九州(鹿児島県)」カテゴリーアーカイブ

白銀坂の石畳  鹿児島市宮之浦町 ( 鹿児島県 )

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白銀坂の石畳  鹿児島市宮之浦町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。これは主に鹿児島市側の状況。鹿児島市の北部、九州自動車道薩摩吉田IC入口の県道16号に、牟礼岡団地を通り「島津ゴルフクラブ」まで行く案内標識により進む。
練習場手前ゴルフ場門のような中に少し入ると、右下に白銀坂へ下る道がある。私はここから姶良市との境界と思われる少し先の急坂(紅葉箇所まで行って往復)まで歩いたが、古い石畳部分がどこかはわからなかった。

白銀坂の石畳 しらかね
鹿児島市・姶良市 (旧・宮之浦町)<大口筋(薩摩街道)> 石畳道(安山岩) 約4㎞→約2.7㎞ (古い石畳部分は延長1㎞以上,幅2m) 18世紀前半? 国史跡 姶良町教育委員会/WEB 平成8-15の8年をかけて、埋没していた石畳をほぼ昔通りに復元 戦国時代(1550代)の開設→戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている/石畳化の時期は不明だが、同じ大口筋にある鹿児島城下より遠い「龍門司坂」が元文6(1741)に石畳になっているので、それと同時期の施工と推測される/高低差は300m以上あり、中腹の「七曲り」といわれる急勾配の箇所に石畳が敷かれている/上記「龍門司坂の石畳」に比べると、硬い安山岩の地山の転石を粗加工して使用したため、ごく標準的な石畳道となっている 2 A

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。次の姶良市資料も参照。
https://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/gyosei/shisetsu/bunka/documents/sirakanezaka.pdf#search=’%E7%99%BD%E9%8A%80%E5%9D%82′ 白銀坂(しらかねざか)は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡(宮之浦町)まで伸びる石畳の坂道である。2006年7月28日に加治木町の龍門司坂とともに日本国の史跡に指定された。

坂の歴史
坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は
300m以上あり、中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である。

明治時代
明治6年(1873年)には現在の国道10号の基礎となる重富村(姶良町重富)から竜ヶ水地区経由で鹿児島市へ至る鹿児島湾(錦江湾)沿いのルートが開通し、さらに明治34年(1901年)、鹿児島駅 – 国分駅(現:隼人駅)間の鉄道開通によって白銀坂はその幹線としての人々の利用も少なくなり次第に忘れ去られ、長年の風水害により石畳も大変傷んでいた。

歴史国道選定へ
姶良町教育委員会は、歴史的に貴重なこの坂を保存しながら、歴史を追体験できる場所として活用できるようにと「歴史の道整備活用推進事業」を実施し、建設省(現:国土交通省)から平成7年(1995年)歴史上重要な幹線道路として利用された街道の中で、特に重要な歴史的・文化的価値をもつ道路として「歴史国道」に選定された。

その他
坂の途中には2箇所の展望台があり、標高約250m付近の第2展望台からは桜島や鹿児島湾を望める素晴らしい風景が見られる。

白銀坂の石畳  姶良市脇元 ( 鹿児島県 )

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白銀坂の石畳  姶良市脇元

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。これは姶良市側の一部の状況。国道10号の重富郵便局前交差点角に専用駐車場があり、国道沿いの遊歩道を鹿児島市側へ行くと、白銀坂登山口がある。私はここから白銀坂を少し歩き、愛宕神社の方へ下った。
古い石畳部分は、遺産リストにすでに画像あり、そこがどこかまでは確認に登っていない。

