九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

養母の田の神  日置市東市来町養母 ( 鹿児島県 )

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養母の田の神  日置市東市来町養母

現地説明板は、次のとおり。県道305号東市来町元養母バス停手前に案内標識があり、北側の旧道へ入る。庚申田の神の右脇にも、小さな田の神があった。

養母の田の神
この田の神は、昭和43年3月29日、有形系民俗文化財として、県の指定を受けている。
像だけの高さ92センチ、灰白色の粗い凝灰岩で作られている。頻はつぶれているが、眉の少しつり上がった分怒相、あごひげも見られる。冠に長い瓔を垂れ、長い袖のひだが、地に着く程で、背後にも裾が長く垂れ、両手で胸の前で、笏を持っている。袴の背面に
奉造立田之神一躰
左側面に、
明和六己丑十二月吉日(1769)
庚申講人数相中
と、刻んであり、庚申供養のために作られている。庚申供養のための田の神は県下に20数基あり、萩集落の元文四年(1739)のものが最古であるが、破損がひどい。
日置市教育委員会

長里の石敢當2  日置市東市来町長里 ( 鹿児島県 )

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長里の石敢當2  日置市東市来町長里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。市指定文化財の「長里の石敢當」(養母の石敢當)は、国道3号沿い杉ノ迫の角(長里1569番地)にあるようだが、これは遺産サイトで画像はすでにある。

長里の石敢當 ながさと
日置市 石敢當(道標兼) 高164㎝,幅35㎝,厚22㎝ 安永3(1774) 市有形民俗 日本の石敢當p149/現地解説板 原位置? (正面上部)「石敢當」、(同下部中央)「右 ゆのもととをり」=道標を兼ねた石敢當は稀/建立:杉之迫郷中/全国で2番目に高い石敢當 1 B

私が見たのは、同じ長里でも県道305号東市来中前交差点から北へ入った市道奥にある石敢當。次の養母萩へ行くため、道を間違えて湯之元からここを通っていて見かけた。
小さな川脇の民家入口前にあり、高100cm、幅25cm、厚15cmほど。年代の刻みはなかったが、一応、ここも東市来中前交差点に出た長里だったので、「長里の石敢當2」として記しておく。所在図参照。

蘭牟田の石敢當  薩摩川内市蘭牟田麓西 ( 鹿児島県 )

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蘭牟田の石敢當  薩摩川内市蘭牟田麓西

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。「蘭牟田の石敢當」は市指定文化財。県道42号蘭無田温泉先から蘭牟田池の方へ向かう。水車のある竜仙館前や蘭牟田小学校を過ぎ、蘭牟田池入口からそのまま市道を少し進むと、麓西の民家入口の石垣上にこの石敢當が立つ。

蘭牟田の石敢當 いむた
薩摩川内市 石敢當 高110㎝,幅18㎝,厚12㎝ 宝暦4(1754) 日本の石敢當p147 (正面)「石敢當」 C

薩摩川内市文化財一覧表では、次のとおり。

81 祁答院 市指定 民俗文化財 有形民俗文化財 藺牟田麓西の石敢当(いむたふもとにしのせっかんとう) 祁答院町藺牟田 平成15年3月1日

さて、次の「上川内の石敢當」。薩摩川内市文化財担当でも、上川内では所在は知らないと言う。肥薩おれんじ鉄道上川内駅から北西部が「上川内町」で、御陵下町から京セラ後ろ側を行く薩摩街道を、高城町妹背橋まで辿ったが、商人町があった地元でも、まったく手がかりとなる話が聞けなかった。

上川内の石敢當 かみせんだい
薩摩川内市 石敢當 高140㎝,幅32㎝,厚15㎝ 安永7(1778) 日本の石敢當p150 石垣に埋もれている/中央部で折損→C補修 (正面)「石敢當」 4 C

出典は日本の石敢當P150。私の見落としがあるかも知れないが、この頁に載っていたのは、国道267号田海町交差点から南へまっすぐな白浜橋を渡った先の白浜公民館前にある「白浜の石敢當」を念のため訪ねた。
「白浜の石敢當」の写真は 7枚目以下のとおり。高45cm、幅16cm、厚11cmほど。安政6年の銘で、これではなかったため、「上川内の石敢當」の調査は保留とした。

境 橋  出水市境町 ( 鹿児島県 )

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境 橋  出水市境町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。国道3号の水俣市・出水市境に現在の境川橋があり、水俣側橋脇から東南へ境川の肥薩おれんじ鉄道鉄橋下まで行くと、上流の薩摩街道に境橋が架かる。

