長崎外の古写真考」カテゴリーアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:1081 鎌倉大塔宮 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1081 鎌倉大塔宮 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1081 鎌倉大塔宮
〔画像解説〕
大塔宮は鎌倉市二階堂にある後醍醐天皇の皇子護良親王を祭神とする神社。鎌倉宮ともいう。明治2年(1869)に建立。本殿裏に親王が幽閉されたと伝えられる土牢がある。

目録番号:1088 頼朝の墓
〔画像解説〕
源頼朝は正治元年(1199)53歳で死去。その遺骸は鎌倉市西御門の丘陵の持仏堂に納められた。石囲いの中の古びた五輪の石塔。石垣の前後には大きな樹木が立っている。

■ 確認結果

目録番号:1081「鎌倉大塔宮」(写真は違うが、2人は同一人物)と、次の目録番号:1088「頼朝の墓」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.7 1871/9/1 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:1091 箱 庭

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1091 箱 庭

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1091 箱 庭
〔画像解説〕
室内に置かれた箱庭。木で囲まれた枠の中に細い棒で二階建ての家が組み立てられ、小さな樹木や草花、灯篭、庭石が置かれている。背後の壁にはカーテンが掛かっている。

■ 確認結果

目録番号:1091「箱庭」は、横浜の英字新聞 ファー・イースト Vol.2 No.5 1871/8/1 に掲載された写真である。
資料は、九州大学デジタルアーカイブから。

長崎外の古写真考 目録番号:5331 熊本城(5)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5331 熊本城(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5331 熊本城(5)

■ 確認結果

目録番号:5331「熊本城(5)」は、横浜の英字新聞ファー・イーストの写真だろうか。〔撮影者:上野彦馬〕か、調査が必要である。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊112頁に「熊本 1877年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。上記の中心をアップしただけの同じ写真と思われる。

熊本 1877年ころ ファー・イースト
熊本城の外壕。坪井川畔に並ぶ民家。画面中央には、はるか遠くに熊本城が見える。

長崎外の古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1192 熊本城(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1192 熊本城(3)
〔画像解説〕
撮影時期は明治の初期。手前に写っている加藤清正神社の存在で大体の撮影時期が特定できる。明治4年(1871)に創建された社殿は明治7年には京町台に移されている。整理番号12-2、16-34とほとんど同一の写真。

目録番号:6670 熊本城(6)

目録番号: 532 熊本城(1)    (同写真 掲載略)
目録番号: 744 熊本城(2)    (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:1192「熊本城(3)」と、次の目録番号:6670「熊本城(6)」は、同じ写真と思われる。〔撮影者:富重利平〕とも考えられる。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊112頁に、「熊本城 富重利平」として掲載されている。同解説は次のとおり。

熊本城 富重利平
九州、熊本城の雄姿。慶長6(1601)年加藤清正の築城。大小の天守閣は明治10(1877)年の西南戦争直前の火災で焼失したが、昭和35(1960)年に復元された。

しかし、これは最後の資料写真どおり、明治天皇の西国・九州巡幸に随行した「内田九一」が撮影した写真だろう。金子隆一氏論文HP”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置”70頁に、「図33 熊本城 左ニ加藤社」として報告されている。東京都美術博物館蔵。

長崎外の古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2821 布引山入口(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2821 布引山入口(3)
〔画像解説〕
明治中期の、布引の滝登り口。突き当たりの坂を登ると、雌滝や雄滝に至る。現在の、山陽新幹線の新神戸駅から新神戸オリエンタルホテルあたりの風景。撮影は、横浜の写真師日下部金兵衛。左角に「1207」の文字が見えるが、同じ原版の写真には、もともと「1207. NUNOBIKI YAMA KOBE. 」とあった。目録番号4893と同じ写真。

目録番号:4893 布引山入口(4)
〔画像解説〕
明治中期の、布引の滝登り口。右手向こうの山は砂山 (いさごやま) で、左手前の山との間を生田川が流れている。突き当たりの坂を登って左に曲がって少し行くと、雌滝がある。彩色は異なるが、目録番号2821と同じ写真。名所風景の中に、このあたりで暮らす人々の姿を記念撮影のように収めたのは、日下部金兵衛らしい演出。

■ 確認結果

目録番号:2821「布引山入口(3)」は同画像解説や、次の目録番号:4893「布引山入口(4)」にあるとおり、〔撮影者:日下部金兵衛〕として良いのではないか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊102頁に、「布引山 
1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