白銀坂の石畳 しらかね
姶良市・鹿児島市 <大口筋(薩摩街道)> 石畳道(安山岩) 約4㎞→約2.7㎞ (古い石畳部分は延長1㎞以上,幅2m) 18世紀前半? 国史跡 姶良町教委/WEB 平成8-15の8年をかけて、埋没していた石畳をほぼ昔通りに復元 戦国時代(1550代)の開設→戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている/石畳化の時期は不明だが、同じ大口筋にある鹿児島城下より遠い「龍門司坂」が元文6(1741)に石畳になっているので、それと同時期の施工と推測される/高低差は300m以上あり、中腹の「七曲り」といわれる急勾配の箇所に石畳が敷かれている/上記「龍門司坂の石畳」に比べると、硬い安山岩の地山の転石を粗加工して使用したため、ごく標準的な石畳道となっている 2 A

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。次の姶良市資料も参照。
https://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/gyosei/shisetsu/bunka/documents/sirakanezaka.pdf#search=’%E7%99%BD%E9%8A%80%E5%9D%82′ 白銀坂(しらかねざか)は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡(宮之浦町)まで伸びる石畳の坂道である。2006年7月28日に加治木町の龍門司坂とともに日本国の史跡に指定された。

坂の歴史
坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は
300m以上あり、中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である。

明治時代
明治6年(1873年)には現在の国道10号の基礎となる重富村(姶良町重富)から竜ヶ水地区経由で鹿児島市へ至る鹿児島湾(錦江湾)沿いのルートが開通し、さらに明治34年(1901年)、鹿児島駅 – 国分駅(現:隼人駅)間の鉄道開通によって白銀坂はその幹線としての人々の利用も少なくなり次第に忘れ去られ、長年の風水害により石畳も大変傷んでいた。

歴史国道選定へ
姶良町教育委員会は、歴史的に貴重なこの坂を保存しながら、歴史を追体験できる場所として活用できるようにと「歴史の道整備活用推進事業」を実施し、建設省(現:国土交通省)から平成7年(1995年)歴史上重要な幹線道路として利用された街道の中で、特に重要な歴史的・文化的価値をもつ道路として「歴史国道」に選定された。

その他
坂の途中には2箇所の展望台があり、標高約250m付近の第2展望台からは桜島や鹿児島湾を望める素晴らしい風景が見られる。

星ヶ山(ほしがやま)橋  姶良市下名 三反田 ( 鹿児島県 )

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星ヶ山(ほしがやま)橋  姶良市下名 三反田

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道40号姶良市下名の現橋の上流側に架かる。姶良市立山田小中学校が近くに見える。

№470  星ヶ山(ほしがやま)橋

姶良市下名 三反田
樋ヶ宇都川
橋長:5.9m  橋幅:4.5m  径間:5.4m  拱矢:2.2m
架橋:大正15年
国道10号線、加治木町みろく交差点から県道42号線へ約3.5Km西進、山田を右折、2.8Km先山田小学校を左手に見て県道40号線へぶつかります。そこから左折、400m右手に架かっています。

県道42号線、現橋と平行に架かっています。上流側から 向こうに見えるのは山田小中学校です。

中津野用水路  姶良市下名 ( 鹿児島県 )

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中津野用水路  姶良市下名

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市の北部、県道42号山田口から県道391号に入り、姶良市立山田小中学校の校庭前まで行く。水路に沿い右手吉田川へ出ると中津野用水路の取水口と顕彰碑がある。
用水路には9つの隧道がある。取水口から下流側に主なものを辿ってみた。

中津野用水路 なかつの
姶良市 山田川 用水路、隧道(9ヶ所) 長約4㎞ 宝暦2(1752) WEB(みさき道人)/WEB C改修/隧道部は当時のまま 地形上、水が得られず貧しかった中津野に住む15歳のユキエが、山田川対岸の女生嶽から見て、山田から水路を造ると中津野に引水できることに気付き大人に提案して工事が始まった。農繁期になると協力者が減り、ユキエが1人で工事を続行したが、1人で努力する姿を見て再び協力が始まり宝暦2に竣工。ユキエは、その利発さを怖れられ山中で殺害されたとされる。ユキエの家族は、この功績により水口の姓を与えられ、水守となった→国内で他に例のない美談と悲話 1-4 B

