四国(徳島・高知)」カテゴリーアーカイブ

豊楽寺薬師堂  高知県長岡郡大豊町

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豊楽寺薬師堂  高知県長岡郡大豊町

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 豊楽寺薬師堂
ふりがな: ぶらくじやくしどう
員数: 1棟
種別: 近世以前/寺院
時代: 平安後期
年代: 仁平元頃
西暦: 1151頃
構造及び形式等: 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、こけら葺
指定番号: 00100
国宝・重文区分: 国宝
重文指定年月日: 1904.08.29(明治37.08.29)
国宝指定年月日: 1952.11.22(昭和27.11.22)
所在都道府県: 高知県
所在地: 高知県長岡郡大豊町寺内
所有者名: 豊楽寺
解説文:
豊樂寺は聖武天皇の勅願によって行基菩薩の開基と伝える。今の藥師堂の建立年次は明らかでないが、様式手法上より藤原時代の建立と思われる。変った平面を持っているが当初からこうした計画であったようである。
比較的太い疎垂木に大きい小舞の軒廻り、内陣の佛壇及び勾欄等よく時代の特徴を示している。この堂は四国地方最古の建築として貴重である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

豊楽寺
豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。正式名は太田山大願院豊楽寺、別名は柴折薬師で、日本三大薬師[1]の一つに数えられる。国宝薬師堂内に安置される伝行基作の薬師如来を本尊とする。

歴 史
724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。

文化財
薬師堂国宝
薬師堂 – 平安時代末期建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、正面5間、側面5間。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり、この頃に建立されたものと推定される。

拝観情報  開門時間 – 9〜16時
交通アクセス – 土讃線 大田口駅 徒歩30分
所在地 – 〒789-0234 高知県長岡郡大豊町寺内314

吉野川中流と大歩危・小歩危  徳島県三好市山城町ほか

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吉野川中流と大歩危・小歩危  徳島県三好市山城町ほか

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

大歩危峡

大歩危(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)。
吉野川西岸の徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称でもある。峡谷そのものを指す場合は大歩危峡(おおぼけきょう)と呼ばれることが多い。夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めるほか、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知られている。数km下流の小歩危(こぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)として一括りにされることが多い。剣山国定公園に含まれている。
大歩危駅から下流側1キロメートルの国道32号線沿いに「ラピス大歩危」という、岩石・鉱物を展示した博物館がある。
なお、那賀川上流域の徳島県那賀郡那賀町にも歩危峡(ほききょう)という峡谷があるが、大歩危とは関係ない。

地名の由来
川沿いに変成岩類が露出する一般には漢字説(「大股で歩くと危険」)が有名であるが、昔から現在の漢字で表記していたわけではなく間違いである。 「ほき、ほけ」は断崖を意味する古語である。「おおぼけ」という音に対して、文化12年(1815年)編纂の阿波史では「大嶂」の字を充てており、明治6年(1873年)の地租改正の際に当時の三名村は「大歩怪」の字を充てている。地租改正の際に「こぼけ」には「小歩危」の字を充てており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになった。

大歩危峡の特徴
この地域の地質は三波川帯に属し、変成岩類で構成されている。大歩危は砂質片岩および黒色(泥質)片岩を主体として構成され、吉野川沿いは砂質片岩が多く露出する。変成岩中に礫(れき)の原型を留めた礫質(れきしつ)片岩が含まれているものもある。大歩危の礫質片岩は含礫片岩として徳島県天然記念物に指定されている。

加茂の大クス  徳島県東みよし町加茂

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加茂の大クス  徳島県東みよし町加茂

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 加茂の大クス
ふりがな: かものおおくす
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1926.10.20(大正15.10.20)
特別指定年月日: 1956.07.19(昭和31.07.19)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 三好郡東みよし町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 一二四頁 參照  第六輯 三九頁 天然紀念物解説 一四四頁 本樹 Cinnamomum Camphora Nees. et Eberm. ハ田圃ノ間ニ立テリ地上五尺ノ幹圍四丈、地上二間ノ處ヨリ十二本ノ太キ枝ヲ分ツ枝ハ七八十尺ヅヽ四方ヘ擴リ樹形壯大ナリ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

