九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

長崎鼻  指宿市山川岡児ヶ水長崎

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長崎鼻  指宿市山川岡児ヶ水長崎

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

長崎鼻

長崎鼻(ながさきばな)は、鹿児島県南部、薩摩半島の最南端にある岬である。鹿児島県指宿市(旧山川町)に位置する。指宿カルデラの外輪山の一角を成しており、一帯は火山岩にて形成されている。

概要
「鼻」と付く地名は名の如く、岬の基部が末広がりになる三角形状の地形であることが多い。鼻と名の付く岬は全国の至る地方で見られるが(特に九州で多い)、その中で最も有名な岬である。
長崎鼻からすぐ西方には、海越しに端整な山容で知られる開聞岳がそびえ、妨げる障害物は何もないため、岬から眺める山容は非常に美しい。また、晴天時だと岬の展望台から遠く屋久島の宮之浦岳や硫黄島を遠望する。このように非常に風光明媚な土地であることから古くから観光開発されており、岬の展望台から1〜2kmの沿線に土産物屋や飲食店がびっしりと建ち並び、長崎鼻パーキングガーデンという観光施設が設けられている。
また、この長崎鼻一帯にも浦島太郎伝説が伝わっており、竜宮神社が鎮座する。
岬及び周辺の海岸線一帯が霧島錦江湾国立公園の一角を成している。また、近辺に国の特別天然記念物であるソテツ自生地がある。

枚聞神社のクスノキ  指宿市開聞十町

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枚聞神社のクスノキ  指宿市開聞十町

HP「人里の巨木たち 全国巨樹探訪記」鹿児島県による説明は、次のとおり。

名称 枚聞神社のクスノキ(ひらききじんじゃのくすのき)
名称の典拠 なし
樹種 クスノキ
樹高 23m(注1)
目通り幹囲 10.6m(注1)
推定樹齢 300年以上(注1)
所在地の地名 鹿児島県指宿市開聞十町(注2)
天然記念物指定 なし
注1)環境庁「日本の巨樹・巨木林 九州・沖縄版」による
注2)2006年1月1日、指宿市に合併。旧行政区は揖宿郡開聞町(かいもんちょう)

枕崎から頴娃町に向かう国道226号を走るとき、海原を越えて開聞岳(かいもんだけ。924m)の秀麗な山容が目に入る。思わず声をあげたくなるくらい、美しい姿だ。
枚聞(ひらきき)神社は、その開聞岳の北に位置する。かつては本殿屋根の上に開聞岳が大きく見えたという。今日では、下図のように樹木が勢いよく茂り、背後の風景を隠してしまった。
社伝では、和銅元年(708)の創建という。真偽を確かめる資料がないので、正確にこの年なのかどうかは知らないが、古くよりあった神社であることは確かなようだ。
境内をぐるっと巡ってみた。
薩摩国一宮だけあって、境内はよく整えられている。現在の社殿は慶長15年(1611)、藩主島津義弘公が寄進したもの(のち、天明7年(1787)に修築)。県指定有形文化財。
境内林の主役はクスノキ。なかでは正面入口に立つクスノキが最も太い。
弱ってきたためか、大枝はみな途中で切断されている。樹冠がすっかり小さくなってしまった。
この他にも、数本のクスノキ巨樹が見られる。特に本殿後方の個体などは、なかなか立派だ。現時点ではまだ気の早い話だが、これらが、次代を担うクスノキと言ってよさそうだ。

枚聞神社本殿は、県指定有形文化財。鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。最後の写真は、枚聞神社からまっすぐ行った開聞山麓ふれあい公園上の開聞岳登山口(2合目 開聞岳は標高924m)。

