長崎の滝・渓流」カテゴリーアーカイブ

田手原町重篭の「轟の滝」

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田手原町重篭の「轟の滝」

田手原町重篭の下の沢に「轟の滝」という滝があることは聞いていたが、なかなか行くことはなかった。どんな滝か確かめたく、平成19年8月5日の午後訪ねた。甑岩や飯香浦に行くバス道路で重篭のバス停を過ぎ、最後の家の下のコーラ自販機のあるところから、右手へ下る車道分岐がある。この道は沢沿いに高速道早坂インター横に出る。

その途中、分岐から600mほど下ると、青フェンスのあるハウスが石垣上にあり、ここが滝道の下り口で、ゴーゴーと滝の音が聞こえ、こどもの手製か小さな標識があった。竹林の中を5分ほど下ると滝に出る。薄暗い沢。落差8mくらい。滝壺を有し、小さいながらまとまっている。下にも1段ある。長崎近郊では珍しい滝である。この沢は茂木若菜川の上流となる。

滝道途中には、茂木河平「戸町ヘ至ル」の標石のところで見た同じ「指指し」のコンクリート石柱があった。滝場は霊場で地蔵などが多く祀られ、滝の右手岩場には不動明王が立っていた。

HPの古書長崎銀河書房によると、長崎人文社刊「季刊・長崎人」17号(1998/1)に「長崎重篭の滝」の掲載記事があるが、確認していない。

なお、岩永弘著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊、63〜64頁が次のとおり紹介している。
(4)重篭・轟の滝
古書長崎名勝図絵に載っているのに辺鄙な所のため、知る人のみぞの感があります。バス停から150m先の右に下る農道を10分余り歩き、数本目の電信柱に記された718・ヒ341号の手前8mの所にある山道を200m下ると川があり、目前に滝があります。落差10m位。15体の石仏と儚き礎石が残っています。
伝 説
a:元禄15年(1703)田上の観音寺(私寺徳三寺の前身)開山・天州和尚が滝側に轟山観音寺普門院なる仏堂を建てた。いつの頃か毎夜一人の美女が堂上に現れ、怪異な事が起こり、このため住僧も恐れて逃げ出し、以来住む人も無く享保20年(1735)廃庵となった。
b:滝壺には神竜が潜み、旱魃の時、里人が祭り事を行い長竿で釣りの動作をして祈ると雨をもたらしたという。
c:二人の水練者が底を極めようとしたが達せず、一人は耳が聞こえなくなり、一人は髪が抜けてしまった。

「長崎名勝図絵」32頁の説明は次のとおり。
77 轟潭 とどろきのたき 衛鹿峰の東。川の源になっている。広さは僅かに二三歩であるが、深さは底知れない。その上から水が湧いて、小瀑布となってこの潭に落ちている。高さは十数仞。車のわだちのような音を立てて落ちるので、轟潭というのである。神龍が潜んでいると言伝えられ、霊異が多い。…以下は岩永氏紹介のとおり

鳴滝と鳴滝岩

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鳴滝と鳴滝岩

長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」98頁の説明は次のとおり。

鳴滝は、もともと平堰と呼ばれたが、延宝年間(1673〜81)に長崎奉行牛込忠左衛門勝登が鳴滝と命名したという。かつては「春は桃花水に流れて錦繍を洗うが如し」などと詠まれ、長崎十二景の一つに数えられた名勝の地「鳴滝浣花」であった。現在でも岩面には「鳴瀧」と刻まれているが、これは林道栄の字とも晧台寺21代住職黄泉の字とも伝えられている。

