八郎岳の鹿と鰻 隈部 茂男氏稿(昭和43年記)
山の男達の読みものに、何か書いてくれないか、との相談があったが、ご存じの通り、口べた、書くとなると、尚さらの事、しかし山男の皆さんに親しい八郎岳の出来事を、書いてみましょう。
八郎岳は県下でも、有名な野生鹿の生息地である。私は昭和の初期2年間、今は廃校になっている千藤小学校に勤めたことがある。ここでは鹿を毎日見たとは申しませんが、私は狩人さんが取ったもの、百姓さんが、落し穴や、針金わなで、取ったもの、犬に追はれ、山から海に、跳び込み泳いでいるのを舟からいって、つかまえる様子をよく見た。遠足はいつも八郎岳にきまっていたが、ある秋の遠足で輪になって弁当を食べていると、10m位近くの藪から、2匹の鹿が、跳び出して、悠々と、あとをふりむきふりむき、逃げる様子は、人間を馬鹿にしたような気さえおこった。
生徒が下校途中、狭い山道で鹿に会ったと、泣いて学校に引き返した事もあった。冬に雪が降ると、運動場には、鹿の足跡が、点々と残っていたこともあった。肉は時々貰って食べたが、山の中では、他の肉を食べないので、比べるものがないせいか、非常においしかった事を、覚えている。
私はこの学校にいるうちに、鹿の角を手に入れて、記念にしょうと、思うようになった。しかし、誰でも、簡単に気易すく、くれる者はいない。丁度その頃、ある老人が、つづやの滝の滝壺で角を拾った人がいると話してくれた。そこで私も、つづやの滝に一度行って見ることにした。
或る日、4,5人の元気のよい男生徒に、案内してもらった。道は山道と言うより、人が1人、やっと通れる藪道である。正面向いて行くと、草の葉や、木の枝、くもの巣が顔にかかって、はねのけるのに大変だ。滝の近くにかなると、ごうごうと音がする。周囲は大木の杉山で、うす暗いというよりは、相当暗い。水しぶきが、顔にあたる頃になると、滝が見える。30mもあろうか。頂上からの谷間が、野原と山の接点のところで崖になって、そこから弓なりの弧を描いて落ちている見事な滝である。落ちる水は岩にあたって、しぶきになり、飛び散る。その下は青々とした滝壺で、うす気味が悪い。こんな所に1人で来るのは、ぶっそうである。一応これで場所がわかったので、引きあげる事にした。
帰りながら、こう思った。時々来てみよう。そうしていると、何時かは、必ず目的を達する事が出来るであろうと。
4,5日たった。今日は土曜日。学校には生徒は1人もいない。しかし、鹿の角のことを思い出した。自分1人は何だかおそろしいので、若い教頭をさそった。彼は仕事をしていたが、すぐ私の計画に賛成してくれた。角が一対見つかったら、どうしょう。半分に分けたら値打ちがなくなる。よし今度の分は彼にやり、次の分を自分が取ろうと、心に言いきかせて、滝に行くことにした。2人共、頭の中は鹿の角の事ばかりである。元気のよい若い2人だからおそろしくはない。滝に着くや、用意してきた竹竿で滝の中をかきまぜた。何回もかきまぜたが、手ごたえはない。がっかりしたが、つめたい気持ちのよいしぶきに、涼味を満喫した。
長居は無用と、たのしみを後に残して、帰ることにした。滝を下ると横道までの中間は大木の杉山があり、少々暗い。道に近づくと明るくなって、石ころの間から、水が流れているのが見える。一足先に下っていた教頭が、あら鰻だと、びっくりした顔で叫びます。指さす方を見ると、元気のない鰻が、のろのろと草の上をはい廻っている。鰻は水さえあれば山の上にも、のぼって来ると聞いた事があるが、こんな所にいるのは始めて見た。鰻を見るや否や、反射的につかまえた。それを私がつる草で、えらぶたから口に通して獲物にした。大変うれしい。すこし下ると、今度は又、何匹かが草の上、石ころの上を、のたうちまわっている。2人は考えるひまもない。
ただ本能的に手足を動かし、10匹以上もつかまえた。次々とかづらに通して、この重い獲物にがい歌をあげて、学校に引きあげた。早く帰って食べる事だけを考えて、足も軽く走り下った。
早速2人で、料理に取りかかる。子供の時に、川で釣った鰻を料理した経験があるので、まな板に鰻の背を上にしてのせ、頭を錐でさし押さえ、包丁を背骨に沿って走らすと、尾までさける。
