長崎学さるく行事ほか」カテゴリーアーカイブ

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (1)  平成21年11月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (1)  平成21年11月

平成21年11月29日(日)曇り。長崎学さるく幕末編行事 “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” 参加スタッフとも20人。講師は、諌早市郷土館の織田正人先生。
東望道バス停9時半発ー東望陣屋跡ー東望山台場跡ー蛎道台場跡ー戸石地区公民館(昼食)ー飯盛経ヶ岳台場跡ー結の浜(一部解散)ー田結観音寺ー大門バス停15時着(徒歩約10km)

江戸時代、佐賀藩諫早領は異国船来航に備え、橘湾沿岸の警備のため多くの台場を築いた。藩史料からわかっている各台場の配備状況と主な台場跡を訪ねる。
織田先生作成資料は詳しい研究と図があるが、写真説明に必要な部分のみ簡単に載せる。

写真  2        1 東望陣屋跡
幕末長崎に異国船の入津に伴い、佐賀藩は防備を強化した。諫早もその一部を受け持つため、長崎に近い矢上の地に用員の移住を行った。その用員の陣屋である。又、諫早領の海岸(橘湾)の防備の用員でもあった。

写真  3〜  7   2 東望山砲台跡(長崎市指定史跡)
文化元年(1804)のロシア船来航・文化5年(1808)フェートン号事件により、幕府は沿岸警備の強化を諸藩に命じた。諫早領は、橘湾沿岸警備のため、文化年間(1804〜1817)海岸沿いに警備の為に施設を整えた。幕末の文久年間(1861〜1863)に、東望山に砲台を設置、その後、慶応3年(1867)に5ヶ所設置した。現在の指定砲台は日当平と思われ、馬蹄形の台座が見られる。

写真  8〜 12   3 蛎道(釜崎)台場跡
東望山台場と同じ目的で設置された。幕末の文久年間(1861〜1863)に日当平辻台場として設置、その後、慶応3年(1867)に蛎道の上下段と魚見岳の3ヶ所に設置された。台場の跡形は、琴平神社の台石に利用されている。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (2)  平成21年11月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (2)  平成21年11月

平成21年11月9日(月)晴。長崎学さるく幕末編行事 “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” 参加スタッフとも12人。講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者で長崎街道ネットワークの会江越弘人先生。
諏訪神社鳥居前9時半発ー新大工通りー春徳寺ー城の古址ーししこまさまー焼山城跡ー七面山妙光寺(昼食)ー烽火山番所道ー烽火山・狼煙台窯跡ー南畝石ー秋葉神社ー妙相寺15時着(徒歩約14km)

あまり知られていない長崎市東部の山、焼山と烽火山(標高426m)の史跡を山歩きを兼ね訪ねた。見学場所は次のとおり。江越先生作成資料から「11 烽火山番所道」は概略を載せる。
本ブログにもすでに「烽火山かま跡・番所道・南畝石など」の書庫あり。各記事を参照。

10 七面山妙光寺 コウゴウ岩
11 烽火山番所道 新番所跡・旧番所跡・大荷床
烽火台までの登路は、「長崎市史」に詳しく記しているが、今日まで、登る人がいなく、廃道となって、一時期、その登路を確認することができなかった。平成19年にようやくこの道を発見して、登れるように整備したが、市史に記されてからかなり時代が経っており、周りの様子など違ってきている所がある。そこで、市史の記述をもとに現状を比較してみよう。…
(現 状)
番所道は、妙光寺のかなり下手の住宅地が途切れる辺りから右に曲りすぐ左に登っていく。畑が尽きたところに、小さな石橋(板状)が架かっている。単なる畑道や山道にしては、立派な石材を使っているので、これが番所道だと知ることができる。石橋を過ぎると左手に深く刻まれた急な山道を登っていく。今では、樹木が繁り、展望は全くない。番所の跡は、僅かに残る石垣と平地からようやく判断することができる程度である。
残念なことに「染筆松」の石碑は、どこを探しても見つからない。また、谷間の泉も、大水害で谷筋が変ってしまって見つけることができなかった。
12 烽 火 山 狼煙台窯跡・南畝石(その他 亀石・人面岩)
13 秋 葉 山
14 瑠璃光山妙相寺(曹洞宗)