林正康先生の「長崎県の山歩き 新版」(葦書房2000年)209頁にまた詳しい説明があった。

桜馬場中学校前をすぎて左に曲がると、シーボルト通りです。鳴滝川に橋がかかっています。この橋の下に「鳴滝岩」があります。旧地名は「平いで」と言っていましたが、延宝年間(一六七三〜八一)長崎奉行牛込忠左衛門が「鳴滝」と命名して、儒者の林道栄が書いた「鳴滝」の二字を川の中の岩に刻んだそうです。その後「鳴滝」の文字がよく見えなくなったので、文政十一年(一六二八)に庄屋の森田氏が、晧台寺の住職黄泉の書を再刻したということです。

下2枚の写真の碑は、記念碑、シーボルト通り、鳴滝橋の碑。

矢上「滝の観音」  県指定「名勝文化財」第1号

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矢上「滝の観音」  県指定「名勝文化財」第1号

平成19年7月20日、矢上の平間町にある「滝の観音」を訪れた。長崎の滝のランクづけで、滝の姿を確認する必要があったし、2箇所の「たきみち」標石の写真撮影もあった。昭和57年長崎大水害で寺も被災に合い、復興後を見るのは初めてであった。
拝観料200円を賽銭箱に入れる。代りに置いてあった「滝の観音」小縁起から参考となる部分を、境内の撮影写真とともに紹介してみる。

弘法大師と滝の観音
弘法大師は西暦八〇六年、唐の留学を終えて帰朝のついで、この地に立ち寄られ、滝水をご覧になり、大悲示現の霊地なりと、親しく加持の妙法を修され、さらに水観音の梵字を滝の懸崖に記して末代衆生の為に結縁なされた、と古書は伝えており、当山はわが国最古の霊場である。その霊験あらたかな事は古来よく知られるところである。梵字は今もなお霊瀑中央の水苔深い所に跡を留めている。大師の尊い結縁により、当山は「滝の観音」の通称で世に親しまれているが、正式には長瀧山霊源院と称し、禅宗の一派黄檗宗に属している。それ以前に長瀧寺という真言系の寺が在ったかに口碑は伝え、今も之を忍ばせる字名が近隣に存在するが、確かな資料はなく詳細については不明である。

明治以後
…昭和五七年七月二三日夜、二九九名の犠牲者を出した集中豪雨が長崎県南部を襲った。当山も二基の石橋を始め鐘堂や庫裏の全壊流出、渓谷の崩壊や山林の山抜けに遭うなど、境内は一夜にして瓦礫の山と化した。しかし、観音堂が床上一尺に達する氾濫に遭いながら、唯一難を免れて「波浪不能没」を堅持したのである。じつに不思議という外はない。復興は地元はじめ全国的な募財と県市当局の助成を得て、総工費四億円、五年間にわたる大事業であった。…

<渓中の風光十景>
一、第一峰門から伏樹門に至る幽すい。 二、伏樹門。樹齢不明。どちらが根か判らず、故に不思議門ともいう。 三、壺天にそびえ立つ仁王門。 四、竹林の情景。 五、羅漢橋、普済橋を中心とする渓流。 六、観音堂前庭の五重塔や観音石仏群、四天王像のたたずまい。七、三十米の滝。人里で固有の名称がない滝は国内唯一と云う。 八、滝つぼ周辺の涼景。 九、対岸山中の羅漢群像と観音石仏。 十、羅漢山から見る滝の遠望。
右は四季折々に情景を変えて参客を先心の思いに誘う郷土の小秘境である。

また滝の観音名物の「普茶料理」と称する伝統三百年の精進料理は、風格ある当山の禅的風致によくなじみ、無形の文化財という可きであろう。(七名以上、要予約。095−838−3701)

藤田尾 津々谷の滝(つづやの滝)

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藤田尾  津々谷の滝(つづやの滝)

為石から茂木方面へ行く県道34号線を約10分ほど、干藤トンネル手前から旧県道の上手道を3分位戻ると、滝の入口に赤い鳥居と次のとおりの説明板がある。
滝までは100mほど石段道を登る。落差は約20m。源は佐敷岳(標高502m)に発し、この藤田尾川は部落の取水源となっている。

