九州(大 分 県)」カテゴリーアーカイブ

武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ) ( 大分県 )

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武山の三郡境石1・2・3  臼杵市武山(コニタ)

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ。1.6km先の吐合橋手前に「武山三郡境の石碑」入口標識があるので、この道へ入る。
先は荒れた狭い車道で、普通車は通行不能だろう。10分ほど歩くと現地に着く。2枚目写真で大野郡境石は、左右の2本奥の木立内にあるので、注意して探す。寸法は、いずれも横27×幅27×高さ(台座上)150cm。
場所がわかりにくいから、所在図を載せる。

武山の三郡境石1 たけやま (写真 4〜 7)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是寅卯之間 海部郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石2 たけやま (写真 8〜11)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是亥子之間 大分郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

武山の三郡境石3 たけやま (写真12〜15)
臼杵市 (コニタ) 境界石 高約160㎝ 安政6(1859) 市有形 WEB/市教委 原位置 (正面)「従是午未之間 大野郡」/3本の境界石が3角に並ぶ 1 B

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

三郡境の石柱

臼杵は、東西19.35km、南北21.88kmと東西に比べ南北に長く、現在は約152.26平方kmの面積を有していますが、臼杵藩時代には大分郡・大野郡の一部を含み、今より2〜3倍の広さの土地を領有していました。
北は現在の臼杵坂ノ市有料道路の西側、屋山から丹生・宮河内を経て、大野川東岸の戸次・筒井まで、西は犬飼から国道326号線を南へ下がり、三国峠に至るほぼ国道の東側部分、南は川登から東・西神野を経て、平岩・徳浦そして長目浦に至るまでの土地を含む広い範囲でした。
他藩の領地との境は、飛地などがあったこともあり複雑に入り組んでいました。境はほとんどの場合、山の尾根、谷、川、道などによって分けられ、それでもなお判りにくい時は、境に石を積んだり、埋めたり、また木を植えたりしてはっきりさせていました。このことは、他領との境だけでなく、同じ領内においても言えることです。この場合のほうが、自分達の生活の上に直接年貢という税金の形で跳ね返ることが多かっただけに土地境をより明確にすることに心を配っていたようです。
土地の境を表すものは、前にも述べたように色々ありますが、市内武山字コニタには珍しい地境を示す凝灰岩製の石柱があります。ここは海部郡・大分郡・大野郡の三郡が接する場所であるため三方向にそれぞれの郡の土地であることを示す高さ約1.6mの石柱が建てられています。各郡を示す石柱の各面には次のような文字が刻まれています。
〈海部郡〉
(南面)従是寅卯之間 海部郡
(北面)岩屋川組 大庄屋
安部關蔵代
(東面)安政六年さい次巳未
(西面)三月上かん庚辰建焉
〈大分郡〉
(東面)従是亥子之間 大分郡
(西面)長小野組 大庄屋
釘宮守左衛門代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉
衡山(こうざん)書
〈大野郡〉
(西面)従是午未之間 大野郡
(東面)黍野組 大庄屋
さ土原雅之丞代
(北面)安政六年さい次巳未
(南面)三月上かん庚辰建焉

吐 合 橋  臼杵市武山 ( 大分県 )

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吐 合 橋  臼杵市武山

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折する。正願橋手前の分岐はそのまま左へ、1.6km先にこの石橋が架かる。

№401  吐合(はきあい)橋

臼杵市武山-大分市志津留
橋長:7.9m  橋幅:4.2m  径間:3.9m  拱矢:2.0m
架設:昭和6年
大典橋よりさらに800m西進、分岐を左折、1.6Km先に架かっています。

大 典 橋  臼杵市武山 堤内 ( 大分県 )

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大 典 橋  臼杵市武山 堤内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵市の南西部、国道502号障子岩交差点先の次の市道を、武山の方へ右折すると、750m右手にこの石橋が架かる。