枚聞神社本殿
【所 在 地】指宿市開聞町十町 1366
【種 別】県指定有形文化財(建造物)
【指定年月日】平成2年3月 23 日

本殿,幣拝殿,勅使殿が各独立して一直線に並び,樹木に囲まれ,見事な景観となっている。勅使殿の両脇に長い東長庁,西長庁が独立して並んでいる。
建築様式は,県内神社の最も典型的なもので,本殿は天明6(1786)年に再建された。
本殿には,「奉再興嶋津兵庫入道慶長十五庚戌年九月九日」の銘が入った擬宝珠が使用され,龍柱には,島津重豪 42 歳の厄払いのため,天明6年 11 月から天明7年正月にかけて取り付けた銘が修理の際に発見された。
また,建立,修理等の棟札も現存している。延喜式に頴娃郡1座小枚聞神社とある。
昭和 62(1987)年,本殿,幣拝殿,勅使殿の屋根を銅板に葺替え,又本殿は漆により,幣拝殿,勅使殿は光明丹で塗りかえられ,背後に開聞岳を控え,一段と壮厳さを見せている。

縄状玄武岩  指宿市開聞町脇浦花瀬崎

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縄状玄武岩  指宿市開聞町脇浦花瀬崎

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

縄状玄武岩
【所在地】指宿市開聞町脇浦花瀬崎
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

花瀬から田崎にかけて分布する溶岩は,開聞岳火山活動の中期に噴出したもので,干潮時には幅広い波食台となり,これを地元では花瀬と呼んでいる。付近一帯は東シナ海や南薩台地を望む景勝の地となっている。
溶岩内部は緻密で固いが,表面は火山ガスの抜け出た孔が多く,多孔質である。
花瀬の溶岩は,比較的高温で噴出した流動性に富む玄武岩質安山岩で,カンラン石(オリビン)を含み,縄状構造が顕著である。開聞岳頂上付近からみると,溶岩が北西方向に流れた跡がよく分かる。典型的な縄状構造を示す玄武岩質溶岩流として,本県で唯一のものである。
〈参考〉
開聞岳 海抜 924m の円錐形の美しい火山で,薩摩富士と称されている。下部は成層火山,上部は溶岩円 頂 丘 をつくり,典型的な二重式火山である。約 4,000 年前に活動を開始し,約 1,100 年前の平安時代の貞観・仁和年間に活動が終了した。平安時代の噴火では大量の火山噴出物が放出され,周辺の村々は埋め尽くされるなどの大被害が出た。
開聞岳から噴出した火山灰や火山礫は硬く固結し,特有の黒色火山灰土壌を形成しており,「コラ」と呼ばれている。

花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

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花瀬望比公園  指宿市開聞十町花瀬

指宿市観光協会「いぶすきネット」による説明は、次のとおり。

花瀬望比公園

この海岸は、イソギンチャクが殻の中から5色の花を咲かせている群落があったことから花瀬の名称が生まれたといわれています。 また 、開聞岳初期噴火のときに流れ出た玄武岩質の溶岩流によってできた縄状玄武岩でおおわれています。 花瀬望比公園は、開聞岳の西側の花瀬海岸に比島戦没者慰霊碑が建設され、死生の扉、想比之碑、安らぎの鐘、大鐘楼等が整備されたのを契機に、花瀬公園を花瀬望比公園と改称し、過ぐる第二次世界大戦の戦没者の霊の鎮まる霊地として末永く英霊の安穏と21世紀に向けて世界各国の平和の基地として発展することを祈念し、命名したものです。

「戦没将兵47万6千余柱」という厳粛な数字は、今も私たちの心に重く、胸を詰まらせます。比島作戦に果てた同胞の形骸はかの地に朽ちても、すべての精霊が永遠に比島にとどまっているとは思いたくありません。異域の密林や南冥の底から、同じく祖国防衛に殉じた戦友に抱き起こされ押し上げられて、不死鳥のように蘇り1900キロの天空を駆け、戦場に夢見つづけた祖国に声亡き凱旋の姿を願うのは遺族だけではありません。 そのような祈りを込めて造形されたのが「死生の扉」です。

死生の扉  碑文
遥か 南海の比島戦線に散りし四十七万六千余名の英霊
時空を超えて故国のこの地に鎮魂す 心底に万感を憶え痛惜の念を石碑に刻む
自らを捨て祖国の盾となりしその死は 決して徒ではなかった尊い犠牲
限りない加護がありて今日の平和 いやさかの繁栄が有る
私たちは それに応えているや 二度とこんなことを起こしてはならない
親から子へ 孫に 無惨 痛哭の太平洋戦争を 
そして壮絶 艱難辛苦の戦後もまた 語り継いでいかねばならない