津々谷の滝(つづやのたき)
津々谷の滝は、新四国霊場であり、昭和2年に薬師如来像が建立されたのを初め、昭和7年から昭和9年にかけて普賢菩薩像、弘法大師像、不動尊像が建立されている。また、最近では十三仏の石像が寄進され、霊場としての崇敬地となっているほか、八郎岳の鹿が水を飲みに姿を見せることもある。  ●4月21日…弘法大師の命日  ●9月28日…不動明王の命日

千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

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千々川納手岩三段滑滝  長崎の隠れた名滝

長崎のギネスブック「長崎なんでもNo.1」が昭和63年刊行されている。地形編で、大きい滝は「平間町 滝の観音 落差30m」しか紹介されていない。滝・巨樹・石・景観・古道等の調査が本にはあまりなく、ランクがないので物足りなく感じる。若い人が今後、ぜひこの方面の調査に挑戦してほしい。

「滝」の厳密な定義は知らない。長崎山岳会故臼木寅雄氏は「只見た時の感じに過ぎないので、たとえ二米そこそこのものでも落水有壺で遡行を妨げる崖を拾い上げたまでである」と注釈されている。
氏を取り上げたのは、千々川に関する貴重な記録を私が手元に持っているからである。
長崎山岳会会報「足 跡」No.13/1969.12。「特集…千々川」。

千々川は八郎山系の裏側にあり、橘湾にそそぐ。長崎半島で最大の流域と豊富な水量を有したが、当時は至って交通不便、辺ぴな地域で、遡行を試みる人は稀であった。
長崎山岳会がここに最初に足を入れたのは、昭和32年。それから10年をかけた踏査結果が、会報に「千々川遡行 臼木寅雄 昭和42.10記」として掲載されている。核心部分の記述は、次のとおり。

「八郎川の合流を左に見送り尚も遡行を続けると両岸から支稜が押迫り川筋を扼するようになると突如として一大岩壁が立塞がり滔々として落下する高三十米位の大滑滝が現われる。納手(のうて)岩と云う。右岸を注意して登ればザイルなしでよいが初心者には安全を期してザイルを用いる必要がある」

同会山崎氏撮影の「納手岩滑滝」当時の写真は、上のとおり。普段は水量がなく大雨の後しか出かけられないが、この記録と見事な写真を見て、千々川遡行を若い頃に3度ほど試みた。
現在の千々川は、長崎大水害後、大きく変貌した。川にはコンクリート堤防が何箇所も築かれ、上部宗津地区は地すべり防止工事があって山道が寸断されている。八郎岳を越す大崎林道もできた。

現在は川の遡行はできないが、この滝へかえって行きやすくなっている。滝の上部には前から部落の上水道取水口があったが、千々バス停から農道が奥まで上がり、農道終点手前からパイプを敷設している山道を20分ほど歩くと、取水口の淵に着く。この下流に10分ほど急斜面の山道を下ると滝下に出る。
最近の写真は、梅雨の合間を見計らい、増水した平成19年7月8日、現地へ行って撮ってきた。

私の印象から言えば、長崎市内第一の名滝は、この写真のとおり千々川の落差30mある「納手岩三段滑滝」、次に藤田尾「津々谷の滝」がランクされるのである。

八郎岳の鹿と鰻  熊部 茂男氏稿 (昭和43年記)

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八郎岳の鹿と鰻  隈部 茂男氏稿(昭和43年記)

山の男達の読みものに、何か書いてくれないか、との相談があったが、ご存じの通り、口べた、書くとなると、尚さらの事、しかし山男の皆さんに親しい八郎岳の出来事を、書いてみましょう。