加茂の大クス
加茂の大クス(かものおおクス)は、徳島県東みよし町加茂(旧三加茂町)にあるクスノキの巨木。国の特別天然記念物に指定されている。新日本名木百選選定。

概要・歴史
吉野川南岸のJR徳島線阿波加茂駅の北東にる、旧若宮神社の社地跡にあり、源平の頃よりあると伝わっている。1926年(大正15年)内務省告示第58号により天然記念物に指定され、1956年(昭和31年)に文化財保護法に基づき国の特別天然記念物に指定された。
昭和以降、周辺の開発の影響により樹勢が低下したため、県や町により周囲の水田を買い取り、周囲に土を入れるなどして、樹勢の回復につとめている[1]。

データ
平成19年11月1日の環境省による計測値
所在地:東みよし町加茂1482番地
樹齢:約1000年
根回経:23.35m 幹経:16.72m(環境省巨樹測定基準) 14.10m(地上1.3m凹凸を含まない)
樹高:26m 枝張東西:52m 枝張南北:42m

中山路のイチョウ  徳島県美馬市美馬町

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中山路のイチョウ  徳島県美馬市美馬町

美馬市HPの市指定文化財1(史跡名勝天然記念物)による解説は、次のとおり。

中山路のイチョウ(なかやまじのいちょう)

所在地:美馬市美馬町字銀杏木69
平成13年12月7日 市指定

郡里廃寺跡〔国史跡〕の中心部に位置する樹周約12mの銀杏の巨樹。樹齢は、約700年といわれている。数十年前に主幹が伐採されてしまったが、過去には32m程の樹高があったそうである。
この銀杏は雌の木であり、秋には大量の実をつける。雌の木としては全国でも屈指の規模である。

郡里廃寺跡  徳島県美馬市美馬町

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郡里廃寺跡  徳島県美馬市美馬町

国指定文化財等データベース及び美馬市HPによる解説は、次のとおり。

名称: 郡里廃寺跡
ふりがな: こおざとはいじあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1976.03.22(昭和51.03.22)
追加年月日: 2006.07.28(平成18.07.28)
指定基準: 三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 美馬市
解説文:
S50-12-042[[郡里廃寺]こうざとはいじ]跡.txt: 吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果法起寺式伽藍配置をとるものであることが判明した。塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
現段階では徳島県下最古の寺院の一つとして、また、遺構をよくとどめている寺院跡として、きわめて重要な寺院といえるであろう。

(美馬市HP解説)

国指定史跡「郡里廃寺跡」
郡里廃寺跡は、白鳳時代(約1300年前)に創建された県内最古の寺院跡として昭和51年に国史跡に指定されています。これまでの発掘調査で、塔跡、金堂跡や寺域が判明しており、塔と金堂を東西に並べた法起寺式伽藍配置であることが明らかとなっています。
特に塔跡は、心礎が基壇下におかれる地下式の構造であり、これは古代寺院跡などでも古いタイプのものにみられる特徴であり、注目されます。
郡里廃寺跡のもつ遺跡の重要性は、創建年代の古さのみでなく、段の塚穴や郡衙関連地名などとの時間的、地理的関係にもあります。郡里廃寺跡と段の塚穴の太鼓塚古墳は、約100年の時期差、約2㎞という近接した立地であり、郡を治める役所である郡衙を示唆する地名である「郡里」や交通の要衝である駅屋の存在の存在を示唆する「駅」「馬次」も近隣に存在します。これらのことから郡里廃寺跡は、太鼓塚古墳の被葬者の子孫が一族の氏寺として建立したものであり、郡里廃寺跡を建立した一族が美馬郡を統括した郡司であったことが想像されます。