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

中津野用水路

中津野用水路(なかつのようすいろ)は、鹿児島県姶良市で別府川の支流山田川から取水して山田、中津野地区を灌漑(かんがい)している、全長約4kmの用水路である。山田の山下井堰から取水され、9つのトンネルを通り山田の32ヘクタール、中津野の34ヘクタールに水を供給している。

歴史
姶良町の中津野地区(当時は帖佐郷)は、別府川の支流山田川と蒲生川が合流する地点で、地区の両側を川が流れていたが、川より高い位置に土地があるために水を引くことができず、水田がなく稲作は陸稲で、他は畑作農業であった。このために貧しく、中津野というだけで嫁が来ないというほどであったという。

中津野に生まれた水口ゆきえ(女性、当初は苗字なし、当時15歳)は、山田川対岸の女生嶽(にょしゅだけ、
128.8m)の上から見て、山田から水路を造ると中津野に水を引ける事に気付き、熱心に村の大人に提案して工事が始まることになった。しかし農繁期になると次々に協力者が抜けて、最後にはゆきえが1人で工事を続行した。完成が近づくと再び協力が始まり、1752年(宝暦2年)についに完成し、中津野に水田を作ることができるようになった。

しかし、これほど利発な娘は将来何をしでかすか分からないと恐れられ、権力者側により山の中で殺害された。同年12月、有志により水口邸の一角に祠が作られて祀られ、これは現存している。法名は「正孝坂童子位」で、「正しく孝行の子、土地の勾配を見出した」という意味であるが、本来は男子の法名である。

水口家は、この工事の功績により水口の姓を与えられ、代々水守の仕事をしてきた。
1951年(昭和26年)4月15日、水路の取水口に彼女の功績を顕彰する碑が立てられ、1974年(昭和49年)5月に墓が姶良町の文化財に指定され、今なお地元住民から称えられている。

参考文献
・高橋ちえこ「ゆきえ」高城書房 ISBN4-924752-72-X 1998年
・姶良町郷土誌改定編さん委員会「姶良町郷土誌」平成7年10月増補改訂版 1995年

片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松 ( 鹿児島県 )

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片子嶽隧道・跡、片子嶽隧道修理の碑、上溝・跡  姶良市平松

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。姶良市重富から県道57号に入り、平松交差点まで行く。片子岳は標高144mの特異な形の山(写真1〜2の水路は、別水系の山下用水)。片子嶽隧道・片子嶽隧道修理の碑・上溝は、姶良市資料「新田開発と水路」のとおり、片子岳の東南にあったが、荒れた山中となって地元重久氏の案内でやっと辿りついた。
上溝は廃路となり、戦時中、集落に近い隧道を防空壕代りにしたと言うから、だいぶん以前の話である。場所的には、姶良市平松のコンクリート製品「インフラテック(株)姶良工場」(帰りにここに出て構内を通らせてもらった)背後の山中中腹となるが、水が流れない隧道跡(山を貫く長い隧道の吐口跡は、写真4〜6)、隧道修理の碑(写真7〜9)、平松側の上溝水路跡(写真10〜12)を確認できた。隧道修理の碑は風化し判読不能。脇にも小さな碑があったが、台座だけが残ってどうなったかわからないらしい。
中溝は姶良市資料から市街地となった俵原あたりと思われるが、FAX資料が不鮮明。場所を特定できす、時間がなく訪ねなかった。

片子嶽隧道・跡 へんこだけ
姶良市 上溝 素掘トンネル(水路) 長200m以上 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は吐口 下記の「片子嶽隧道修理の碑」で、トンネルが200m以上にわたり崩れたとあるので、全長はそれ以上 2 C