№400  大典(たいてん)橋

臼杵市武山 堤内
橋長:11.1m  橋幅:2.6m
架設:昭和3年
国道502号線、臼杵石仏入口から3Km西進、町道へ右折。750m右手に架かっています。

竜原寺三重塔  臼杵市福良 ( 大分県 )

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竜原寺三重塔  臼杵市福良

大分県HP「おおいたデジタルアーカイブ」による説明は、次のとおり。臼杵市街の県道33号沿い平清水に竜原寺三重塔はある。

竜原寺三重塔 −県有形文化財指定・臼杵市−

臼杵市には、歴史的町並みと文化的遺産が数多く残っている。昭和32年3月に県の有形文化財に指定された竜原寺の三重塔もその代表的建築物。安政5年(1858)に完成したこの塔は、市内平清水に昔と変わらぬたたずまいを見せている。この寺の三重塔は、塔の中心を貫く心柱が一階部分には無く、振り子のように動くことで逆方向の揺れが生じ、地震の揺れを衰えさせる。当時、科学的裏づけが見出され、高層ビルの建築などに利用されるようになった

畳屋町の石敢當  臼杵市二王座 ( 大分県 )

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畳屋町の石敢當  臼杵市二王座

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)、市営畳屋町駐車場のところに立つ。

畳屋町の石敢當 たたみや
臼杵市 石敢當(隅丸型) 高140㎝(塔身のみ),幅39㎝,厚14㎝ 明治20代の再刻 〔享和3(1803)以前〕 市有形民俗 WEB 現存遺物は明治期に建立されたもの 建立当時は木製、江戸期に石造なるが西南戦争で破壊/享和3に岡藩の儒学者・唐橋君山らが編纂した『豊後国志』には、戦国武将・大友宗麟が天正3(1575)に建立したと記載(この時期の書物には意図的な“誤解”を多いので間違いの可能性も大きいが、享和3に存在していたことは確実)→日本最古の石敢當との記載が時折見られる

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。

石敢當の塔(せっかんとうのとう)

畳屋町本通りの仏具店と家具店の間に細い路地があり、掛町へと抜けています。この路地を畳屋町の通りから十メートルくらい入ると左手の鉄格子越しに石段が見えます。ここが養元山八幡社です。この八幡社境内に「石敢當」の塔があります。
「石敢當」は向かうところ敵無しという意味で、唐の時代にはじまりこの三字を石に刻んで路傍や橋畔などの要害のところに建てておくと災禍を除くといわれています。
塔は凝灰岩でできており高さは約1.6mあります。言い伝えによりますとこの塔を臼杵にもたらしたのは明(中国)の人だとか。はじめは市浜の呑碧寺か安養寺の門前にあったものが、この境内に移され、あるいは戦火に遭って再建されたともいわれています。
文字は名筆です。昭和四十二年に市の文化財に指定されています。
養元山八幡社の祭礼が三月十一日に行われ町内の若者によって獅子舞も行われます。

臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか ( 大分県 )

