長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (1) 平成21年11月
平成21年11月29日(日)曇り。長崎学さるく幕末編行事 “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” 参加スタッフとも20人。講師は、諌早市郷土館の織田正人先生。
東望道バス停9時半発ー東望陣屋跡ー東望山台場跡ー蛎道台場跡ー戸石地区公民館(昼食)ー飯盛経ヶ岳台場跡ー結の浜(一部解散)ー田結観音寺ー大門バス停15時着(徒歩約10km)
江戸時代、佐賀藩諫早領は異国船来航に備え、橘湾沿岸の警備のため多くの台場を築いた。藩史料からわかっている各台場の配備状況と主な台場跡を訪ねる。
織田先生作成資料は詳しい研究と図があるが、写真説明に必要な部分のみ簡単に載せる。
写真 2 1 東望陣屋跡
幕末長崎に異国船の入津に伴い、佐賀藩は防備を強化した。諫早もその一部を受け持つため、長崎に近い矢上の地に用員の移住を行った。その用員の陣屋である。又、諫早領の海岸(橘湾)の防備の用員でもあった。
写真 3〜 7 2 東望山砲台跡(長崎市指定史跡)
文化元年(1804)のロシア船来航・文化5年(1808)フェートン号事件により、幕府は沿岸警備の強化を諸藩に命じた。諫早領は、橘湾沿岸警備のため、文化年間(1804〜1817)海岸沿いに警備の為に施設を整えた。幕末の文久年間(1861〜1863)に、東望山に砲台を設置、その後、慶応3年(1867)に5ヶ所設置した。現在の指定砲台は日当平と思われ、馬蹄形の台座が見られる。
写真 8〜 12 3 蛎道(釜崎)台場跡
東望山台場と同じ目的で設置された。幕末の文久年間(1861〜1863)に日当平辻台場として設置、その後、慶応3年(1867)に蛎道の上下段と魚見岳の3ヶ所に設置された。台場の跡形は、琴平神社の台石に利用されている。
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