片子嶽隧道修理の碑 へんこだけ
姶良市 片子嶽隧道 石碑 享保11(1726) 姶良町教委 (正面)「夫隅州姶羅郡帖佐 平松村及餅田村新田往昔辺河嶽穿為用水溝 其貫中有/土岩凡百□□三間 上石時々隧而水没 故以材木其危年々停財用人夫之隙/勝難計且究意之□若有破損者田民患不少 今亦新貫掘者其□□山如仰費□/而永令□輙□□日合議之末□加治木石工竹内藤左衛門尉呼談日貫左右石/塁以割石成 天井者六尺五寸一尺二寸角 加治木自蔵王嶽取之万代不易而/有何煩則為之入用看算而以許之上応如響 中江氏藤原員倫奉之今歳丙午仲/夏吉辰工発既至今日 速成就之以国民令快楽云耳 是則吾邦君分内石貫之/始成」/享保11、トンネルが200m以上にわたって崩れたので、中江員倫が工事奉行として、長1.9m(36㎝角)の石材を用いて修復した際の記念碑 1 C

上溝・跡 うわみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 文禄2(1593) 市教委 非現役/写真は平松付近 島津氏による富国強兵の根幹としての水田化のための疎水開削 2 B

中溝 なかみぞ
姶良市 恩川→別府川 用水路 長11㎞ 寛文4(1664) 市教委 C改修 薩摩藩第2代藩主・島津光久/重富・帖佐方面の灌漑用 3 C

掛橋坂の石畳  姶良市蒲生町・北〜西浦 ( 鹿児島県 )

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掛橋坂の石畳  姶良市蒲生町・北〜西浦

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道42号により蒲生の大クスまで行き、薩摩川内市方面へさらに進む。県道211号の分岐を過ぎると、北橋の先に蒲生町城下の標識があり、しばらく行った右斜めに入る道がある。
この道を登って行くと、掛橋坂駐車場が新設工事中であり、やがて車道終点に着く。掛橋坂の標柱がある山道へ入ると、勾配を増した石畳と石段の道となり、西浦の峠まで続く。峠手前、壁面に残る当時のノミ穴がどれかわからなかった。

掛橋坂の石畳 かけはし
姶良市 蒲生町・北〜西浦 石畳・石段 長337m 寛政8(1796)以前 市史跡 市教委 保存状態良好 切石を敷き詰めた石畳と、地山の石を削った石段とからなる/年貢米を運ぶのに使われた 1 B

姶良市HPの観光・体験施設による説明は、次のとおり。

掛 橋 坂

掛橋坂は、蒲生町北と西浦を結ぶ峠に見つかった石畳道。現在の県道川内・加治木線が明治時代に開通する前の旧道で、江戸時代には藺牟田・祁答院方面と蒲生を結ぶ地方街道として利用されていたと考えられます。
掛橋坂が開通した時期ははっきりしませんが、道筋には寛政8年(1796)の庚申供養碑や明和9年(1772)の馬頭観音碑があることから、遅くともこの頃までには石畳道が完成していたと考えられます。また、石畳や石段の造り方が、大口筋白銀坂・龍門司坂(国史跡)に共通していることも、この道が江戸時代に整備された街道であることを示しています。
所在地 姶良市蒲生町北1006

高井田用水・取水口  姶良市加治木町高井田 ( 鹿児島県 )

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高井田用水・取水口  姶良市加治木町高井田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道55号の九州自動車道加治木IC入口付近から龍門滝への市道に入る。龍門司坂入口を過ぎ、龍門滝の滝上展望台まで行く。滝上への遊歩道をベンチ広場まで下ると、滝の右岸に鉄柵の高井田用水・取水口がある。
吐口は龍門司坂入口に戻り、ここの駐車場から龍門滝下への新遊歩道が整備されているので、この終点まで行くと、水管となった吐口が確認できた。新遊歩道の山手側溝蓋が用水路で、龍門司坂入口まで下る。
ここから高井田集落内の市道沿いと田の中に、大小2つの用水の流れがあった。