次回は、11月29日(日)に”橘湾沿岸の台場跡めぐり” 講師は諌早市郷土館織田正人先生。9時30分東望道バス停集合。

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (1)  平成21年11月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

長崎学さるく “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” (1)  平成21年11月

平成21年11月9日(月)晴。長崎学さるく幕末編行事 “城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく” 参加スタッフとも12人。講師は「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者で長崎街道ネットワークの会江越弘人先生。
諏訪神社鳥居前9時半発ー新大工通りー春徳寺ー城の古址ーししこまさまー焼山城跡ー七面山妙光寺(昼食)ー烽火山番所道ー烽火山・狼煙台窯跡ー南畝石ー秋葉神社ー妙相寺15時着(徒歩約14km)

あまり知られていない長崎市東部の山、焼山と烽火山(標高426m)の史跡を山歩きを兼ね訪ねた。見学場所は次のとおり。江越先生作成資料から「9 焼山城跡」は概略を載せる。
1 大 手 橋
2 桜馬場天満宮(真言宗 威福寺跡)
3 上長崎村役場跡
4 桜馬場天満宮と雲龍寺跡
5 長崎村庄屋跡(長崎甚左衛門館跡)
6 華嶽山春徳寺(臨済宗建仁寺派)
7 城の古址 龍頭巌・末次平蔵政直の墓 金鍔谷 タンタンタケジョ 城の古址観音堂
8 ししこまさま
9 焼山城跡
焼山は、八気山とも書かれ、標高190m余の山城で、時代は不明であるが、長崎氏が築いたものである。現在、城塞の大部分が崩壊しているので、城の状態を知ることはできないが、僅かに崩れ残った石塁などから、高さ1m余の石塁が周囲300m以上に亘って焼山を取り囲んでいたものと思われる。
山頂の船人首塁(ふなとくびつか)と呼ばれる所は、かつて処刑されたポルトガル人の首を埋めた所という言い伝えがある。…

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ” (2)  平成21年10月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ” (2)  平成21年10月

平成21年10月18日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事 “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ”。 参加スタッフとも22人。「みさき道」の後半コース。
三和行政センター前午前9時半発ー蚊焼峠ー永一尾ー徳道ー野母崎ゴルフ場構内(昼食)ー延命水ー高浜ー古里ー堂山峠ー脇岬観音寺15時45分着。(徒歩約15km)

三和公民館展示ホールの当時の蚊焼村図や明治県道の脇岬・高浜標石など見て出発。秋葉山口の郷路八幡では栗拾い休憩となった。永一尾の長い稜線歩き。中間のベンチ所で展望を楽しむ。徳道の三叉路に出ると「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」の里程道塚がある。
ゆうこうの木の実を観察。野母崎ゴルフ場構内で昼食。ここはみさき道と川原道の分岐点となり、珍しい地蔵彫墓石兼用の道塚がある。

午後からは、ゴルフ場内はみさき道が喪失しているので外周市道を歩き、高浜延命水に出る。海水浴場まで下り、古里から最後の難所、堂山峠を越える。草刈りのお蔭で歩きやすく予定より早く脇岬観音寺に着いた。
開帳の日だが、夕方となれば国宝観音像はカーテンが閉められていて残念。

長崎医学伝習所生 関覚斎「長崎在学日記」(北海道陸別町資料館所蔵)の紀行をもとに、文久3年(1861)彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感した。
徳道から脇岬観音寺へ至った覚斎記録の一部文を紹介する。
○下リテ高濱ニ至ル 此ノ処漁処ナリ水際ノ危石上ヲ通ル 凡ソ二十丁此ノ処ヨリ三サキ迄一里ナリト則チ堂山峠ナリ 此ノ峠此ノ道路第一ノ嶮ナリ 脚疲レ炎熱蒸スカ如ク困苦言ベカラス 下リテ直ニ観音堂アリ清人ノ書ニテ海天活佛ノ額アリ ○三四丁ニシテ脇津ニ至リ…(この日脇津泊)

