投稿者「misakimichi」のアーカイブ

元・山家宿大又の追分石  筑紫野市二日市南一丁目 筑紫野市歴史博物館 ( 福岡県 )

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元・山家宿大又の追分石  筑紫野市二日市南一丁目 筑紫野市歴史博物館

筑紫野市歴史博物館(ふるさと館ちくしの)に展示の追分石。展示説明文は、次のとおり。ほかの写真は、その他の展示品。

追 分 石

(表) 右 肥前  太宰府・長崎  原田   左 肥後  久留米・柳川  松崎
(裏) 改野重五郎  世話人  問屋武作
山家宿の西搆口を300メートルほど下った「大又」(長崎街道と日田街道の交差点)付近に建っていたと思われる追分石です。裏面に刻まれている「問屋武作」は、山家宿の人馬の継立を商いにしていた人です。店の屋号を「御笠屋」といい、この追分石を建てるために力を尽くしました。建設されたのは江戸時代の終わりごろですが、国道200号線の建設(昭和4年)のときに撤去されたようです。その後は農家の納屋の基礎石として使われていましたが、納屋を解体したときに新たに発見されました。
銘文は異体字が用いられていますが、右の翻刻では正字に直しています。

天神山小水城・跡  春日市天神山ほか ( 福岡県 )

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天神山小水城・跡  春日市天神山ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによる説明は、次のとおり。春日市の「天神山小水城・跡」は、あまり紹介がなく場所がわかりにくいが、「大土居小水城・跡」の近く。
県道505号大土居交差点から西の市道へ入り、天神山バス停先の牧うどん角から右折する。天神大神を祀った天神山を周回する車道があり、史跡説明板が3箇所にあった。
大野城市の「上大利小水城・跡」は、すでに載せた。

天神山小水城・跡 てんじんやま、しょうみずき
春日市 天神山1丁目 土塁、自然丘陵 土塁部: 長85m,幅25m 天智3(664)? 国特別史跡 市教委/WEB/現地解説板 自然丘陵部分と、その東に伸びる土塁部分からなる写真は、手前が土塁、遠くの山が自然丘陵部分 水城(太宰府市・大野城市)の西側に位置する小水城/土塁が比較的明瞭に残された小水城/発掘調査により盛土の土留めとしての木の杭を打ち込まれた状況などが確認/水城と同時期の築造と推定されている 2 B

九州国立博物館サイト「西都 太宰府」古代大宰府関連遺跡による説明は、次のとおり。

天神山水城・上大利水城
水城跡の西方約3.8kmの場所にある春日市の天神山水城や水城跡から一番近くにあたる小水城である上大利水城も、大土居水城同様、土塁が比較的明瞭に残された小水城です。
特に、上大利土塁は、昭和54年(1979年)に発掘調査が行われ、土塁下から、盛土の土留めとしての木の杭を打ち込まれた状況などが確認されました。

大土居小水城・跡  春日市昇町 ( 福岡県 )

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大土居小水城・跡  春日市昇町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによる説明は、次のとおり。対馬厳原港から博多港へ渡り、熊本県玉名市まで南下した。以下はその報告。
春日市の「大土居小水城・跡」は、県道505号大土居交差点近く県道沿い左右にある。

大土居小水城・跡 おおどい、しょうみずき
春日市昇町7丁目(土塁) 昇町8丁目(自然丘陵) 土塁、自然丘陵 土塁部: 長75m,幅40m,高8m 天智3(664)? 国特別史跡 市教委/WEB/現地解説板 自然丘陵部分と、その東に伸びる土塁部分からなる/写真は土塁部分 水城(太宰府市・大野城市)の西側に位置する小水城/発掘調査により版築工法の使用が確認/導水の役割を果たす木樋も、取水部で木樋本体、吐水部で木樋下層の石敷遺構が確認がされた/水城と同時期の築造と推定されている 2 B

九州国立博物館サイト「西都 太宰府」古代大宰府関連遺跡による説明は、次のとおり。

大土居おおどい水城
小水城の中で、本格的な発掘調査が行われたのは、春日市昇町の大土居水城です。大土居水城の発掘調査の結果、土塁の推定高は約8m、基底部の推定幅は約40mで、水城大堤と同じく版築により土が積まれていました。
また、導水の役割を果たす木樋の調査も行われ、取水部では長さ約8mにわたって木樋本体が残存することが確認され、吐水部では木樋本体は残存していなかったものの、その下層の石敷遺構が確認され、木樋の規模が土塁と同じく、水城大堤の約1/2であることなども分かりました。

元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里 ( 長崎県 )

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元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原港の東端にあるのが耶良埼(屋良崎)。フェリーターミナル手前からいずはら病院の高台に上がると、病院奥から屋良崎灯台へ下る山道がある。「元・耶良埼の遠見台」とされる石組み(写真4〜7)は、灯台上部の山頂三角点手前にある。

元・耶良埼の遠見台 やらざき
対馬市 厳原港 石望楼(四角錐) 高3.5m,頂辺1.9m,底辺3m 江戸末期? WEB/市教委 耶良埼山頂付近にあったものを移設(復元の程度は良くない)/乗船客しか入れない 「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡」と推定されている/粗加工の石材を布積崩し風に積み上げる 3 C

後ろの写真は、厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏。現在はジェットホイル乗船場内となっている)に移設された旧耶良崎灯明台(写真9〜13)と、厳原市街八幡神社境内にある春日灯籠(写真15〜17)