高井田用水・取水口 たかいだ
姶良市 用水路 江戸初期? 加治木町教委 建造年は不明だが、獺貫の切通しと発想・工法がほぼ同じであるから、同時代と考えられる

獺貫の切通しのトンネル  姶良市加治木町木田 ( 鹿児島県 )

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獺貫の切通しのトンネル  姶良市加治木町木田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道55号の九州自動車道加治木IC入口付近から龍門滝への市道に入る。滝には行かず、すぐ途中、加治木温泉病院を回り込み九州道下の市道を西へ進み、宇曽木の滝(写真2枚目)からの小橋を渡って川沿い上流に給食センター先まで行く。市水道事務所の所で、車は行き止まりとなるので畑道を上がり、九州電力宇曽木発電所まで行く。
池田助右衛門が掘り抜いたトンネルというのは、私の撮影写真では中段の黄囲線の吐口。取水口にごみが溜まった場合しか、九電水路は流水を止めないらしいから、かすかな穴部分しか撮影できなかった。呑口は宇曽木の滝上か、その上流からと思われる。国土地理院地形図の青点線部分を参照。
最後の写真が、トンネル下から続く木田地区の用水路。

獺貫の切通しのトンネル うそぬき
姶良市 獺貫の切通し(天然の地形) 素掘トンネル (水路) 長218m 寛文3(1663) 加治木町教委/WEB(みさき道人) 現役/宇曽木発電所の放流水路(人工の滝)で隠れて見えない 木田地区に水を引くため、池田助右衛門がカナヅチとノミで、4年がかりで切通しの中を掘り抜いたトンネル 4 C

楽天ブログ「青春18切符で九州一周ひとり旅日記12 鹿児島県姶良市 網掛川流域 (8)」にトンネル穴のはっきりした写真がある。  http://plaza.rakuten.co.jp/himekyon2/diary/201401190000/

獺貫(うそぬき)の切通し の九州電力水力発電所

この近辺は、川底が低くて田んぼに水が引けず、荒れた田んぼだったのを350年ほど前に池田助右衛門という人がひとりで、4年がかりでトンネルを掘り、上流から水を引いたことにより、水田開発ができるようになったそうです。
下のほうに見えるのがトンネル、今は九州電力が発電所として利用しているそうです。トンネルから流れ出た水を用水へ。遠く見えるのは五老岳、Sさんの家は山の麓にありますが、その先まで続いているそうです。右側の用水路が続きます。夏には蛍が飛び交う清流です。

松永用水路  霧島市隼人町松永ほか ( 鹿児島県 )

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松永用水路  霧島市隼人町松永ほか

霧島市隼人町松永字平熊の市指定文化財「平熊の石橋及び石洗越附石洗越の碑・水神碑」は前記事とした。松永用水路に架かる石橋で、この歴史ある松永用水路も調べる必要を感じ、県道475号松永交差点付近の中流から取水口の上流まで松永用水路を辿ってみた。詳しい説明はできないが、現況は写真のとおり。
HP上では、「松永氏のルーツ – nifty」鹿児島県隼人町に、次の記録があった。
http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub09-11.html

隼人町                   

① 1432年「松永上津家」形3段6疋、「松永大神家」3反6疋、「武安家」形3反6疋
※上津・下津=上納米を保管する場所
・松永の中で集落が三分し、神社の三ケ所設置されいる様子を示す
※一反(段)は360歩、坪で991.7平方メートル

②「鶴ヶ城」松永氏の城跡は無し
・所在地:現在の医療センターの裏山付近

③「松永用水路」(上溝、下溝)姶良郡隼人町から国分市にまたがる灌漑用水路
・霧島川の左岸松永小鹿野麻草坂下から用水を取り入れた水量豊富な用水路。
・隼人町松永→隼人町姫城→日当山の一部→新町→向花→府中→野口→松木→福島→広瀬を国分市の
田地に灌漑して海にそそぐ。
・1662年 島津氏の時代になって用水路として延長、改修工事が行われた。   
・1761年 松永竹山打ち出しの水神碑に宝暦11年(1761)の刻印
・1777年 改造の碑銘がある  
・1862年 松永津曲落し口の水神碑に1809年の刻字と用水排名も刻まれている
・隼人町の松永氏(源太左衛門)の中屋敷あり