八郎岳は県下でも、有名な野生鹿の生息地である。私は昭和の初期2年間、今は廃校になっている千藤小学校に勤めたことがある。ここでは鹿を毎日見たとは申しませんが、私は狩人さんが取ったもの、百姓さんが、落し穴や、針金わなで、取ったもの、犬に追はれ、山から海に、跳び込み泳いでいるのを舟からいって、つかまえる様子をよく見た。遠足はいつも八郎岳にきまっていたが、ある秋の遠足で輪になって弁当を食べていると、10m位近くの藪から、2匹の鹿が、跳び出して、悠々と、あとをふりむきふりむき、逃げる様子は、人間を馬鹿にしたような気さえおこった。

生徒が下校途中、狭い山道で鹿に会ったと、泣いて学校に引き返した事もあった。冬に雪が降ると、運動場には、鹿の足跡が、点々と残っていたこともあった。肉は時々貰って食べたが、山の中では、他の肉を食べないので、比べるものがないせいか、非常においしかった事を、覚えている。

私はこの学校にいるうちに、鹿の角を手に入れて、記念にしょうと、思うようになった。しかし、誰でも、簡単に気易すく、くれる者はいない。丁度その頃、ある老人が、つづやの滝の滝壺で角を拾った人がいると話してくれた。そこで私も、つづやの滝に一度行って見ることにした。

或る日、4,5人の元気のよい男生徒に、案内してもらった。道は山道と言うより、人が1人、やっと通れる藪道である。正面向いて行くと、草の葉や、木の枝、くもの巣が顔にかかって、はねのけるのに大変だ。滝の近くにかなると、ごうごうと音がする。周囲は大木の杉山で、うす暗いというよりは、相当暗い。水しぶきが、顔にあたる頃になると、滝が見える。30mもあろうか。頂上からの谷間が、野原と山の接点のところで崖になって、そこから弓なりの弧を描いて落ちている見事な滝である。落ちる水は岩にあたって、しぶきになり、飛び散る。その下は青々とした滝壺で、うす気味が悪い。こんな所に1人で来るのは、ぶっそうである。一応これで場所がわかったので、引きあげる事にした。
帰りながら、こう思った。時々来てみよう。そうしていると、何時かは、必ず目的を達する事が出来るであろうと。

4,5日たった。今日は土曜日。学校には生徒は1人もいない。しかし、鹿の角のことを思い出した。自分1人は何だかおそろしいので、若い教頭をさそった。彼は仕事をしていたが、すぐ私の計画に賛成してくれた。角が一対見つかったら、どうしょう。半分に分けたら値打ちがなくなる。よし今度の分は彼にやり、次の分を自分が取ろうと、心に言いきかせて、滝に行くことにした。2人共、頭の中は鹿の角の事ばかりである。元気のよい若い2人だからおそろしくはない。滝に着くや、用意してきた竹竿で滝の中をかきまぜた。何回もかきまぜたが、手ごたえはない。がっかりしたが、つめたい気持ちのよいしぶきに、涼味を満喫した。

長居は無用と、たのしみを後に残して、帰ることにした。滝を下ると横道までの中間は大木の杉山があり、少々暗い。道に近づくと明るくなって、石ころの間から、水が流れているのが見える。一足先に下っていた教頭が、あら鰻だと、びっくりした顔で叫びます。指さす方を見ると、元気のない鰻が、のろのろと草の上をはい廻っている。鰻は水さえあれば山の上にも、のぼって来ると聞いた事があるが、こんな所にいるのは始めて見た。鰻を見るや否や、反射的につかまえた。それを私がつる草で、えらぶたから口に通して獲物にした。大変うれしい。すこし下ると、今度は又、何匹かが草の上、石ころの上を、のたうちまわっている。2人は考えるひまもない。
ただ本能的に手足を動かし、10匹以上もつかまえた。次々とかづらに通して、この重い獲物にがい歌をあげて、学校に引きあげた。早く帰って食べる事だけを考えて、足も軽く走り下った。

