでなく、川のなかまで石が張られている。中通り商店街と寺町のあいだを流れる「シシトキ川」がそれである。この川は中島川の支流となっている銅座川の、そのまた支流である。…
川幅は約二メートルで、大きな溝という感じにちかい。上流にさかのぼるにつれて、しだいに川幅がせまくなる。写真でわかるように、両脇の板石が斜めに張られ、水量がすくないときに、流れをまんなかに集めるしくみになっている。
このような川は、桶屋町から築町をへて出島橋にいたる「地獄川」(公会堂の裏、および中央公園裏で川底がみえる)、樺島町、館内町などもある。地獄川の名は、公会堂裏にある市役所別館の場所に、むかし、牢屋「桜町牢」があったところから来ている。

地獄川の桜町、栄町に残るレンガ造石橋2つについては、この前この抜粋によりすでに報告している。 https://misakimichi.com/archives/787
今度は本家のシシトキ川にもレンガ造石橋があった。場所は眼鏡橋のひとつ下流、袋橋からまっすぐ寺町の方へ行った通り。逆にいうと幣振坂から寺町通りを突き切って下り、シシトキ川と合う所。
銀屋町5街区にくんち出し物鯱太鼓倉庫を兼ねた銀屋町公民館がある。長崎市さるく観光推進課馬見塚氏から聞いたこの角の橋。地獄川と同じレンガ造石橋が、写真のとおり立派に残っていた。長さ1.8m、幅員5.7mほど。

シシトキ川やこれに架かる橋についてHPやブログは少しある。さるくマップも通称・裏めがね橋(以前、めがね屋だった時に架けられためがね形の最近の橋)は紹介しているが、銀屋町公民館角のこの橋が、明治時代の本物の石橋であるとまったくふれてない。
上流と下流をたどった。上流の諏訪小学校表通りと裏通りは古い桁橋だった。長崎さるくマップブック30頁の「ししとき川」説明は次のとおり。

⑤ ししとき川
1600年代に長崎奉行により、火事対策として作られた人工の川。明治には川底に石畳が敷かれ、清らかな水流が保たれるようになったといいます。当時の長崎の下水道技術の高さがしのばれます。かつては「川端通り」と呼ばれ。共同井戸などもあったそう。

(追 記 平成20年6月19日)

銀屋町公民館角のこのレンガ造橋の名前がわかった。史料はまた長崎楽会西山3丁目中尾氏が見つけてくれた。長崎手帖社「長崎手帖 No.13」昭和33年7月10日発行5頁の「茶のみ話」の中に次のとおりあった。長崎手帳編集者の田栗杢作氏文と思われる。
長崎手帖によると、この橋名は「稲荷橋」と出てくる。川端に稲荷神社があり昭和60年頃、鯱太鼓倉庫を兼ねた公民館をここに新築したため、稲荷神社は屋上へ祀り直したことを、私は職務上から記憶していた。
一 目 七 橋

これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。   (西古川町 金物店 岩永関夫氏)

あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

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あやめ東幼稚園のアコウ  長崎市戸石町

平成20年4月20日、長崎学さるく行事で牧島へ行った。牧戸橋を渡る前、川向いにあやめ東幼稚園がある。園庭に大きく傾いたアコウの幹が見えた。
戸石六地蔵から池下へ向かう途中には、幼稚園の正門にも遠くから大きな木が見えた。

幼稚園へ帰りに寄って確かめた。この日は行事コースで、池下大久保家の諌早市指定天然記念物「アコウの巨樹」を見ていたから、そんな巨樹に感じられないが、小さいながら2本とも樹形が独特なアコウである。
正門のは幹回り4.5m、樹高12m、枝張り10mほど。園庭のは幹回り4.6m、樹高11m、枝張り11.4mほどあった。

なぜ、ここに生えているのか、幼稚園で聞き忘れたので、近所の人たちに聞いた。もともとこのアコウは、大久保病院の通りから幼稚園へ入る道路入口近くの空地に生えていた。根元で2本に幹分かれした大きな木であった。
昭和56年、あやめ東幼稚園を開園する時に園が買い取り、2本にするよう根元を切って、正門と園庭にそれぞれ植えた。そのため樹形がこんな傾いた格好になったらしい。

幼稚園に大木があるのは珍しい。今では園児にすっかりなじまれ、おもしろい木でないだろうか。

曲崎海岸のハマナツメ  長崎市牧島町

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曲崎海岸のハマナツメ  長崎市牧島町

戸石から牧戸橋を渡り、牧島の東端に国指定史跡「曲崎古墳群」がある。ハマナツメはこの遊歩道入口左の海岸沿いに見られる。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」リストの中(街路樹)による説明は次のとおり。

ハマナツメ(浜棗)