これら石組み、灯明台などの詳しい推察は、対馬海上保安部HPの次を参照。
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara1/yomo3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」 対馬藩設置の耶良埼灯明台について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara2/yomo4.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その3」 対馬藩設置の灯明台は、寛永年代に設置されたのか?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/kodairoman3/kodairoman3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その4」 耶良埼山頂付近の石組みは、何の跡か?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama6/yomoyama6.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その6」 幻の古絵地図から
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama8/yomoyama8.html

阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原 ( 長崎県 )

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阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原市街から国道382号を厳原中学校まで北上。この一帯が桟原で、現在桟原城(桟原屋形)跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
「阿須川の開削」とは、尾根の鞍部を掘り割って人口の川を通し、桟原屋形の濠となったというから、阿須川のこのあたりの話だろう。川面には降りられなかったので、桟原トンネル手前の橋上から写した。

阿須川の開削 あずがわ
対馬市 阿須川 付替え 万治2(1659) WEB/市教委 一部C護岸 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した 2 B

平成9年発行「厳原町誌」106頁の記録は、次のとおり。

阿 須 川
厳原の北西砥石淵から東に流れ、阿須湾に注ぐ川をいう。これは近世、寛文から延宝の間(およそ320年前)、桟原屋形(府中城)の築城に際し、袖振山から後山に続いていた尾根の鞍部を掘り割って、人口の川を通したもので、上流の知首川と砥石淵川が合流した水勢を、阿須湾に放水したわけである。
これは桟原屋形の濠であることはいうまでもなく、それに府中の水害を解消する機能があった。

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

桟原城

桟原城(さじきはらじょう)または桟原屋形(さじきばるやかた)は、長崎県対馬市厳原町桟原にあった城郭で、対馬府中藩3代藩主宗義真が金石城を拡張整備したのと同時期に新築された藩主の屋形。金石城からは市街をはさんで北東隣に位置する。

概要
万治3年(1660年)3月に着工し、延宝6年(1678年)に完成した。金石城に代わって新しく府城となった。対州府城または府中城とも称した。明治2年(1869年)に対馬府中を厳原と改称してからは厳原城(いずはらじょう)とも呼称する。現在城跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
対馬府中の整備
着工と同時に府中城下町の町割と水利工事が行われている。1663年(寛文3年)には藩営ドックである「お船江」が完成し、1669年(寛文9年)には金石館に櫓門が築かれた。また、1685年(貞享2年)には桟原の南に子弟教育のための学校「小学校」が建てられた。厳原は、現在もこの時期の城下整備による街並みのようすをとどめている。
遺構
遺構としては、第三門であった高麗門が県立対馬歴史民俗資料館付近に復元されている(注 現在は厳原保育園の門柱に再移築されていた。写真13,14)。また、石垣の一部が現存しており、標柱(注 桟原屋形跡 写真2)で案内がなされている。

上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿 ( 長崎県 )

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水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の遺跡大辞典」による説明は、次のとおり。県道24号により美津島町尾崎漁港へ向かう。漁港の先の方、大島の「都々地神社」が対岸となるあたりの畑地に遺跡説明板がある。 

遺跡名
水崎遺跡(みずさきいせき)

所在地 対馬市美津島町大字字仮宿
緯度 北緯34°18′59″ 経度 東経129°13′32″
標高 4m 地形 沖積地
種別 遺物包含地 時代 中世〜近世(12世紀〜17世紀前半)
資料所在地 対馬市教育委員会 指定状況 未指定
参考文献等 『水崎遺跡』 美津島町文化財調査報告書 第8集 1999
『水崎(仮宿)遺跡 』 美津島町文化財保護協会調査報告書 第1集 2001

遺跡・史跡の概略
遺跡は浅茅湾開口部付近の狭小な平坦地に位置する。町道拡幅に伴って1996年美津島町教育委員会によって調査された他、遺跡の重要性に鑑み2000年再度内容確認のための発掘調査が実施された。 当該地は15世紀前半頃、朝鮮王朝や琉球と交易を行っていた海商早田氏の拠点であったとされている。出土遺物は輸入陶磁器が主体を占め、中でも朝鮮王朝陶磁器が70%を占めている。また東南アジア産の陶磁器も5%を占め、琉球を通じて手に入れた状況が看取されている。
遺跡は14世紀後半から15世紀前半頃に一つのピ゜−クがあり、備前・信楽焼の甕の存在から15世紀から16世紀にも遺跡として継続し、以後17世紀前半頃まで連綿として継続している事が確認された。

主な遺構
掘立柱建物
主な遺物
1996年調査:国産陶器(備前・信楽)、中国産・朝鮮王朝陶磁器、ベトナム産陶磁器、石鍋:2000年調査:中国・朝鮮王朝・タイ・ベトナム陶磁器、メノウ製石帯、中国銭貨(含む大元通宝)

長崎の古写真考 目録番号:5869 対馬(2) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5869 対馬(2)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5867(1)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5869「対馬(2)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港を撮影している。
前記事とした目録番号:5878(6)の、大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)のまだ手前、尾崎漁港入口のバス停あたりからの景色である。
ほかの関連写真も、近辺の集落や海岸と考えられるが、調査時間がなく、まだ確証を得るまでに至らなかった。

目録番号:5878「対馬(6)」は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、撮影者を次のとおり解説している。
目録番号:5869「対馬(2)」もこのとき撮影された湾内の1枚で、撮影者はヘンリー・スチュアートである。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。…

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

この項は、再掲。本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2390
今般、遺産リストで対馬を訪れる機会があり、古写真の現地確認も行った。目録番号:5878「対馬(6)」は、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影しているのは間違いないので、現在の写真を載せる。