早速2人で、料理に取りかかる。子供の時に、川で釣った鰻を料理した経験があるので、まな板に鰻の背を上にしてのせ、頭を錐でさし押さえ、包丁を背骨に沿って走らすと、尾までさける。
こう申すと、易しいようであるが、鰻はあばれる、包丁は錆ついて切れぬ。何度も磨いだが、鰻はべとつく。なかなか口のようには、さばけぬ。しかしだんだん慣れてきたのと、鰻が死んで動かぬようになったので、あとは楽に料理が出来た。
これからが、かば焼きである。部屋の中では暑い。学校の裏の山から枯小枝を拾って、運動場の真中で、燃やして金網をかけ、その上で何回か裏返しながら、砂糖醤油をつけて焼いた。即ち之が鰻のかば焼きである。

学生時代、街を歩いていると、かば焼きの香を、空腹の時、よく嗅がされたものだ。こんな事を思い出しながら、次々と焼けるのをがぶがぶ食べた。腹一杯食べる事を茂木ではあわぬものにおうたようにと言うが、正にその通り。しかしまだ半分以上も残っている。もったいないなあと、眺めていると、ごぞごぞと、足音がする。見ると、いつもの顔なじみの百姓さんが、5人程やって来た。先生何事ですか、よか香のするけん上って来たと、申します。えらいもんだ、あんな所まで鰻のかば焼きの香がするのか、丁度よかった。鰻のかば焼きですばい、さあさあ、食べまっせと、差し出すと、大変よろこんで、無我夢中で食べた。

一息つくと、こんな話をしたのである。畑仕事をしていると、山の中から鰻のかば焼きの香がする。始めは山の炭焼さんが、為石からハモでも買って来て、焼いて一杯やっているのだろうと、よか香で腹がぐうぐう鳴った。いつまでもとまらぬ。そのうち学校の方向から煙があがっている。これは何事かある。火事じゃないが、土曜日の午後2人の仲のよい若い先生が、何かごちそうを作っている。行って一緒に一杯やろうと、相談してやって来た。これは珍らしい。やって来てよかった。これはうまか、これはうまかと、次々にたいらげて、満腹すると、これはどうした鰻かと申しますので、一部始終を話しました。

すると、何事もないのに、鰻が露地に出てくる事はない。そう言われると、ふにおちない事ばかりである。ちょっと考えていたが、1人がそんなら毒流しだと申します。しかし誰もいない。いや丁度毒流したところに、2人が、ばさばさと音をたてて来たので、逃げたのさ。今度はこちらが恐ろしくなった。2人は毒流しはしない。毒流しの鰻を食べて体にあたらぬか。教師が毒流しだと知らなかったか、何だか心配である。この人々の話を総合すると、どうも毒流しである。食べた7人の腹は未だ変調はない。そこで、現場にもう一度行って、確かめる必要がある。駐在所もあるので、報告しなければ。若い2人の百姓さんと4人で現場にかけ上った。

鰻を食べた元気もあって、思ったより早く滝の下の鰻のいた場所についた。あの時は目につかなかったスボ鰻(赤ちゃん鰻)や川えびが白くなって死んでいた。確かに毒流しであった事がわかった。
それにしても犯人は誰か、わからない。結論はこうである。誰かが毒流しをした時に、私達2人が来た事に気付いて、いち早く逃げた。それで獲物は私達のものになった。これは駐在所に知らせておくべきだと、申しますので、百姓さんに引受けてもらった。しかし、心配は腹だ。毒がまわって、死ぬような事はなかろうか。教頭さんも下宿に帰らず、2人で宿直することにした。ねむれぬ。

夜が明けるのが遅い。…夜が明けた。日が照った。10時頃であったか、おなじみの巡査さんが、にこりとしながら、先生、おりますかと、挨拶して宿直室に入って来られた。昨日はごちそうでしたげな、…腹はどうもありませんか。ええ、どうもありません。毒流しの方はどうなりますかと、おそるおそる尋ねると、山の中には、よく他所から悪い奴が、やって来て毒流しをしますが、なかなか、つかまりません。今度も、そうですたい。よかよか、先生方は、うまかっただけ、もうけでしたい。あっあっはぁ、…心配せんでよかですばいと、申されましたが、ほんとうに、あと口の悪い事でした。
ついに鹿の角の記念品は、手に入らぬまま、茂木小学校に転任した。

