四国(徳島・高知)」カテゴリーアーカイブ

阿波国分寺  徳島県徳島市国府町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

阿波国分寺  徳島県徳島市国府町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
名勝(国指定)阿波国分寺庭園は、次の記事に。

阿波国分寺
所在地 徳島県徳島市国府町矢野718-1

阿波国分寺(あわこくぶんじ)は、徳島県徳島市国府町矢野に位置する寺院。四国八十八箇所霊場の第十五番札所。札所寺院としては単に国分寺と呼ぶのが通例である。薬王山(やくおうさん)、金色院(こんじきいん)と号す。宗派は曹洞宗。本尊は薬師如来。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:薄く濃く わけわけ色を 染めぬれば 流転生死の 秋のもみじば

歴 史
天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ。寺伝では行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。当初は法相宗の寺院として七堂伽藍を有する大寺院であった。弘仁年間(810 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫した際に真言宗に改宗したとされる。

史実としては、正確な成立過程は不明であるが、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。

天正年間(1573 – 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。

七重塔礎石:奈良時代に建てられた七重塔の巨大な礎石が残されている。

単層の山門を入ると右手に手水場が、左手には地蔵堂、七重塔礎石、鐘楼堂と並び、正面奥に本堂がある。本堂右手が大師堂であるが、本来は烏瑟沙摩明王堂なので入口上には烏瑟沙摩明王の額が掲げられている。納経所は境内の右手奥にあり、この裏手に庭園がある。

文化財
名勝(国指定)
阿波国分寺庭園
徳島県指定史跡
阿波国分寺跡

大 日 寺  徳島県徳島市一宮町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

大 日 寺  徳島県徳島市一宮町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

大 日 寺
所在地 徳島県徳島市一宮町西丁263

大日寺(だいにちじ)は、徳島県徳島市一宮町に位置する寺院。四国八十八箇所霊場の第十三番札所。大栗山(おおぐりざん)、花蔵院(けぞういん)と号す。宗派は真言宗大覚寺派、本尊は十一面観音。
ご詠歌:阿波の国 一の宮とや ゆうだすき かけてたのめや この世後の世

歴 史
寺伝によれば、弘仁6年(815年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置したという。

天正年間(1573年 – 1592年)に長宗我部元親の兵火によってすべて焼失したが、徳島藩3代藩主蜂須賀光隆によって再建された。その後阿波一宮神社の別当寺となり、江戸時代には一宮神社が札所とされていたようである。明治の神仏分離によって阿波一宮の本地仏であった行基作といわれる十一面観音を移して本尊とし、大日如来は脇仏とされた。

一宮神社参道橋  徳島県徳島市一宮町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

一宮神社参道橋  徳島県徳島市一宮町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」徳島県の石橋によるデータは、次のとおり。

№5,560   一宮神社参道橋

徳島市一宮町西丁
橋長:3.8m  橋幅:2.8m  径間:2.8m  拱矢:1.0m
架設:大正
一宮神社の社前に架かっています。3本のリブアーチ上に横桁が並べてあります。

№5,561   一宮神社参道添橋

徳島市一宮町西丁
径間:2.8m  橋幅:0.7m
単径間桁橋

一宮神社  徳島県徳島市一宮町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

一宮神社  徳島県徳島市一宮町

国指定文化財等データベースは、現在、臨時メンテナンス中で利用できないため、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説を載せる。

一宮神社 (徳島市)

一宮神社(いちのみやじんじゃ)は、徳島県徳島市一宮町にある神社。式内社(名神大社)・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[1]。旧社格は県社。とくしま市民遺産選定。

概 要
鎮座地は徳島市の西部で、周辺は「一宮町」という地名になっており、東方にある山の頂上にはかつて小笠原氏の「一宮城」という城があった。神社の前には四国八十八箇所十三番札所の大日寺があり、神仏習合の時代には一体化していた。元々は上一宮大粟神社(名西郡神山町)が阿波国一宮であったが、参拝に不便であるため平安時代後期に国府の近くに分祠が作られ、こちらが一宮となったと伝えられる。