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21740190.html 
のりさんのは、  http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/8488797.html ほか 
次回は、11月9日(月)午前9時30分諏訪神社一の鳥居前集合。”城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく”。講師は長崎街道ネットワークの会 江越弘人先生。

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ” (1)  平成21年10月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ” (1)  平成21年10月

平成21年10月18日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事 “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅱ”。 参加スタッフとも22人。「みさき道」の後半コース。
三和行政センター前午前9時半発ー蚊焼峠ー永一尾ー徳道ー野母崎ゴルフ場構内(昼食)ー延命水ー高浜ー古里ー堂山峠ー脇岬観音寺15時45分着。(徒歩約15km)

三和公民館展示ホールの当時の蚊焼村図や明治県道の脇岬・高浜標石など見て出発。秋葉山口の郷路八幡では栗拾い休憩となった。永一尾の長い稜線歩き。中間のベンチ所で展望を楽しむ。徳道の三叉路に出ると「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」の里程道塚がある。
ゆうこうの木の実を観察。野母崎ゴルフ場構内で昼食。ここはみさき道と川原道の分岐点となり、珍しい地蔵彫墓石兼用の道塚がある。

午後からは、ゴルフ場内はみさき道が喪失しているので外周市道を歩き、高浜延命水に出る。海水浴場まで下り、古里から最後の難所、堂山峠を越える。草刈りのお蔭で歩きやすく予定より早く脇岬観音寺に着いた。
開帳の日だが、夕方となれば国宝観音像はカーテンが閉められていて残念。

長崎医学伝習所生 関覚斎「長崎在学日記」(北海道陸別町資料館所蔵)の紀行をもとに、文久3年(1861)彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感した。
蚊焼峠入口から徳道へ至った覚斎記録の一部文を紹介する。
○…三丁許ニシテ蚊焼峠ノ入リ口ノ芧店ニテ喫水シテ汗ヲ拭フ ○西北ハ港内ニテ其ノ西岸ハ遥ヘ絶ヘ高野木嶋 マゴメ嶋 硫黄嶋 高嶋 遥ニ松嶋ノ瀬戸(岩礁の図)高サ六七間見ユル 之レ相撲ノ瀬ト言フ ○四郎カ嶋 カミノ嶋 右二嶋ハ佐賀公ノ砲台二シテ最モ勝ルノ由 ○蚊焼峠ノ上三十丁許ヲ長(ナガヒ)人ト言フ 此ノ処東西狭クシテ直ニ左右ヲ見ル 東ハ天草 島原アリ遥ニ其ノ中間ヨリ肥後ヲ見ル

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21740190.html 
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/8488797.html ほか 
次回は、11月9日(月)午前9時30分諏訪神社一の鳥居前集合。”城の古址周辺と烽火山の昔の番所道をさるく”。講師は長崎街道ネットワークの会 江越弘人先生。

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ” (2)  平成21年10月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ” (2)  平成21年10月

平成21年10月11日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事 “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ”。 参加スタッフとも16人。「みさき道」の前半コース。
午前9時新地湊公園集合。十人町ー二本松ーダイヤランドー土井首大山祗神社(昼食)ー深堀ー女の坂ー大籠ー三和行政センター午後4時50分着。(徒歩約17km)

山野歩きに爽やかな日和。二本松やダイヤランド団地下り、深堀城山に趣きがある街道跡の山道が残っている。奥深い深堀善長谷には女の坂の首なし地蔵がある。本日は途中で「みさき道」道塚5本と、新小が倉で南佐嘉領境界石1本を見た。
長崎医学伝習所生 関覚斎「長崎在学日記」(北海道陸別町資料館所蔵)の紀行をもとに、文久3年(1861)彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感する。