(くまべしげお氏)
茂木北浦名生れ。初代小島中学校など経て記の当時長崎市中央公民館長。37年の教職生活では、茂木・福田など市周辺の学校もくまなくまわられ、地元民や生徒との暖かい交流の話の数々は、ほほえましい。これは干藤小(現在廃校。今の干藤トンネル近くにあった)勤務時代の思い出で、昭和初期の頃の八郎岳と滝の様子を知れて面白い。
画像は、津々谷の滝とその滝壺。増水していた平成19年7月11日撮影。

(昭和43年8月発行 部報「よちよち」No.14掲載)

千々石川遡行  昭和46年8月の記録

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千々石川遡行  昭和46年8月の記録

県内の山も、年ごとにあちこちで伐採が進み、林道が奥深く入るにつれ、沢歩きの楽しめる川が少なくなった。登る当人も、年とともに身体は無精になり、足は遠のく一方で、以前は多良や轟の渓谷、西彼半島の雪の浦川、河通川、近くでも干々川、鹿尾川など、結構1日を楽しく過ごせたのを、今はなつかしく思いうかべるのみである。

ここに紹介する千々石川は、裏雲仙田代原から千々石にそそぐ。雲仙山系にあって唯一の沢歩きの対象となる川であろう。ふだんは水量がほとんどなく、大雨の後しか出かけられないが、小規模ながら渓谷としての変化があり、田代原へのハイキングの1ルートとして、もっと見なおされてよいと思う。沢の概念をあらためて図で紹介してみたい。

長崎を8時頃のバスで発つ。橘神社前で下車。田代原への車道に入り、20分ほど行った三叉路で左へ野取部落への道をとる。橋を渡って、山ふところ深くコンクリートの大きな堤防が見えるあたりで、真直ぐな車道は切れ、山道に入る。ここまで約1時間である。木立の山道を10分も行くと、すぐ仙落の滝の直下に出る。この下流にも滝はあるが、無理して入るほどでもない。仙落の滝(F2)は、落差約30m。小気味よく滝水がしだれ、滝つぼも広く、よい昼食地点となろう。滝は右に大きく高巻きして山道があり、上部には取水のパイプが設けられている。

これからしばらく行くと崖が両側にせばまった廊下状のところがあり、水深は深く、水が多いときはスタンスを取りにくい。渡れないときは左にやぶ道がある。このあたりから沢は大小のゴロ石が続き、高度をかせぎながら、F3にひょっこり出る。途中は取水のパイプが数本敷かれ、「野取取水栓」の標柱がある。F3も落差約30m。この滝は中央右より、ブッシュの中を登れるが、右のガレ場の高巻きの方が無難であろう。この上に立つと、ものすごく高度を感じるのである。吾妻の水量の多い支沢を分岐すると、水はほとんど伏流となり、涸れた河原のゴロ石となり、ほどなく薄暗い木立におおわれたコンクリート堤防に出る。沢の中間地点で、仙落の滝から約1時間のところ。そろそろ疲れを覚えるころである。

このあと谷はややせばまり、湯つぼ状の直径5mくらいの円形淵に出る。水浴でもしたい見事な淵である。上部は3段で小滝が続く。捨て縄、ハーケンのある岩面を左右につたい、上に出る。
ここから沢の本流は右にカーブし、すぐF5、F6に出る。このあたりがこの沢の核心である。滝は落差はないが実に美しい。樹々の陰濃く、静かな清流ときれいな淵を見せる。惜しむらくは、水量が常にない。が、落ち葉が水に浮かんでゆるやかに滝面を流れ、たいへん風情がある。F6を「落葉の滝」と自分で命名した由縁である。F5は約10m。F6は約8m。