比島戦没者慰霊碑  碑文
許されるものらば 還らざる旧軍四十七万六千余柱の 精霊なおもとどまる 雲咽万里比島の地に
痛恨の碑を建て その前に伏し 心からなる祈念を捧げたいものを
やむなく 日本列島最南端のここに碑を置き 想いを馳せてみたま鎮まれとひとしく願う

瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

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瀬平自然公園  南九州市頴娃町郡

南九州市HPの観光情報による説明は、次のとおり。

瀬平自然公園

国道226号線沿いの海岸線を主体とした公園です。奇岩,老松の葉かげに開聞岳(薩摩富士)を初めて眺めると,その姿はまた格別です。
洋々と広がる水平線には硫黄島・竹島・黒島,また遠く屋久島が浮かび,夜は,沖合の漁火が明滅して趣があります。佐多岬も遠くかすみ,白砂青松の頴娃の海岸は絵によし,詩によしでしょう。

キス釣りのシーズンには家族連れの憩いに,ドライバーには一服の場所として最適です。瀬平海岸は岩礁が発達し,昔は瀬平の瀬渡りといって,人々に恐れられた難所でした。道路の東側の海蝕洞には,瀬道開発の記念と,安全を祈願したと思われる観音像が安置されています。

◆瀬平の由緒
山川から頴娃麓に通ずる道には,開聞の苙口(おろんくち)から町頭に出る荷辛路(にからじ)峠越えと,この瀬平渡りの2つの道筋がありました。瀬平渡りは,海に突き出た岩と岩の間隙を波しぶきを浴びながら跳んで渡るので,老人や女子,子供は一人では通れない難所でした。この難所に瀬道ができたのは元文3年(1738年)頃のことです。

◆歌碑(与謝野鉄幹・晶子夫妻)について
建立年月日:昭和62年7月3日
設 立 者:頴娃町観光協会・頴娃町
揮   毫:馬場啓彰(元県立頴娃高等学校教諭)

正面
迫平(せびら)まで 我れを追い来りて 松かげに 瓜を裂くなり 頴娃の村をさ  与謝野鉄幹
片はしを 迫平に置きて 大海の 開聞が岳 立てるなりけり   与謝野晶子

裏面
与謝野鉄幹・晶子
歌人与謝野鉄幹(寛)晶子夫妻は,昭和4年7月から8月にかけて山本実彦氏(当時改造社長)の案内で47年ぶりに来鹿,県下各地を歴訪しましたが,8月1日,この瀬平海岸で休息し,当時の樋渡盛広村長の歓待を受けました。
この二首は,洋上に屹立する開聞岳の雄姿,樋渡村長の厚遇にこたえて詠んだもので,そのときの歌集「霧島の歌」の中に収録されているものの1つです。
その歌集の全書には「自動車を南薩に駆る。・・・・・池田湖に到り,次いで頴娃村に出て,迫平(瀬平)の海岸に小憩して近く開聞獄を仰ぎ,また南海を展望す。竹島,硫黄島,屋久島等,遠く水煙模糊の間に在り。頴娃の村長樋渡盛広氏追ひて到り,西瓜その他を饗せらる。雲ありて,しばしば開聞獄を遮る。」とあり,この地からの眺望のすばらしさを述べています。
またこの瀬平海岸は,昔は「瀬平渡り」といって,海岸に突き出た岩と岩との間を波しぶきを浴びながら跳んで渡るという難所で,ここから約50m西方国道沿いの崖の洞穴には,元禄4年(1691年)にこの難所の交通安全を祈って作られた瀬平観音像も安置されています。
観光協会は,この由緒ある景勝の地を永く後世に伝えるため,与謝野夫妻の歌碑を建立したのです。

番所鼻自然公園  南九州市頴娃町別府 ( 鹿児島県 )

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番所鼻自然公園  南九州市頴娃町別府

南九州市HPの観光施設・観光地による説明は、次のとおり。

番所鼻自然公園(南九州市頴娃)