№1,453 境 橋

出水市境町-水俣市大字袋字神川
境川
橋長:13.5m  橋幅:4.9m  径間:11.3m  拱矢:3.4m
架設:明治16年(1883)
国道3号線、水俣市・出水市境から120m南を左折、200m先JRの高架下に薩摩街道の標柱がありますので、線路に沿って北東へ130mの境川に架かっています。
(境橋の北詰の道路は、境川右岸沿いに国道3号線へ出ます)

史跡 境橋
「野間の関を通ってこの境川を越えると、肥後の国になります。
薩摩藩主の参勤交代の主要道路でしたが、藩境であるため、防衛の必要から橋はありませんでした。
この橋は、明治十六年(1883)肥後の石工によって建造されました。
アーチ型一連の石橋です。
鉄道や国道三号の開通までは肥薩交流の接点として、多くの人々が往来したことでしょう。
今、静かに時の流れの中にあります。」
出水市教育委員会 平成十七年二日

日本一のお地蔵様  出水市麓町 ( 鹿児島県 )

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日本一のお地蔵様  出水市麓町

出水市HPの「観光地紹介」による説明は、次のとおり。出水市麓町の八坂神社境内にある。

■ 日本一のお地蔵様

日本一のお地蔵様 大正14年、真言宗の僧侶斑目仏師によって建立された地蔵尊です。一刀彫りでは”日本一”。台座まで含めると高さ4.15mあります。交通安全、無病息災、子育てや延命などの御利益があるとされています。出水市麓町の八坂神社境内にあります。

出水麓武家屋敷群  出水市麓町ほか ( 鹿児島県 )

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出水麓武家屋敷群  出水市麓町ほか

出水市HPの「歴史探訪」による説明は、次のとおり。出水麓武家屋敷群マップは、次を参照。
http://www.city.izumi.kagoshima.jp/izumi05/02rekisi/01bukeyashiki_02.asp
写真は、武宮邸・竹添邸・税所邸(以上は一般公開)、出水小学校御仮屋門、宮部邸の順。

武家屋敷(出水麓伝統的建造物群保存地区)

いにしえの鼓動が聞こえる。歴史に文化に、時をこえた浪漫はあの時代を見事なまでに残し今に、伝える。日本有数の武家屋敷群へようこそ

出水市の麓町を中心とした住宅地一帯は、平成7年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところです。その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかりました。出水麓は、薩摩藩内で最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれています。

出水は、肥後(現在の熊本県)と薩摩の国境の町として、藩の防衛上重要な町であることと、一国一城制度下の薩摩藩の外城制度(島津氏による、藩体制強化のための政治制度)により、出水には数多くの薩摩藩士を郷士として住み着かせ、藩境の防衛の任に当たらせました。武家屋敷とそのまち並みは、当時からの薩摩藩士の気風を今に伝えるかのように、整然とした趣と閑静な佇まいを感じさせます。

国の重要伝統的建造物保存地区に選ばれたこの地区は、面積約44ヘクタールの広さを有し、県指定文化財である、出水御仮屋門をはじめ、武家門・石垣・生垣や竹添屋敷など4軒の建築物があるほか、伝統的建造物として特定された建造物などがほぼ昔の姿で残っており、当時の面影を今に伝えています。

六十間土手  出水市住吉町・今釜町 ( 鹿児島県 )

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六十間土手  出水市住吉町・今釜町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。国道3号米ノ津小学校近くから海岸道路沿いの老人ホーム鶴寿園正門まで行くと、松原となった六十間土手と水路の犬童川が確認できる。
出水市の付随情報では、「六十間土手は、本市の今釜干拓(名古浦から福之江港)まで約2キロの干拓工事の内最後の潮止工事の場所(約100m)のことをいいます。地元ではこの干拓地の堤防すべてを含めて六十間土手と親しみを込め呼んでいる」そうである。

六十間土手 ろくじゅっけん
出水市 土堤防 長100m 元禄16(1703) 市史跡 市教委 大規模な修復/C化 海水の浸入を防ぐため八代海と今釜新田の間に築かれた堤防 3 C

五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津 ( 鹿児島県 )

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五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。トンネル群は、国道447号から一本松大橋を渡り、水之頭バス停から用水路跡に沿い取入れ口まで向かうと随所に見られる。
平良川底水道は、国道328号西之口交差点から出水市青年の家への市道に入り、武本小原下まで行くと、平良川の橋脇に史跡説明板がある。
最後の「五万国溝」資料は、出水市教育委員会「出水の文化財」平成14年再改定出版の117〜118頁から。