沢もこれまでで、上部は平坦なゴロ石となり、振りかえると後に鉢巻山、左右に吾妻岳、九千部岳がやっと近くに見える。沢をそのままつめても、F6から右手山道を登って車道に出ても、田代原まではあと40分の行程である。千々石川遡行の総所要時間は3時間から4時間。田代原には午後3時に着こう。
帰りは、道はやや荒れているが、吾妻岳のふもとの山道をたどり(この道は後年、九州自然歩道として整備されている)、亀石神社から林道を千々石に下ると、橘湾と愛野展望台のあたりの景色がよい。下りは約2時間。
(昭和49年12月発行 部報「よちよち」N0.16に掲載。写真は「仙落の滝」)

轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

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轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

妙にウマが合った青春多感な仲間3人がいた。釣りや山に、そして鉄砲打ちにも明け暮れ、普段はまっとうな恋愛ができないため、酒びたりの毎日だった。
1人は並大抵でない。船酔いするのに男女群島まで行き、毎月の給料は、釣具屋の借金払いに消えた。彼に感化され、海・池・川釣りをすることとなった。
遠征でよく五島に行き、当時はよく釣れ、居酒屋に卸したこともある。池は川原大池が巨大ヘラブナが釣れるということで、注目を浴びていた頃である。釣り大会があって優勝した。

3人が特に力を入れたのは、天然種はもう絶滅したと言われる長崎県内の河川の、渓流魚「ヤマメ」探しである。多良山系のほとんどの川を上流から下流まで探したが、あまり確認できなかった。釣れたのは、台風で壊わされた養殖池から逃げ出したと思われるニジマス。轟の滝下流では、ときたま大ニジマスが釣れ、結構楽しんだ。佐賀県鹿島側に行くと、ヤマメの小さいのは釣れた。

そこで一念発起。ヤマメの生息環境となる水温・水量と、人が入渓しないということで、北高高来町(現諫早市)境川、轟渓谷のある谷を選定し、自分たちの手でヤマメの稚魚を放流することとした。当時、島原市が4年前からヤマメ養殖を試験事業として行なっており、昭和51年6月11日、稚魚5kg(1,200尾位)を同市から購入してこの谷に放流し、生育を試してみることとした。
当時の放流の様子を伝えた読売新聞の記事は上記のとおりで、島原市役所近藤氏が長崎県生物学会誌No.13(1977)にも報告を書かれている。

その2年後も、佐賀県鹿島の養殖場から同量ぐらいの稚魚を購入して放流した。世代交代が進み、見事にこの谷に定着。渕に潜って観察すると、潜水艦のような魚影が数多く悠々と泳いでいた。昭和56年3月15日、この谷で最大となる体長34cm,320gのヤマメが釣れ、魚拓をとっている。

ヤマメは九州山地宮崎などへ出掛けても、そうやすやすと釣れるものでない。帰りにこの谷に寄って、ウサばらしをした。かえって長崎県内のこの谷が釣れるのである。7〜8年間は、私たちだけの隠れた釣り場となって、渓流釣りを楽しんだ。
やがてどうして知られたのか、福岡などの釣り人の姿を見るようになり、魚はこの谷から完全に絶えた。私たちの足も、自然とこの谷から遠のいていった。

最近、新聞・テレビに地元境川管理組合の「釣り名人」が登場し、いろいろ語っておられる。その方も知らないと思われる境川の、まだ奥の谷のまだ昔のこととなる。
6月の時期、下流の香田水産あたりは、蛍が川面から湧くように発生し、一大群舞する。テレビでこの間、ここを「蛍の名所」と中継していたが、その光景は前から見て知っていた 香田水産からはニジマスの小さいのを買い、轟の滝上流の普通の人は行けないある滝つぼに放し、半年ほどしてソーセージを餌に釣ったこともある。いずれも、もう30年くらい前の話である。