長崎市牧島町のハマナツメ。牧島町は孤島だが橋で渡れる。曲崎古墳群がある曲崎の海岸沿に生えている。川原大池のハマナツメより数は多い。

ハマナツメ(浜棗) クロウメモドキ科ハマナツメ属 落葉低木

幼木は托葉が変化した刺がある。葉は互生し卵形〜広卵形で3脈が目立つ。表面はなめらかで葉裏はわずかに毛がある。8〜9月、淡黄色の小さい花を数個咲かす。花弁は小さく、花弁のように見えるのは5個の愕片。雄しべは5個。果実は球形で3個の翼がある。

東海地方以西、四国、九州、沖縄に自生。果実は水に浮いて広がるなど、海岸植物である。三和町・ 川原大池のハマナツメは、九州西岸の北限として貴重。
花は7月下旬頃から。果実は10月初旬。

長崎学さるく”牧島周辺の史跡をさるく”  平成20年4月

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長崎学さるく”牧島周辺の史跡をさるく”  平成20年4月

平成20年4月25日(金)晴。長崎学さるく行事で「牧島周辺の史跡をさるく」。講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者江越弘人先生。参加・スタッフとも27人。

東公園9時半発ー牧戸橋ー釈迦島ー穴弁天ー牧島台場跡ー牧島神社ー池の神ー曲崎積石古墳群ーペーロン体験施設公園(昼食)ー戸石神社ー六地蔵ー池下アコウ巨樹ー池神社ー池下古墳群ー結の浜マリーンパークー大門貝塚遺跡ー田結条里遺構ー歳神社ー田結観音寺15時着。

コースは約15km。牧島から大門まで橘湾沿岸を歩いた。史跡の見所多く、景色よく諌早市飯盛町へかけてのさるく行事。なかなか行かない所だったので好評だった。
次回の学さるくは、5月11日(日)に「大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり」。参加申込は長崎国際観光コンベンション協会 TEL095−811−0369へ。公式HPあり。

2008 長崎帆船まつり  4/24〜28 長崎港

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2008 長崎帆船まつり  4/24〜28 長崎港

2008長崎帆船まつりは、4月24日(木)から28日(月)まで。会場は、長崎港水辺の森公園、長崎出島ワーフ。参加帆船は、海王丸、日本丸、観光丸、あこがれ、飛帆、コリアナ(韓国)。
船内一般公開や体験クルーズなどある。夜はライトアップ・イルミネーション。26日(土)と27日(日)は、20:50〜21:05に打ち上げ花火、各夜1000発。

問い合わせは、長崎帆船まつり実行委員会(事務局:長崎市さるく観光課内 TEL095−829−1319 公式HPあり)

さが名木100選 100 みゆき公園の昭和天皇お手植えヒノキ   嬉野市嬉野町下宿

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さが名木100選  100 みゆき公園の昭和天皇お手植えヒノキ   嬉野市嬉野町下宿

国道34号線の嬉野市嬉野総合支所前に「みゆき公園 嬉野総合運動公園入口」の大きな案内碑がある。この県道1号線へ入り、同総合支所前を通って広い道路をまっすぐ進む。交差点のある突きあたり高台一帯が、みゆき公園である。
お手植えのヒノキは、正面ゲートから入った公園北側最奥部の芝生園地に防護ネットに囲まれてあるので、近くの駐車場まで行く。傍らに天皇歌碑と記念碑がある。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

100 昭和天皇お手植えヒノキ
・所 在 地  嬉野町下宿(嬉野総合運動公園)
・推定樹齢   15年
・大 き さ  樹高 5.5m  幹回り 0.3m  根張り 3m
・登録番号   4974007,4974008,4974009
この3本のヒノキは、昭和62年の全国植樹祭で、昭和天皇がお手植えになり、その後、平成14年10月には、全国育樹祭で皇太子殿下がお手入れをなされた由緒ある樹木である。

さが名木100選  87 横辺田代官所跡のムクノキ   杵島郡大町町大字大町

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さが名木100選  87 横辺田代官所跡のムクノキ   杵島郡大町町大字大町

国道34号線の大町町役場前を過ぎ、大町小前交差点から曲がり、国道と並行する旧長崎街道の道へ入る。江北の方に進み、「土井家住宅」(この地方独特の建築様式を残す民家として昭和49年国の重要文化財に指定)を過ぎると、左手の空き地に「横辺田代官所跡」の説明板とともに、このムクノキの大木が立つ。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。

87 横辺田代官所跡のムクノキ
・所 在 地  大町町大町1660
・推定樹齢   300年
・大 き さ  樹高 14m  幹回り 3m  根張り 12m
・登録番号   42729
横辺田代官所として、民生の安定や課役を司り行政所轄の中心所在地であったところに大きな岩があり、このムクノキはこの岩に根を巻き育っている。その姿は、往時の生活及び代官所の模様を思いめぐらす格好の古木である。