江川河口から深堀に入り行厨後、八幡山峠(大籠の新田神社あたりか?)を越え、蚊焼へ至った一部文を紹介する。
○…小渚アリ一二小魚アリ且ツ一ノ烏賊ヲ見ル 同行ノ人直ニ入リ刀ヲ以テ切テ得タリ 自ラ携テ午飯ノ料トス
○迂路シテ深堀ニ出ズ 入口ノ峠アリ直ニ下リ深堀二至ル 小港アリ荷船四五個アリ且ツ佐賀公ノ船数十艘アリ此ノ処ハ佐賀ノ臣深堀某ノ居ナリ 戸数百口許 一ノ家二至リ芠餅ヲ喫ス 且ツ温熱忍ヒザルニ由テ草鞋ヲトリテ襟ヲ開キ汗ヲ去ル一快ヲ取ル后行厨ヲ開キ 且ツ鯛一尾ヲ調ヘ煮テ行厨ノ料トス 共ニ手取ノ烏賊ヲ供ス味極テ佳
○午時発途ス 二十丁許ニシテ八幡山峠アリ 上リノ中央ニテ異船ヲ見ル 望遠鏡ヲ用ユルニ竪ニ赤白青ノ旗号アリ 日午殊ニ峠ユヘ 炎熱蒸スカ如ク 汗ヲ以テ単物ヲ儒スニ至ル 三丁許ニシテ蚊焼ノ入リ口ノ芧店ニテ…

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21606297.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/8176013.html#8176013
後半コース、蚊焼ー脇岬観音寺間は18日(日)に実施。開帳の日でみさきの観音像と天井絵が見られる。学さるく参加予約申込はまだできる。

深堀「女の坂」地蔵の伝承は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/412

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ” (1)  平成21年10月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

長崎学さるく “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ” (1)  平成21年10月

平成21年10月11日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事 “江戸期の「みさき道」を歩く Ⅰ”。 参加スタッフとも16人。「みさき道」の前半コース。
午前9時新地湊公園集合。十人町ー二本松ーダイヤランドー土井首大山祗神社(昼食)ー深堀ー女の坂ー大籠ー三和行政センター午後4時50分着。(徒歩約17km)

山野歩きに爽やかな日和。二本松やダイヤランド団地下り、深堀城山に趣きがある街道跡の山道が残っている。奥深い深堀善長谷には女の坂の首なし地蔵がある。本日は途中で「みさき道」道塚5本と、新小が倉で南佐嘉領境界石1本を見た。
長崎医学伝習所生 関覚斎「長崎在学日記」(北海道陸別町資料館所蔵)の紀行をもとに、文久3年(1861)彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感する。

ダイヤランド入口源ネン茶屋から土井首大山祗神社前鹿尾川渡りへ至る一部文を紹介する。
○子ケ倉ノ入口ニテ少憩ス 右ニ笠山ケ岳アリ此ヨリ加能峠ノ麓ニシテ良ゝ登ル五六町二シテ平地アリ 望遠鏡ヲ用ユルニ最モ佳景ナリ 真下ハ子ケ倉港内ノ小島眼前ニ見ヘ西南ハ西海緲々タリ ○加能ノ下リ口ハ海面ニ張出シ 望ム尤好シ 両岸ノ砲台 或ハ隠レ或ハ顕ル 両岸ハ湾アリ張出アリ ○下リテ一湾ニ出テ岸上ノ危岩ヲ渡リ一ノ間路ヲ行ク

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21606297.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/8176013.html#8176013
後半コース、蚊焼ー脇岬観音寺間は18日(日)に実施。開帳の日でみさきの観音像と天井絵が見られる。学さるく参加予約申込はまだできる。 

長崎学さるく”長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり”  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

長崎学さるく”長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり”  平成21年9月

平成21年9月26日(土)快晴。長崎学さるく幕末編行事で「長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり」。講師は諫早市郷土館 織田武人先生。参加・スタッフとも10人。

矢上バス停9時半発ー矢上神社ー教宗寺ー役の行者ー福端寺ー大村庄屋跡ー古賀地区市民センター(昼食)ー正念善八橋ーつつじが丘団地ー古賀の藤棚ー旧本田家住宅ー船石二双舟の大タブー千歳橋ー並松翠鯉の苑ー下大野橋ー千束野ー古賀バス停15時着。(徒歩約12km)