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臼杵の町並み  臼杵市二王座ほか

臼杵市HPの文化財>ふるさと再発見による説明は、次のとおり。臼杵市街の八町大路(中央通り商店街)や二王座歴史の道に行く。

町並み

大友宗麟が、丹生嶋(現在の臼杵公園)へ城を築いて以後、明治維新を迎えるまで臼杵は城下町として、あるいは商業都市として栄えてきました。現在でも市内の仁王座や横町、浜町周辺を歩いていると、どっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡や白壁の土蔵などが立ち並び、往時の城下町の姿や商業都市としての名残をとどめており、町全体に静かで落ち着いた風情が感じられます。
町形成の歴史は古く、丹生嶋城の築城と時を同じくして町づくりも始まったと考えられます。文禄二年(一五九三)、山口玄蕃頭宗永が作成した「豊後国海辺郡臼杵荘御検地帳 惣町屋敷」の中に唐人町、畳屋町、唐人町懸ノ町、海添中町、横浜町、吉永小路片町、浜町、菊屋町、横町、祇園之洲内などの町名が十町見え、あわせて三百二十九軒(この内、十三軒は無主)の屋敷があったとしるされています。このことから考えても文禄以前にすでに町が形成され、町割りも行われていたといえます。
その後、江戸時代になると各町の統合と分離が進み、さらに身分による生活地域の区分も行われています。万治年間(一六五八〜六〇)ごろの城下の様相を書き写した絵図を見ると、武家屋敷や寺院は福良から仁王座、海添にかけて立ち並び、町屋は現在の辻ロータリー、本町通りから北側、臼杵川までの範囲に限られています。現在の田町、畳屋町、本町、掛町、横町、浜町、新町、唐人町などの町並みは、ほぼこのころに形づくられたと思われます。
古い建物と新しい建物が同居し対称をなす町並み、そんなアンバランスの中にも伝統と歴史の重みがひしひしと感じられます。

辻 井 戸  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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辻 井 戸  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR臼杵駅前から臼杵城跡の臼杵公園に向かう。公園の南西側、辻バス停の観光交流プラザ敷地内に辻井戸はある。

辻井戸 つじ
臼杵市 (臼杵) 石井戸 江戸期 WEB/市教委 保存状態良好 『稲葉家譜』に、「古老の言によれば、大友氏の家臣であった辻井某がこの辺りに居住しており、辻井殿と呼ばれていた」「辻井戸というのは辻井殿がなまったもの」と記されている/臼杵城下を代表する井戸/塩分を含まない上質の水が湧出するため、上水道が普及するまでは飲用だけでなく、醸造用にも使用 2 B

臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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臼杵城跡桁橋  臼杵市臼杵

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。臼杵城跡は臼杵公園となっており、県道33号などにより行く。この石橋は公園西側にある。

№1,566 臼杵城跡桁橋

臼杵市臼杵
4径間桁橋 

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵 ( 大分県 )

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洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡)  臼杵市臼杵

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。臼杵市役所の西隣り、臼杵市立東中学校校庭の臼杵湾に面した海岸側に、洲崎台場・跡が残る。市役所駐車場から歩いて見学する。近くに郷土の作家、野上弥生子が過ごした家もある。

洲崎台場・跡(将棋頭台場・跡) すさき
臼杵市 台場(石塁) 文久3(1863) WEB/市教委 石垣が残る(東中学校の東) 臼杵藩の台場中最大規模で、延べ32000人の農民を使役して構築/洲崎の先端部に造られた大規模な石垣の中央部が突出しているため、「将棋頭」の別称がある 3 B

虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町 ( 大分県 )

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虹 澗 橋・虹澗橋碑  臼杵市野津町・豊後大野市三重町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道326号三重町三重原から分岐して、国道502号を臼杵方面へ約2.5km、新虹澗橋から左折する。

虹澗橋 こうかん
臼杵市・豊後大野市 一般道/三重川 石アーチ橋 長31m,S25.2m(A) 文政7(1824) 国重文 日本百名橋p219-220/WEB(石橋) /市教委 大型車を通すため取り付け部を1mほど嵩上げして水平に→端部では高欄上にC壁 臼杵へ年貢米を運搬する際の最大の難所だった柳井瀬に、3人の豪商(三重・市場の油屋富治と後藤喜十郎、臼杵城下の茶屋・甲斐源助)が藩の許しを得て自費で架けたもの→私財投入で身代が傾いた/石工棟梁:臼杵の大野織平、支保工:大工・磯五郎/虹型の美しいアーチ橋 2 A