日本地図作成のため全国を実測した伊能忠敬が「天下の絶景」と絶賛した景勝地。伊能忠敬がここ番所鼻を測量で訪れたのは1810年,66歳の頃でした。この地に立つ石碑は,これを記念して昭和31年に建立されたもので,当時の首相・鳩山一郎氏の書による「伊能忠敬先生絶賛の地」と文字が刻まれています。

<見処スポット>
①竜の落とし子〜吉鐘(祥)〜
目前の海には,「竜の落とし子」が棲んでいます。昇竜を連想させるその姿から,しばし「幸運の守り神」とされますが,メスから授かった卵をオスのおなかの袋で大切に育てて出産するその珍しい生態や夫婦仲がよいこともあり,古より「竜の落とし子」には安産や子宝など,五つの吉祥ありと伝えられてきました。
②海の池
数十万年前の火山活動とその後の浸食で形成された天然の岩礁で,自然にできた「海の池」。その中には「竜宮城への入り口」があったと伝説が残ります。干潮時には歩いてぐるっと回れる「海の上のさんぽ道」となりますが,満潮や高波の時は歩くことができませんのでご注意ください。

伊能忠敬賞賛の番所鼻自然公園

「薩摩半島の最南端に位置し、開聞岳、また水平線はるかに屋久島、竹島、硫黄島、黒島等を眺望できる風光明媚な所です。
江戸時代、わが国最初の正確な実測地図を作った「伊能忠敬」が当地を訪れた際、この海岸から開聞岳を一望する景観を「けだし天下の絶景かな」と賞賛したという史実を記念して「伊能忠敬記念碑」が建立されています。」   頴娃町教育委員会

以下は、番所鼻自然公園のタツノオトシゴハウスHPから

かつて薩摩藩の番所(検問所)が置かれていたことから、このように呼ばれる様になりました。
江戸時代の番所は人やモノの流れをチェックする重要な役割を担っていましたので、番所があったということは交通の要所であった証。実はこの地は昔は船着場で、農産物や日用品を運ぶ船が頻繁に出入りしていた場所でした。なお、一般的に「番所」=「ばんしょ」と呼びますが、当地は「ばんどころ」と呼びます。

(2016年9月22日 追 記)
伊能忠敬賞賛の番所鼻については、入江氏から次の教示があった。

番所鼻について『測量日記』を再度調べましたが、「番所鼻」あるいは「番所崎」という文字は出てきません。文化7年7月13日に郡村を出発し、二手に分かれて測量しています。しかし、伊能忠敬は前日より持病の為、測量には参加していないようです。西別府村東塩屋まで測り知覧浦に泊まっています。
7月15日に面白い話が『測量日記』に出てきます。
此坊津岬は九州一の絶景と云伝。八景あり。田代落雁、御崎秋月、網代帰帆、中島晴嵐、松山晩鐘、鶴崎暮雪、深浦夜雨、亀浦夕照。後人の作か。眺望するに九州一とも云難し。
坊津岬の方を地元の人は九州で一番だと伝えていたようです。忠敬は家作を褒めることは時々あるのですが、風景を褒めることはめったにありません。島原の方で、庭の松を褒めたことは知られています。番所鼻の話は地元の史料にある話なのかもしれません。伊能忠敬のことを悪く扱っているわけではないので、良しとしましょう。

火之神公園・立神岩  枕崎市火之神岬町

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火之神公園・立神岩  枕崎市火之神岬町

鹿児島県観光サイト「本物の旅 かごしま」による説明は、次のとおり。国道226号の薩摩酒造明治蔵角から火之神ロードにより進む。

火之神公園・キャンプ場写真

薩摩半島の南西端、坊・野間県立自然公園の表玄関にあたる火之神公園は、東シナ海に突き出た岬の先に広がる半島屈指の雄大な景観を誇ります。沖には古くから漁業繁栄の守り神として地元の漁民に崇拝されている高さ42メートルの奇岩「立神岩」がそそり立ち、はるか洋上には、黒島、硫黄島や種子島、屋久島、東には開聞岳と雄大な景色が広がります。 公園内には、流水、アスレチック、幼児用と3種類のプールがあり、海とプールを自由に行き来できるのが特徴です。また、海岸では潮だまりでの磯遊びや貝拾い、釣りなど海での遊びが十分に楽しめ、絶好の磯釣りポイントとともなっています。