文化財
重要文化財(国指定)
本殿 – 寛永7年(1630年)建立。三間社流造、正面千鳥破風付、銅板葺。向拝は一間、唐破風造

大久保の乳いちょう  徳島県名西郡神山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

大久保の乳いちょう  徳島県名西郡神山町

神山町神領にある。国道438号神山中学校手前の案内標識により高台へ進む。
現地説明板は、次のとおり。

神山町指定 天然記念物   大久保の乳いちょう

このいちょうは、県下にあるいちょうのうち、第4位の巨樹(環境庁調査)で、幹周13m(主幹
9.9m)、樹高38m、推定樹齢約500年。樹勢も良好で、町内でも貴重な樹木である。
かつて、乳の出の少ない女性が、よく出るようにねがって、この木に願をかけたと言われている。
神山町教育委員会  神山町文化財保護審議会

雨乞の滝  徳島県名西郡神山町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

雨乞の滝  徳島県名西郡神山町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
写真 5〜 7 が雨乞の滝(雌滝)、写真 8 が雨乞の滝(雄滝)
最後の雌滝・雄滝の同時写真は、増水でポイントへ渡れなかったため、県道の徳島県観光案内板のを写した。

雨乞の滝

雨乞の滝(あまごいのたき)は、徳島県名西郡神山町にある滝。日本の滝百選、四国のみずべ八十八カ所、とくしま88景、とくしま水紀行50選に選定されている。

概 要
中部山湲県立自然公園の指定区域、吉野川の下流で合流する鮎喰川の支流の高根谷川水域にある。右に落差45メートルを三段に落ちる雌滝と、左に落差27メートルの直落の雄滝を配する夫婦滝である。
滝の名の由来は、かつてこの地の農民が干魃の際に、ここで蓑笠を着て鐘・太鼓を打ち鳴らして雨乞いを行ったことに由来する。滝には竜王神と不動尊が祀られている。
駐車場より遊歩道沿いに、うぐいす滝・不動滝・地獄淵・もみじ滝・観音滝などが楽しめる。特に紅葉時期は美しい。滝の上方の標高700メートル地点には卑弥呼伝説の残る高根山悲願寺がある。

丈 六 寺  徳島県徳島市丈六町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

丈 六 寺  徳島県徳島市丈六町

国指定文化財等データベースは、現在、臨時メンテナンス中で利用できないため、「徳島県指定文化財一覧」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)による解説を載せる。

丈 六 寺

丈六寺(じょうろくじ)は徳島県徳島市丈六町丈領に所在する曹洞宗の寺院。山号は瑞麟山。詳しくは瑞麟山 慈雲院 丈六寺という。
本堂の本尊は釈迦如来。観音堂に安置されている聖観世音菩薩坐像が旧来からの本尊である。この観音像は立てば一丈六尺(約4.8m)になることから丈六仏と呼ばれ、寺院名の由来となった。
徳島県内の寺院の中では文化財が多く阿波の法隆寺とも呼ばれる。阿波秩父観音霊場第24番札所。

歴 史
寺伝によれば、寺の歴史は白雉元年(650年)に関東地方よりたどり着いた尼僧が、この地に庵を構えたことに始まると伝えられている。室町時代中期の長享・延徳年間頃(1487年〜1491年)、阿波国・三河国・讃岐国の守護大名・細川成之が金岡用兼を招聘し宗派を曹洞宗に改めて中興開山し、伽藍を整備した。
江戸時代になると、徳島藩蜂須賀家歴代藩主が庇護し寺院を整備した。
境内には細川成之・持隆・真之の墓がある。また、蜂須賀家重臣の墓も多く、家老の稲田家・山田家、中老の里見家・生駒家、奉行等の墓も見られる。

