白銀坂の石畳  姶良市脇元 ( 鹿児島県 )

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白銀坂の石畳  姶良市脇元

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。これは姶良市側の一部の状況。国道10号の重富郵便局前交差点角に専用駐車場があり、国道沿いの遊歩道を鹿児島市側へ行くと、白銀坂登山口がある。私はここから白銀坂を少し歩き、愛宕神社の方へ下った。
古い石畳部分は、遺産リストにすでに画像あり、そこがどこかまでは確認に登っていない。

白銀坂の石畳 しらかね
姶良市・鹿児島市 <大口筋(薩摩街道)> 石畳道(安山岩) 約4㎞→約2.7㎞ (古い石畳部分は延長1㎞以上,幅2m) 18世紀前半? 国史跡 姶良町教委/WEB 平成8-15の8年をかけて、埋没していた石畳をほぼ昔通りに復元 戦国時代(1550代)の開設→戦国時代には島津貴久や義弘などの武将たちがこの坂に陣を構えたといわれている/石畳化の時期は不明だが、同じ大口筋にある鹿児島城下より遠い「龍門司坂」が元文6(1741)に石畳になっているので、それと同時期の施工と推測される/高低差は300m以上あり、中腹の「七曲り」といわれる急勾配の箇所に石畳が敷かれている/上記「龍門司坂の石畳」に比べると、硬い安山岩の地山の転石を粗加工して使用したため、ごく標準的な石畳道となっている 2 A

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。次の姶良市資料も参照。
https://www.city.aira.lg.jp/bunkazai/gyosei/shisetsu/bunka/documents/sirakanezaka.pdf#search=’%E7%99%BD%E9%8A%80%E5%9D%82′ 白銀坂(しらかねざか)は、鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡(宮之浦町)まで伸びる石畳の坂道である。2006年7月28日に加治木町の龍門司坂とともに日本国の史跡に指定された。

坂の歴史
坂のある山並みは古代から近世における薩摩国と大隅国の国境であり、戦国時代には島津貴久や島津義弘といった武将たちがこの坂に陣を構えていた。
江戸時代に入ると、白銀坂は鹿児島の主要街道である「大口筋(薩摩街道)」上の難所として、多くの人々に知られるようになった。 坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は
300m以上あり、中腹には「七曲り」といわれる急勾配の箇所もあり、急な坂道部分には石畳が敷くのとは対照的に、尾根上の平坦部分には石段を部分的に設けるのが坂の特徴である。

明治時代
明治6年(1873年)には現在の国道10号の基礎となる重富村(姶良町重富)から竜ヶ水地区経由で鹿児島市へ至る鹿児島湾(錦江湾)沿いのルートが開通し、さらに明治34年(1901年)、鹿児島駅 – 国分駅(現:隼人駅)間の鉄道開通によって白銀坂はその幹線としての人々の利用も少なくなり次第に忘れ去られ、長年の風水害により石畳も大変傷んでいた。

歴史国道選定へ
姶良町教育委員会は、歴史的に貴重なこの坂を保存しながら、歴史を追体験できる場所として活用できるようにと「歴史の道整備活用推進事業」を実施し、建設省(現:国土交通省)から平成7年(1995年)歴史上重要な幹線道路として利用された街道の中で、特に重要な歴史的・文化的価値をもつ道路として「歴史国道」に選定された。

その他
坂の途中には2箇所の展望台があり、標高約250m付近の第2展望台からは桜島や鹿児島湾を望める素晴らしい風景が見られる。