こう申すと、易しいようであるが、鰻はあばれる、包丁は錆ついて切れぬ。何度も磨いだが、鰻はべとつく。なかなか口のようには、さばけぬ。しかしだんだん慣れてきたのと、鰻が死んで動かぬようになったので、あとは楽に料理が出来た。
これからが、かば焼きである。部屋の中では暑い。学校の裏の山から枯小枝を拾って、運動場の真中で、燃やして金網をかけ、その上で何回か裏返しながら、砂糖醤油をつけて焼いた。即ち之が鰻のかば焼きである。
学生時代、街を歩いていると、かば焼きの香を、空腹の時、よく嗅がされたものだ。こんな事を思い出しながら、次々と焼けるのをがぶがぶ食べた。腹一杯食べる事を茂木ではあわぬものにおうたようにと言うが、正にその通り。しかしまだ半分以上も残っている。もったいないなあと、眺めていると、ごぞごぞと、足音がする。見ると、いつもの顔なじみの百姓さんが、5人程やって来た。先生何事ですか、よか香のするけん上って来たと、申します。えらいもんだ、あんな所まで鰻のかば焼きの香がするのか、丁度よかった。鰻のかば焼きですばい、さあさあ、食べまっせと、差し出すと、大変よろこんで、無我夢中で食べた。
一息つくと、こんな話をしたのである。畑仕事をしていると、山の中から鰻のかば焼きの香がする。始めは山の炭焼さんが、為石からハモでも買って来て、焼いて一杯やっているのだろうと、よか香で腹がぐうぐう鳴った。いつまでもとまらぬ。そのうち学校の方向から煙があがっている。これは何事かある。火事じゃないが、土曜日の午後2人の仲のよい若い先生が、何かごちそうを作っている。行って一緒に一杯やろうと、相談してやって来た。これは珍らしい。やって来てよかった。これはうまか、これはうまかと、次々にたいらげて、満腹すると、これはどうした鰻かと申しますので、一部始終を話しました。
すると、何事もないのに、鰻が露地に出てくる事はない。そう言われると、ふにおちない事ばかりである。ちょっと考えていたが、1人がそんなら毒流しだと申します。しかし誰もいない。いや丁度毒流したところに、2人が、ばさばさと音をたてて来たので、逃げたのさ。今度はこちらが恐ろしくなった。2人は毒流しはしない。毒流しの鰻を食べて体にあたらぬか。教師が毒流しだと知らなかったか、何だか心配である。この人々の話を総合すると、どうも毒流しである。食べた7人の腹は未だ変調はない。そこで、現場にもう一度行って、確かめる必要がある。駐在所もあるので、報告しなければ。若い2人の百姓さんと4人で現場にかけ上った。
鰻を食べた元気もあって、思ったより早く滝の下の鰻のいた場所についた。あの時は目につかなかったスボ鰻(赤ちゃん鰻)や川えびが白くなって死んでいた。確かに毒流しであった事がわかった。
それにしても犯人は誰か、わからない。結論はこうである。誰かが毒流しをした時に、私達2人が来た事に気付いて、いち早く逃げた。それで獲物は私達のものになった。これは駐在所に知らせておくべきだと、申しますので、百姓さんに引受けてもらった。しかし、心配は腹だ。毒がまわって、死ぬような事はなかろうか。教頭さんも下宿に帰らず、2人で宿直することにした。ねむれぬ。
夜が明けるのが遅い。…夜が明けた。日が照った。10時頃であったか、おなじみの巡査さんが、にこりとしながら、先生、おりますかと、挨拶して宿直室に入って来られた。昨日はごちそうでしたげな、…腹はどうもありませんか。ええ、どうもありません。毒流しの方はどうなりますかと、おそるおそる尋ねると、山の中には、よく他所から悪い奴が、やって来て毒流しをしますが、なかなか、つかまりません。今度も、そうですたい。よかよか、先生方は、うまかっただけ、もうけでしたい。あっあっはぁ、…心配せんでよかですばいと、申されましたが、ほんとうに、あと口の悪い事でした。
ついに鹿の角の記念品は、手に入らぬまま、茂木小学校に転任した。
(くまべしげお氏)
茂木北浦名生れ。初代小島中学校など経て記の当時長崎市中央公民館長。37年の教職生活では、茂木・福田など市周辺の学校もくまなくまわられ、地元民や生徒との暖かい交流の話の数々は、ほほえましい。これは干藤小(現在廃校。今の干藤トンネル近くにあった)勤務時代の思い出で、昭和初期の頃の八郎岳と滝の様子を知れて面白い。
画像は、津々谷の滝とその滝壺。増水していた平成19年7月11日撮影。
(昭和43年8月発行 部報「よちよち」No.14掲載)