轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

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轟のある渓谷ヤマメ放流の記録  昭和51年6月

妙にウマが合った青春多感な仲間3人がいた。釣りや山に、そして鉄砲打ちにも明け暮れ、普段はまっとうな恋愛ができないため、酒びたりの毎日だった。
1人は並大抵でない。船酔いするのに男女群島まで行き、毎月の給料は、釣具屋の借金払いに消えた。彼に感化され、海・池・川釣りをすることとなった。
遠征でよく五島に行き、当時はよく釣れ、居酒屋に卸したこともある。池は川原大池が巨大ヘラブナが釣れるということで、注目を浴びていた頃である。釣り大会があって優勝した。

3人が特に力を入れたのは、天然種はもう絶滅したと言われる長崎県内の河川の、渓流魚「ヤマメ」探しである。多良山系のほとんどの川を上流から下流まで探したが、あまり確認できなかった。釣れたのは、台風で壊わされた養殖池から逃げ出したと思われるニジマス。轟の滝下流では、ときたま大ニジマスが釣れ、結構楽しんだ。佐賀県鹿島側に行くと、ヤマメの小さいのは釣れた。

そこで一念発起。ヤマメの生息環境となる水温・水量と、人が入渓しないということで、北高高来町(現諫早市)境川、轟渓谷のある谷を選定し、自分たちの手でヤマメの稚魚を放流することとした。当時、島原市が4年前からヤマメ養殖を試験事業として行なっており、昭和51年6月11日、稚魚5kg(1,200尾位)を同市から購入してこの谷に放流し、生育を試してみることとした。
当時の放流の様子を伝えた読売新聞の記事は上記のとおりで、島原市役所近藤氏が長崎県生物学会誌No.13(1977)にも報告を書かれている。

その2年後も、佐賀県鹿島の養殖場から同量ぐらいの稚魚を購入して放流した。世代交代が進み、見事にこの谷に定着。渕に潜って観察すると、潜水艦のような魚影が数多く悠々と泳いでいた。昭和56年3月15日、この谷で最大となる体長34cm,320gのヤマメが釣れ、魚拓をとっている。

ヤマメは九州山地宮崎などへ出掛けても、そうやすやすと釣れるものでない。帰りにこの谷に寄って、ウサばらしをした。かえって長崎県内のこの谷が釣れるのである。7〜8年間は、私たちだけの隠れた釣り場となって、渓流釣りを楽しんだ。
やがてどうして知られたのか、福岡などの釣り人の姿を見るようになり、魚はこの谷から完全に絶えた。私たちの足も、自然とこの谷から遠のいていった。

最近、新聞・テレビに地元境川管理組合の「釣り名人」が登場し、いろいろ語っておられる。その方も知らないと思われる境川の、まだ奥の谷のまだ昔のこととなる。
6月の時期、下流の香田水産あたりは、蛍が川面から湧くように発生し、一大群舞する。テレビでこの間、ここを「蛍の名所」と中継していたが、その光景は前から見て知っていた 香田水産からはニジマスの小さいのを買い、轟の滝上流の普通の人は行けないある滝つぼに放し、半年ほどしてソーセージを餌に釣ったこともある。いずれも、もう30年くらい前の話である。