権現洞穴  南九州市川辺町上山田君野

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権現洞穴  南九州市川辺町上山田君野

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。
場所がわかりにくいが、「塘之池公園」前の市道を直進して行くと、君野集落内に山道入口案内板がある。植林地へ入って「君野洞穴へあと170m」標識先の分岐はまっすぐ進む。鳥居があり、この先が権現洞穴である。市道はさらに進むと、県道275号に出る。

権現洞穴
【所在地】南九州市川辺町上山田君野
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 29 年5月 24 日

権現洞穴は,緩やかな丘陵地の権現谷と呼ばれる小規模な谷にあり,入口付近は溶結凝灰岩の岩塊によって支えられている。付近一帯の山地をつくる岩石は,四万十累層群と呼ばれる中生代白亜紀の砂岩・頁岩層である。鹿児島(錦江)湾入口にある阿多カルデラから,約 10 万年前に噴出した阿多火砕流堆積物が,山地の裾野を取り囲むように分布する。阿多火砕流堆積物は全体に赤紫色を帯びている。高熱のため軽石や火山灰がとけ,レンズ状に引きのばされた黒曜石の目立つ岩石になっている。
入口は広さ2 m,高さ 1.3m の長方形をしており,全長 41.5m の水平横穴である。洞奥は落盤で埋めつくされており,以前はより長かった可能性がある。洞穴を入るとすぐ大広間となり,その先は自由に歩ける程度の大きさとなっている。
雨水が溶結凝灰岩の割れ目を伝わって内部にしみ込み,それらが集まって,基盤をなす四万十累層群との境界を流れ,柔らかい溶結凝灰岩を底から浸食して小さな穴を形成し,最終的にはそれが拡大して洞窟となったものである。現在も地下水が内部を細々と流れている。洞穴内部の溶結凝灰岩の表面は,地下水の作用により円磨されたようになっている。
縄文時代には人間の生活の場となっており,洞穴入口付近は拡幅されたように左右に大きく広がっている。

塘之池(とものいけ)公園  南九州市川辺町下山田

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塘之池(とものいけ)公園  南九州市川辺町下山田

現地説明板は、次のとおり。

塘之池公園総合案内
【沿革】
江戸時代の元禄14年(1691年)、薩摩藩主島津綱貴の命により、川辺町下山田の灌漑水の貯水のために築かれたため池です。当時は池のほとりに竹屋神社(現在は川辺町中山田)があったため、「宮の池」とも呼ばれていました。
昭和24年(1949年)の台風によって堤が決壊し、下流の田畑に大きな被害を与えました。この時の復旧記念碑が池のほとりに建てられています。
現在、塘之池公園として整備され、地域の公園として親しまれています。

川辺の大クス  南九州市川辺町宮

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川辺の大クス  南九州市川辺町宮

鹿児島県教育委員会HPの「鹿児島県の文化財」による説明は、次のとおり。

川辺の大クス
【所在地】南九州市川辺町宮 4773
【種 別】県指定天然記念物
【指定年月日】昭和 31 年9月 27 日

川辺町宮の飯倉神社境内の入口右側に,樹齢 1,200 年といわれる大きなクスノキがある。この大クスは高さ約 25m,根回り 25m,目通り周囲は 13m で根元には六畳敷きほどの大きな空洞があり,根元の一部は枯死して上部が腐朽してなくなっているので,2本のクスのように見える。しかし枝葉は比較的よく繁茂し樹観もよく,「蒲生のクス」,「志布志の大クス」,「塚崎のクス」と並んで,鹿児島県を代表する老大樹である。また幹や枝には,ボウラン,キバナノセッコク,コバノガマズミ,ムクノキ,ネズミモチ,イタビカズラやシダ類など多くの植物が着生している。
このクスノキは,大正8(1919)年に国の天然記念物として指定されたが,落雷により幹が裂けたこともあって指定が解除され,その後,県指定の天然記念物となった。一時樹勢が衰えていたが,枝打ちなどの処理により現在では若芽が出るほど回復している。また神社の境内はスギを主とした樹林で,タブノキやイチョウなどの大木が見られ,周辺の地中からは古墳時代の土器片等も採集されている。