重要文化財
三門
室町時代末期、16世紀後半の建造。和様・禅宗様折衷の二重門(2階建で、初層・上層境にも軒をもつもの)で、徳島県下最古の建造物である。昭和32年(1957年)解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日、重要文化財に指定された。
本堂
入母屋造単層、本瓦葺き。寛永6年(1629年)蜂須賀家政が娘・辰姫(戸田忠光の妻)供養のために方丈を再建し寄進した。明治時代に本尊として釈迦如来を安置したため本堂と呼ばれるようになった。昭和28年(1953年)3月31日、重要文化財に指定された。
観音堂
普門閣とも呼ばれる。寄棟造二重仏堂(上層・下層の2つの屋根をもつ仏堂)。戦国時代の永禄10年(1567年)、細川真之により建立された。現存する建物は江戸時代初期の慶安元年(1648年)の建立で、昭和32年(1957年)に解体修理された。昭和28年(1953年)3月31日、重要文化財に指定された。
経蔵 附棟札5枚
永禄10年(1567年)、細川真之により僧堂(座禅堂)として建立された。現存する建物は寛永21年(1644年)の再建で、江戸時代中期の享保12年(1727年)奥行きを一間(約1.8m)縮小し、二間(約3.6m)後方に移動した。この時に経蔵に改められた。中には八角の輪蔵が安置され、径山版大蔵経が納められている。平成10年(1998年)12月25日、重要文化財に指定された。
木造聖観音坐像
平安時代末期の作とされる。定朝様式の仏像で、像高3.1m。旧来からのこの寺院の本尊である。修理時に発見された胎内仏は寺内宝物館に安置されている。明治44年(1911年)8月9日、重要文化財に指定された。
絹本着色細川成之像
寺内宝物館に安置されている。昭和42年(1967年)6月15日、重要文化財に指定された。

オーシャン東九フェリーで、新門司港から徳島港へ

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

オーシャン東九フェリーで、新門司港から徳島港へ

九州、徳島、東京を結ぶオーシャン東九フェリー。9月20日新門司港19:00発、徳島港翌朝9:30着の夜間フェリーで渡った。
四国の旅は、前回に愛媛県と香川県が済んでいたので、今回は徳島県と高知県を訪ねた。
帰りは八幡浜ー別府フェリー利用。長崎を9月19日出て、帰り着いたのは10月4日だった。

高知城跡  高知県高知市丸ノ内

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

高知城跡  高知県高知市丸ノ内

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 高知城跡
ふりがな: こうちじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1959.06.18(昭和34.06.18)
追加年月日: 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 高知市丸ノ内
解説文:
慶長5年山内一豊は土佐国に封ぜられ、翌6年1月掛川城から浦戸城に移ったが、大高坂山の地を選んで築城することとなり、9月鍬初を行い、同8年8月入城した。城の成ったのは子忠義のとき、同16年頃と思われる。
大高坂山は、南に鏡川が、北に江ノ口川がそれぞれ東流する間に挾まれた平地中に屹立する独立丘陵であって、南北朝時代には大高坂松王丸が、降って天正年間には長曽我部氏もここに拠ったことがあり、要地であったことがうかがわれる。
最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて稍々低く2の丸を配し、2の丸の東に一段低く3の丸を置く。本丸、2の丸の西から北をめぐり、3の丸の東にわたって獅の段や帯郭状等の平地を連ねている。城壁はすべて石垣をもって固められ、大手口は南東麓に東に向って開き、搦手口は西麓に位する。堀は山裾をめぐって北方江ノ口川の邊に達していたが、いま追手門から南麓居館跡をめぐってその面影をとどめている。
規模必ずしも雄大と称すべきものではないが、その郭、通路等の配置は巧みで、要を得、就中詰門を構えた本丸、2の丸間の通路の設計はひろく賞讃されているところである。
もとより変改のあともあるが、縄張は略々全容をとどめ、天守を始め、本丸書院、詰門、追手門等建物も多く、近世城郭の遺構として、学術上貴重である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

高知城
高知城(こうちじょう、Kōchi Castle, Kōchi-jo)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁がおかれた。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

概 要
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)[1]または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。