五万石溝 ごまんこく、みぞ
出水市 (出水麓伝建地区内) 用水路(石積) 長約20㎞→長50m(現存部) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→ほとんどが埋立てられて道路化/展示保存 施主:薩摩藩4代藩主・島津吉貴/米ノ津川上流の下平野に井堰を築いて取水し、水の頭・折尾野・城山等の山麓を迂回して大野原を横切り、洗切海岸(福之江)に至る用水路

五万石溝のトンネル群 ごまんこく
出水市 <五万石溝> 素掘トンネル(水路) 23ヶ所(総延長878m) 享保19(1734) 市史跡 出水の史跡と文化財p117-18/WEB(みさき道人) 昭和52使用停止/23ヶ所掘られたトンネルの幾つかが可視状態で残っている 写真は、延長は短いが中に入ることのできるもの/個々のトンネルの現状は名称を含め把握されていない 2-4 B

五万石溝の底水道 ごまんこく、みぞそこ
出水市 平良川/<五万石溝> 川底トンネル(水路) 長1.0m,幅1.0m(3連) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→東側のみ遺構が残る 五万石溝に造られた2ヶ所の底水道(川底を横断する水路)の1つ/石梁に完成年が刻字 3 B

五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津 ( 鹿児島県 )

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五万石溝とトンネル群・底水道  出水市大川内〜出水〜米ノ津

サイト「近世以前の土木・産業遺産」熊本県リストによるデータは、次のとおり。トンネル群は、国道447号から一本松大橋を渡り、水之頭バス停から用水路跡に沿い取入れ口まで向かうと随所に見られる。
平良川底水道は、国道328号西之口交差点から出水市青年の家への市道に入り、武本小原下まで行くと、平良川の橋脇に史跡説明板がある。
最後の「五万国溝」資料は、出水市教育委員会「出水の文化財」平成14年再改定出版の117〜118頁から。

五万石溝 ごまんこく、みぞ
出水市 (出水麓伝建地区内) 用水路(石積) 長約20㎞→長50m(現存部) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→ほとんどが埋立てられて道路化/展示保存 施主:薩摩藩4代藩主・島津吉貴/米ノ津川上流の下平野に井堰を築いて取水し、水の頭・折尾野・城山等の山麓を迂回して大野原を横切り、洗切海岸(福之江)に至る用水路

五万石溝のトンネル群 ごまんこく
出水市 <五万石溝> 素掘トンネル(水路) 23ヶ所(総延長878m) 享保19(1734) 市史跡 出水の史跡と文化財p117-18/WEB(みさき道人) 昭和52使用停止/23ヶ所掘られたトンネルの幾つかが可視状態で残っている 写真は、延長は短いが中に入ることのできるもの/個々のトンネルの現状は名称を含め把握されていない 2-4 B

五万石溝の底水道 ごまんこく、みぞそこ
出水市 平良川/<五万石溝> 川底トンネル(水路) 長1.0m,幅1.0m(3連) 享保19(1734) 市史跡 市教委/現地解説板 昭和52使用停止→東側のみ遺構が残る 五万石溝に造られた2ヶ所の底水道(川底を横断する水路)の1つ/石梁に完成年が刻字 3 B

御伊勢ドンの灯籠  南九州市知覧町打出口 ( 鹿児島県 )

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御伊勢ドンの灯籠  南九州市知覧町打出口

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
私は知覧町で訪問先を間違っていた。打出口集落にある現地写真は後日、宮崎市贄田様に撮影をお願いし送ってもらったものである。

御伊勢ドンの灯籠 おいせ
南九州市 打出口 石常夜灯 高1.24m 文政5(1822) 市教委(文化財ガイド・知覧p120) 移設・展示 伊勢信仰→集落に小さな御伊勢様を勧請した/角柱状の竿石上部に正方形の開口部 2 C

御伊勢ドンの灯籠 (現地説明板)
文政5年(1822)に建立された石灯籠です。地元の伝承では、伊勢神宮に参詣したのを記念して建てたのだとされています。御伊勢様を信仰する余り、集落に小さな御伊勢様を勧請して建てたのでしょう。この辺りの地名を「おいせどん東」と言います。御伊勢ドンとはもちろん現在の三重県伊勢市にある伊勢神宮のことです。元々は国家祭祀の場でしたから、平安時代などは極限られた宮中の人々の信仰対象でした。時代が鎌倉・室町と下ってくると、その信仰が武士の間にも広がり、江戸時代には庶民へも広がって行きました。人々は伊勢神宮に参詣するために講を作り、少しずつお金を積み立てて、代表者を参詣に送り出しました。
知覧でも伊勢信仰は盛んだったようで、上郡、桜の元にも伊勢神社があります。また海岸部の南別府竹迫には御伊勢講に使われた、御神体・小祠(しょうし)・太鼓などが残されています。