布引山 1880年代 金幣アルバム
布引の滝の入口。坂道の奥に滝がある。西国街道の近くで、古くから貴族、文人の来訪で賑わった。

長崎外の古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3149 芦ノ湖からの富士山(3)
〔画像解説〕
目録番号5080・4147とほぼ同じ構図である。芦の湖畔の元箱根からの景で、手前の芦ノ湖、右手の箱根神社の杜、左手の三国山の裾野、その奥に台形の均整の取れた富士山を望む構図は、箱根を代表する風景として著名である。ただ、山体が湖面に映るいわゆる逆さ富士である点が他と異なっている。

■ 確認結果

目録番号:3149「芦ノ湖からの富士山(3)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊72頁に、「箱根の湖 
1890年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

箱根の湖 1890年代 金幣アルバム
箱根外輪山内にひょうたん形に横たわるカルデラ湖。湖面に映るさかさ富士は美しい。現在は観光船やボートなどが行き交い、大いに賑わっている。

長崎外の古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2966 大涌谷(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2966 大涌谷(3)
〔画像解説〕
明治九年(1876)東京医学校教授として来日したベルツは明治二十年(1887)大涌谷の噴泉に目を付け、温泉を医療的に利用する一大温泉場設立の建白書を内務省に提出したが、この提案は実らず、失意のうちにドイツに帰国した。写真では噴煙が上がる中、小屋に向かうと思われる人物の後ろ姿が見える。

目録番号:3131 大涌谷(5)  (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2966「大涌谷(3)」と、目録番号:3131「大涌谷(5)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊74頁に、「噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか」として掲載されている。同解説は次のとおり。

噴気の大地獄 1880年代 金幣アルバムか
明治5(1872)年、天皇の箱根巡幸の際に大地獄を大涌谷と改称。閻魔台と地獄沢からなり、閻魔台は現在も硫気を含んだ水蒸気を噴出している。

長崎外の古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2583 石山寺から琵琶湖を望む(1)
〔画像解説〕
石山寺(いしやまでら)の月見亭あたりから眺める瀬田川の流れ。平安時代後期には貴族の女性らに信仰され、後には西国三十三所観音霊場の第13番札所として庶民の信仰をあつめた。特にこの場所は近江八景(おうみはっけい)の1つ石山秋月(いしやまのしゅうげつ)を表現する図像として、写真絵はがきなど、様々な構図で写真が残されている。

目録番号:2932 石山寺から琵琶湖を望む(2)  (同写真 掲載略)

■ 確認結果

目録番号:2583「石山寺から琵琶湖を望む(1)」と、目録番号:2932「石山寺から琵琶湖を望む(2)」は、〔撮影者:日下部金兵衛〕ではないだろうか。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊88頁に、「琵琶湖 1880年代 金幣アルバム」として掲載されている。同解説は次のとおり。

琵琶湖 1880年代 金幣アルバム
石山の展望台から琵琶湖を望む。京都近郊の地の利から石山詣での人々で賑わった。

長崎外の古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5708 鶴岡八幡宮若宮社(2)

■ 確認結果

目録番号:5708「鶴岡八幡宮若宮社(2)」は、〔撮影者:ベアト〕であろう。
横浜開港資料館編「F.ベアト写真集1−幕末日本の風景と人びと」明石書店2006年刊51頁に、「48.若宮社。右手神楽殿の石段に腰掛けている3人の外国人は、ベアトの同行者達であろう」として、掲載されている。

長崎外の古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6495 浦カスミ

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6495 浦カスミ

■ 確認結果

目録番号:6495「浦カスミ」は、東京霞ヶ関で「外務省」であろう。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊26〜27頁に、同じ建物が「外務省 1872年ころ ファー・イースト」として掲載されている。同解説は次のとおり。

外務省 1872年ころ ファー・イースト
コレクションの資料には外務省となっている。明治2(1869)年太政官制の改革により外国官制を廃して外務省創設。人力車が斜めを向いているのは、坂道で加速しすぎないように蛇行しながら下っているため。

小沢健志氏監修「古写真で見る 江戸から東京へ」世界文化社2001年刊45頁には、「旧筑前福岡藩黒田家上屋敷 現在の霞が関2丁目外務省付近の潮見坂の光景」となっている。