段の塚穴  徳島県美馬市美馬町

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段の塚穴  徳島県美馬市美馬町

国指定文化財等データベース及び美馬市HPによる解説は、次のとおり。

名称: 段の塚穴
ふりがな: だんのつかあな
種別1: 史跡
指定年月日: 1942.10.14(昭和17.10.14)
指定基準: 一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 美馬市美馬町
解説文:
山麓ノ傾斜地ニ東西ニ並ビタル二基ノ圓墳アリテ段ノ塚穴トス即チ東ニ存スル圓墳ノ封土ハ底徑約百三十尺高サ約三十尺石槨ハ緑泥片岩及結晶片岩等ノ自然石ヲ以テ築キ玄室ト羨道ノ二部ヨリ成リ全長約四十六尺口ヲ南ニ開ケリ 玄室ハ奥幅十尺、長サ十五尺、最高約十五尺アリ 天井ハ前後ヨリ持送リニ築キ上ゲ左右側壁モ多少内面ニ傾斜シ恰モ寶形造ノ屋根裏ヲ見ルノ觀アリ羨道ハ入口幅約七尺五寸、長サ約二十八尺、高サ約七尺アリ 此ノ圓墳ノ西約八十尺ヲ隔テテ存スル圓墳ノ封土ハ底徑約七十五尺高サ約二十四尺、石槨ノ石材及構造ハ略々等シク全長約三十尺アリテ口ヲ南ニ開ケリ玄室ノ奥幅六尺四寸、長サ十四尺八寸、最高約十四尺六寸、奥壁ノ中間ニ幅約三尺ノ石棚ヲ設ケ 天井ハ側壁略々直立シ前後ヨリ各三枚ノ板石ヲ以テ持送リニ築キ上ゲタリ 羨道ハ入口幅約四尺八寸長サ約十四尺、高サ約四尺三寸アリ共ニ早ク發掘ノ厄ニ遇ヒ遺物ノ徴スベキモノナキモ何レモ椀貸傳説ヲ存シ石槨ノ構造頗ル雄大ナリ

(美馬市HP解説)

国指定史跡「段の塚穴」
段の塚穴は、徳島県美馬市美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある2基の古墳のことです。2基の古墳は、どちらも古墳時代後期(約1400年前)につくられたもので、約25mの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳が太鼓塚古墳、西の小さい古墳が棚塚古墳と呼ばれています。特に太鼓塚古墳は、その石室規模や特異な構造から、四国の古墳時代史解明に欠かせない重要な遺跡であり、昭和17年に徳島県初の国史跡に指定されています。
ここから出土した遺物は、寺町にある美馬郷土博物館に展示されています。

太鼓塚古墳
太鼓塚古墳は、直径約37m、高さ約10mの円墳で、中心部には埋葬施設として横穴式石室があります。石室の規模は、全長13.1m(玄室長4.8m)、高さ4.3m、幅3.4mで、四国最大級の石室規模です。また、その構造は玄室(棺をおさめる部屋)をドーム状にするという特異なものです。

棚塚古墳
棚塚古墳は、直径約20m、高さ約7mの円墳で、埋葬施設として横穴式石室をもちます。石室規模は、全長8.7m(玄室長4.5m)、高さ2.8m、幅2.0mで、太鼓塚古墳と同じく、玄室をドーム状にする。また、玄室奥壁には、古墳の名称の由来と思われる立派な石棚がある。

段の塚穴型石室
太鼓塚古墳、棚塚古墳に共通してみられる特異な石室構造は、段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴です。この石室は、代表例の段の塚穴の名から「段の塚穴型石室」と分類されており、玄室の天井を斜めに持ち送り、玄室側壁を胴張りにし、玄室をドーム状にすることを特徴とします。また、この型式の石室には、奥壁に石棚をもつものが多くみられます。
段の塚穴型石室をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、この範囲に後の氏族につながるような同族集団が居住していたことが想定されます。

※石室内部は暗くなっています。見学の際には懐中電灯を用意されることをおすすめします。

相栗峠  徳島県美馬市美馬町

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相栗峠  徳島県美馬市美馬町

相栗峠(あいぐりとうげ)は、香川県高松市塩江町と徳島県美馬市美馬町との間にある県道7号の峠。標高は570mだが、クネクネと上り下り、標高以上に感じる。いよいよ徳島県へ入った。
愛媛と香川県で思ったより日数がかかり、くたびれた。台風接近中でもあり、四国の旅は予定を切り上げ、長崎へいったん帰ることとした。

徳島と高知県は次回に期したい(いつになるかわからない)が、愛媛県八幡浜からフェリーに乗るため道の途中の主なところは、今回、時間が許すかぎり寄ってみた。
以下の徳島と高知県の記事は、その主なところとなる。3枚目は民家庭の小型水車。