長崎街道を矢上宿から古賀で歩き、さらに古賀と船石地区の史跡と石橋などをめぐる。織田先生作成資料の要約は次のとおり。

1 矢上神社  馬頭観音 元禄12年(1699)11月吉祥日 矢上札持馬衆中
2 教 宗 寺  文政9年(1826)1月9日シーボルトが江戸へ向かう時昼食時に休んだ。
3 役の行者  石像の伝説
4 楠川渡瀬(楠渡瀬)と境の大楠跡(古賀と矢上)
5 境界石標と台座石  従是南佐嘉領台座石〜地伏石2個の上に石標が立つ。
6 福 端 寺  江戸時代キリシタン撲滅のため、時の島原藩主の命により建立された。
7 大村庄屋跡  安政5年(1858)大村領の戸町と幕府領の古賀(上古賀)を交換した。上古賀と下古賀の境界標。①従是南大村領②従是東北大村領
8 善 八 橋  古賀正念の石橋 長さ4m・幅2.8m 架設年不明 
9 旧本田家住宅  国指定重要文化財 県内最古のかやぶき民家
10 タブの大木  船石奥の二双舟地区にある。
11 千 歳 橋  船石の石橋 長さ4m・幅3.9m 明治45年4月架設。増架されて幅3.9mとなる。
12 並松翠鯉の苑  長崎大水害被災の石橋木場橋を解体、欄干片側が移設されている。
13 下大野橋  船石の石橋 昭和35年12月架設

宮さんの参加ブログ記事は  http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21310463.html
次回は10月11日(日)「江戸期のみさき道を歩く Ⅰ」蚊焼まで。午前9時新地湊公園集合。

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (2)  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (2)  平成21年9月

平成21年9月13日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事で「大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり」。講師は長崎楽会中尾武先生。参加・スタッフとも19人。

女神バス停9時半発ー魚見岳台場跡ー明治9年地理局測点ーマテバシイ巨木ー大久保山ー子午線標ー天明藩境塚ー舫塚林間(昼食)ー採石所跡岩場ー萱の原ーセキ岩・オオ岩・ウマ岩ー褶曲地層ー了願寺ー千本松跡ー海底電線陸揚庫ー小ヶ倉神社15時着。

コースは約10km。国指定史跡「魚見岳台場跡」から大久保山(標高234m)に登り、小ヶ倉へ下った。途中にある史跡や珍しい標石などを見学した。
長崎港口にあり歴史ある山なのに、あまりに知られないことが多い。昨年5月に続き2回目だったので、参加者が少なかったが、見聞を深めたのではないだろうか。
大久保山の山頂は伐採され、採石所跡岩場と萱の原には新小ヶ倉側からブルが入り、一帯を伐り拓いていた。何のためだろうか。ブルが入ったのは3日前からだ。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21046818.html
次回の学さるくは、9月26日(土)に「長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり」。講師は諫早市郷土館織田武人先生。矢上バス停に午前9時30分集合。

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (1)  平成21年9月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

長崎学さるく”大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり” (1)  平成21年9月

平成21年9月13日(日)快晴。長崎学さるく幕末編行事で「大久保山と小ヶ倉の史跡めぐり」。講師は長崎楽会中尾武先生。参加・スタッフとも19人。

女神バス停9時半発ー魚見岳台場跡ー明治9年地理局測点ーマテバシイ巨木ー大久保山ー子午線標ー天明藩境塚ー舫塚林間(昼食)ー採石所跡岩場ー萱の原ーセキ岩・オオ岩・ウマ岩ー褶曲地層ー了願寺ー千本松跡ー海底電線陸揚庫ー小ヶ倉神社15時着。

コースは約10km。国指定史跡「魚見岳台場跡」から大久保山(標高234m)に登り、小ヶ倉へ下った。途中にある史跡や珍しい標石などを見学した。
長崎港口にあり歴史ある山なのに、あまりに知られないことが多い。昨年5月に続き2回目だったので、参加者が少なかったが、見聞を深めたのではないだろうか。
大久保山の山頂は伐採され、採石所跡岩場と萱の原には新小ヶ倉側からブルが入り、一帯を伐り拓いていた。何のためだろうか。ブルが入ったのは3日前からだ。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/21046818.html
次回の学さるくは、9月26日(土)に「長崎街道歩きと古賀周辺の史跡めぐり」。講師は諫早市郷土館織田武人先生。矢上バス停に午前9時30分集合。