虹澗橋碑 こうかん
臼杵市 虹澗橋 石碑 高215㎝(地表部約135㎝),幅約110㎝ 文政9(1826) 大分の石橋記念碑p70-71 原位置/下部埋設(管理が悪い) (正面頂部)「虹/澗/橋/記」、(正面)「豊之三重郷桺瀬渡兩嶔夾峙澗流百尋奔突浹□形雖小己東之峽□以□也以過渉不可/舟自昔行李啇旅落砥碕之嶮窄而蹈碓石之出水故方秋霖夏潦溢浪迅激砅巖泐嵃租賦/爲之諬留販旅積日羪阻烏乎天之倹介夫誰奪之乎凡石橋之可記者趙州洨□梁集萬安/千百之一耳郷邑有甲斐源助多田富治後藤喜十者研精構思數十年始見神功可兾也□/是得石工織平者而相與謀之乃結高基於深淵之回巖起累石□絶壁之鑿空無一條之柱/脚連鎖之牢縶皆畳石爲之邊以巨石節〃相以龍鱗結絡凢巨淵趾五丈一尺基石相距八/丈四尺亭〃如初月低天鏟□既就被以土石南北兩邊畳石爲壁合橋東西捄築之地面三/十九丈六尺合七十九丈餘肬後連石爲橋長十丈二尺廣二丈七尺勾欄四角皆以巨石爲/界橋東西或威夷□通□曲折濔迆皆與四會相通創造文政四年辛巳正月至七年甲申六/月訖功於是租載□方軌擔負可摩肩材木□以運重行李不以賲時爲凢物難於始製而易/於襲跡固矣故趙石橋於李春蜀七星於黄一中古人係記銘干其神功者豈不以其難而不/可爲故乎若其不難何有乎記銘哉此斯橋□以須記也烏乎奪天嶮而令就安乃期永固於/堅石功利之大豈不偉哉豊人其令余記其事胡越之隔余雖未渉其地美其事而不敢辭爲/之記且係以銘曰/夫□人工之無巳奪自然之妙有架□□梁可濟驅神人石可敺嗟此橋創意豈假干喁盤根/雲構截嶮鏟陡累石梱緻長短別趣流無逆伏□□畫守四朞初就奇特無偶宛虹飲澗盤龍/蚴蟉□與山争利與地厚此諸鬼橋烏能可醜梱載無累來往殷阜維石不滅齊頼悠久」 3 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。

№96  虹澗橋(柳井瀬橋)

豊後大野市三重町菅生−臼杵市野津町大字西畑
大分県有形文化財(昭和54年5月15日指定)
国指定重要文化財(平成11年12月1日指定)

三重川
橋長:31m   橋幅:6.5m  径間:25.2m 
架橋:文政7年(1824)
国道326号線三重町より分岐して国道502号線を臼杵方面へ約2.5Km、新虹澗橋を左折。

虹澗橋
「虹澗(こうかん)橋は通称柳井瀬橋という。三重川の河口から5Kmにある石造アーチ橋である。虹はにじ、澗は谷川という意味である。三重川の渓谷にかかる華麗な姿から虹澗橋と命名された。
岡城下から臼杵城下に至る街道のうち、ここ柳井瀬は最も交通の難所であり、人馬の通行はもちろん物資の輸送の大きな障害となっていた。
臼杵(臼杵市)の甲斐源助、三重市(三重町)の多田富治ならびに後藤喜十郎は、人々の困苦を救済しようと文政3年(1820)、臼杵藩に架橋を願い出て許可を得、下ノ江村の名石工井沢織平を選んで、翌文政4年着工、4年の歳月を経た文政7年(1824)に完工した。
この架橋のため、人馬の交通はきわめて便利となったが、莫大な出費によって3人の豪商は家運を傾けたという。
以来170余年、美しい姿を保ちながら、よく過酷な交通量に耐え、昭和63年(1988)、上流に架けられた新虹澗橋にその使命を譲った。このときにあたって三重町民ひとしくこの名橋の恩恵に感謝し、あわせて架橋に尽力した故人の功績をたたえる。」
平成12年5月  豊後大野市