落合の石畳 臼杵市久木小野〜落合
サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道502号障子岩交差点から県道25号に入り、途中から吉小野を通る近道により県道206号に出たところが久木小野の県道交差点である。
臼杵市資料によると、「殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です」とある。地形図の関係部分を参照。
さて、この殿様道の石畳は「落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜
30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています」とあり、久木小野側に一部が残っているらしいが、久木小野交差点近くで地元聞き込みをしても判然としない。
高速道高架下をくぐると立派な神社があり、その先に茶屋峠へ登る山道があったが、今は藪道となって入口さえわからないだろうという話だった。
そのため、今度は反対の落合集落側へ行ってみた(写真5枚目以降)。集会所横にコンクリート舗装された急坂の狭い車道があり、これが殿様道だったようで、戦後も久木小野小学校への通学路として利用されていた。
この道は、現在の九六位ゴルフガーデン上部を通り、いったん舗装道路に出て横切り、久木小野の神社近くに出ていたということだったから、双方地元民の話は合う。
藪道をかき分けてまで、これ以上、石畳を調査する時間はなく、日没となったので調査を打ち切った。
落合の石畳 おちあい
臼杵市 <通称・殿様道> 石畳道(2ヶ所) 長20-30m 江戸期 WEB 久木小野から落合へ抜ける通称・茶屋峠越えの間道 –
臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。
殿様道と茶屋峠(とのさまみちとちゃとうげ) 所在
臼杵はかつて“東九州の浪華”と呼ばれるほど栄えた町として広く知られていました。鉄道がまだ発達しておらず、海上交通が物資流通の主役だった時代に、湾の奥にある良港をもっていたことがその背景にあるのです。そして港とその奥にある穀倉地帯や主要都市とを結ぶ陸上交通路がめぐらされていたことも見落とせません。
江戸時代に臼杵には、末広方面から大分に抜ける府内城路、武山方面から三重、竹田へと向かう岡城路、海添から津久見、佐伯へとゆく佐伯城路という三本の幹線道路がありました。これらが交通の要路となっていたのですが、さらにこの三本の要路をつなぐ間道が網の目のように設けられていたのです。
これらの道は廃道になっていたり、近・現代の道路改修によって現在ではほとんど当時の様子を残していませんが、今なおその面影を伝えている道もあります。久木小野から落合へと抜ける通称「殿様道」もその一つです。
この道は岡城路と府内城路を障子岩〜田尻でつなぐ間道の一部で、正式な名称は不明ですが、久木小野〜落合に限って地元の人が殿様道と呼んでいます。その由来はかつて岡(竹田)藩の中川候が参勤交代の折に通ったという落合地区の伝承によるものです。
殿様道は久木小野の県道交差点(現在)あたりからその北側にある標高115mほどの通称「茶屋峠」を越え、落合地区の南側へと出る延長約1kmの道です。
この道も他の旧道と同じように等高線や谷を上手に利用しながら、急な上り下りが少ないように造られているようです。道幅は1.5mから5,7mとわりと広めです。また、落合地区への入口部分と、そこから約300mほど上った所の二ヶ所には延長20〜30mにわたって凝灰岩の石畳が敷かれています。臼杵市内では府内城路、岡城路、佐伯城路にそれぞれ石畳道の一部が残っていますが、間道に石畳が敷かれている例は珍しく、この殿様道が当時の間道としてはよく整備された道であったことがわかります。
この道がいつ開かれたかは不明なのですが、天保二年(1831)に作られた「臼杵領内絵図」には記載されていることなどから江戸末期には既にあったようです。そして今年の二月に、その当時の様子を物語る遺構が発掘されました。それが茶屋峠の茶屋跡なのです。