④「松永米作り踊り」昔の苦労は大変なものでしたので昔ながらの米作りの過程を後世に残すため
・「御供田」は小鹿野と豊後田(花山〜竹山)で いずれもいずれも霧島川の上流、隼人松永地区であるここには「田の神」が現存する

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストのデータに、次のとおり登載された。

松永用水路 まつなが
霧島市 霧島川・左岸 用水路 長約12㎞ 寛文2(1662) WEB(みさき道人) C改修 4 B

平熊の石洗越・平熊の石洗越の碑  霧島市隼人町松永平熊 ( 鹿児島県 )

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平熊の石洗越・平熊の石洗越の碑  霧島市隼人町松永平熊

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道2号から県道475号へ、霧島川沿いを遡り1.9km先、松永漁協のところ(通称小鹿野岐れ)に案内標識があり右折、50m先左手の用水路に架かっている。

平熊の石洗越 ひらくま
霧島市 竹山川/松永用水路 石アーチ橋(水路、防災、凝灰岩),石段差工 石アーチ橋:長13.3m,S3.5m(A),幅7.5m 段差工:高2.1m 安永6(1777)以前 市有形 WEB(石橋)/WEB(みさき道人)/本田泰寛 保存状態良好/石アーチ橋と段差工(「落とし」)の間に近代の道路橋が架かり、全体構造が分かりにくいのが残念 松永用水に直接流れ込んでいた竹山川が、大雨の時には溢れて用水路を決壊させるので、竹山川専用の石橋を設けて用水路を跨いだ→災害防御用の石アーチ橋は現在判明している限り全国でこの1橋のみ/竹山川は橋の直後に設けられた「落とし」で勾配を一気に下げているが、この階段状の段差工が非常に珍しく美しい/由来を刻んだ「石洗越の碑」(同年)が脇に建つ 2 A

平熊の石洗越の碑 ひらくま
霧島市 平熊の石洗越 石碑(自然石) 安永6(1777) 市有形 WEB(みさき道人) 原位置 (正面)「安永六年/石洗越一口/丁酉二月改造」 1 C

霧島市HPの文化財による説明は、次のとおり。

9.平熊の石橋及び石洗越附(つけたり)石洗越の碑・水神碑

平熊の石橋は、松永用水路上に架かる石橋です。人の渡る石橋というよりは、山から流れ出す谷川水を越させるための石橋といえます。
石橋の上には石畳が敷かれ、谷川水はこれを越えて2mほどの落差の落としで排水されています。地元の人たちは、松永用水に直接流れ込んでいた谷川水が、大雨の時には溢れて用水路を決壊させるので、用水路を越す形に改造したと伝えています。

石洗越の碑 安永6年(1777) 水神碑 宝暦11年(1761)
平成17年7月6日指定(市指定有形文化財)
所在地:霧島市隼人町松永字平熊

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。

№571  平熊の太鼓橋

隼人町松永平熊
松永用水路
橋長:3.8m  橋幅:3.5m  径間:3.5m
架橋:安永6年(1777)
県道2号線から県道475号線へ、1.9Km先、松永漁協のところ(通称小鹿野岐れ)を右折、50m先左手の用水路に架かっています。

この橋は水路橋です。左から右へ春山川が流れています。右に見えるのは春山川に架かる町道の橋。
右下は小さな滝になっています。以前は稚鮎が水が黒くなるほど群れていたそうで、松永漁業協同組合は稚鮎を四万十川にも出荷しています。
近所の方に詳しく説明して頂きました。
記念碑には「安永六年」と刻んであります。この用水路は国分市まで続いて、田圃を潤しています。