高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。

城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。

長崎への帰路は、須崎市から国道381号などにより愛媛県八幡浜港へ出て、別府港へフェリーで渡った。

杉の大スギ  高知県長岡郡大豊町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

杉の大スギ  高知県長岡郡大豊町

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 杉の大スギ
ふりがな: すぎのおおすぎ
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1924.12.09(大正13.12.09)
特別指定年月日: 1952.03.29(昭和27.03.29)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 長岡郡大豊町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第四輯 一〇一頁 參照 天然紀念物解説 一六一頁 二株ノ杉ノ巨樹相接近シテ立テリ其中南方ニアルヲ南大杉ト云ヒ北方ニアルヲ北大杉ト言フ 南大杉ノ根廻リ五丈二尺四寸幹ト根ノ境界部ノ周圍五丈五尺二寸境界部ヨリ五尺上ノ幹圍四丈九尺アリ 北大杉ノ根廻リ五丈三尺幹ト根ノ境界部ノ周圍四丈四尺境界部ヨリ五尺上ノ周圍三丈五尺アリ 南大杉ハ杉ノ最大巨樹ノ一ニシテ石徹白ノ杉ト伯仲ス 二株の杉の巨樹相接近して立ち、夫々南大杉、北大杉という。 南大杉の根廻り15.87メートル、幹と根の境界部の周囲圍16.72メートル、境界部より1.50メートルの幹囲11.81メートルあり。北大杉の根廻り16メートル、幹と根の境界部の周囲10.60メートルあり。南大杉はわが国における最大の杉として貴重なものである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

杉の大スギ

杉の大スギ(すぎのおおスギ)は、高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育しているスギの巨木である。推定の樹齢は3000年以上といわれ、1924年には国の天然記念物、1952年には国の特別天然記念物に指定された[1][2][3]。根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来から信仰の対象となっていた[2][4][5]。大豊町(旧大杉村)出身の軍人山下奉文は、この木に因んで「巨杉」(きょさん)という雅号を使用していた[2][6]。著名人の参拝記録が多く、幕末には山内容堂や坂本龍馬、第2次世界大戦後には美空ひばりなどがこの木を訪れている[2][4][7][8]。特にひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された[2][4][7]。

由 来
この木は素戔嗚尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる[2][4][9]。古文書には、10世紀初めの延喜12年(912年)に京都から来た杉本太郎義家という武士が、木の根元に祇園牛頭天王、貴船大明神、行基菩薩の三尊像を祀ったとの伝承が記されている[2][3][9]。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ」、「南大スギ」と呼ばれる[2][9]。

2本のうちでは南大スギの方がやや大きく、根周りが約20メートル、樹高が約60メートルあり、日本最大のスギとされる[10]。北大スギは根周りが約16.5メートル、樹高が約57メートルあり、岐阜県郡上市に生育する国の特別天然記念物「石徹白の大スギ」に匹敵する巨木である[4][10]。このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ[2][9]。受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状をなしている[11]。

このスギの所在地はもともと旧大杉村の杉という地名だったところで、村の名、字名、そして土讃線の駅名もこのスギに由来している[9][8][10]。…
杉の大スギは1954年9月26日の台風9号、1970年8月21日の台風10号によって大枝が折れるなどの被害を受けた[3]。とりわけ1954年に大枝が折損したときは、枝1本でトラック7台分になるほどであった[9]。近年の観光客増加によって根元付近の踏み付けによる樹勢の衰えが懸念されるため、高知県や文化庁の援助のもとに大豊町が保護対策を行い、施設整備協力費としてこのスギやひばりの歌碑を観覧する観光客から大人1人につき200円を徴収している[5][7]。

杉の大スギは1924年12月9日に国の天然記念物に指定され、第2次世界大戦後の1952年3月29日には、特別天然記念物に改めて指定された[1][3][14]。1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」にも選定されている[2][15][16]。

所在地  高知県長岡郡大豊町杉 八坂神社境内
交 通  JR四国土讃線・大杉駅下車、徒歩800メートル