投稿者「misakimichi」のアーカイブ

住吉神社の大クス 長崎市川原町

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住吉神社の大クス 長崎市川原町

長崎市川原町の住吉神社にある大クス。現地説明板は次のとおり。

長崎市指定文化財
一、種類及び指定名称  天然記念物「川原住吉神社の樟(くす)の木」
二、指定年月日      昭和六十一年一月三十一日
三、指定の理由
クスノキ科の植物で樹齢約四〇〇年といわれる、町内最大の巨木である。目通幹囲五・七五メートル、樹高約二十六メートル、枝張り南北二十三・五メートル、東西二十六・七メートル。樹形、樹勢ともよい。
日本の南方以南に自生する常緑高木である。材を家具又はショウノウ製造原料としての利用もある。
昭和六十一年十二月  長崎市教育委員会

川原大池 阿池姫伝説と湖畔風景

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川原大池—阿池姫(おちひめ)伝説と湖畔風景

野母半島県立公園の川原大池。長崎市宮崎町にある。現地モニュメント説明板は次のとおり。

川 原 大 池

その昔、旧川原村の領主高満の娘「阿池姫」が船もろとも沈んでしまった。阿池姫は竜に姿を変え、村の守護神となった—という伝説にまつわる川原大池。県内最大の天然湖であり、長崎観光百選の地として広く県民に親しまれている。
広さ十・三平方アール、周囲一・九キロメートル、最大水深九メートルで、鮒、鯉、ブラックバス、テナガエビなどが生息している。とりわけヘラブナは五十センチを越す大物が釣れることで、全国的に有名である。別名、「竜ヶ池」ともいう。

区−M 大崎の大崎鼻  (確認 長崎要塞区域標 第十九号)

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区−M 大崎の大崎鼻  (確認 長崎要塞区域標 第十九号)

県道から大崎公民館のある浜へ出て、右手海岸を10分ほど岩場伝いに行くと大崎鼻である。ここの大きな海岸岩の上に海難遭難者を弔う地蔵尊が2体建つ。地蔵のことは地元の人はよく知っているが、陸軍省標石はあまり知らない。現地の鼻に山側から下ってみた。近くのミカン畑山田氏が標石を覚えており、「どれ。久し振りに行ってみるか」と言ってわざわざ案内してくれた。地蔵を調べに越中先生や故森永・丹羽先生も以前来たことがあるらしい。

地蔵と同じ岩の上に少し離れてあった。「長崎要塞区域標」「第十九号」である。地蔵尊を配し雲仙・天草を望み、天草灘の海面に風情を感じる。標石が波風でやや傾いているのがよい。大崎側から満潮時でも岩場伝いに難なく行ける。一見してほしい標石である。

(注)写真の撮り直しがあり、平成19年7月30日再訪した。台風のためか地蔵尊は新しくなり、不動明王がない。この脇の古い碑も撮ってみた。

1−F 「長崎要塞第一地帯標」が新たに飽の浦峠道で見つかる

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 今回見つかった「長崎要塞地帯(区域)標」の標石1本は次のとおり。これで私たちが確認したのは、合計24本となった。第一地帯標は7本である。

1−F 飽の浦峠の手前、旧峠道市道の道脇 (確認 長崎要塞第一地帯標 第一六九号)

平成19年7月29日(日)、飽の浦公園に集合。飽の浦峠から稲佐山・小江原団地まで縦走した。飽の浦峠までは人家の中の旧峠道市道坂道を上る。この道は昔、福田遊園地の前となる大浜ペーロン小屋前海岸へ小さい頃、泳ぎに行くためよく歩いた。峠に着くすぐ手前、入船町24街区の角で、この標石を今回偶然に見つけた。

「長崎要塞第一地帯標」「第一六九号」である。写真は上のとおり。防火用水の後にあり、写真がうまく撮れない。こういった里道にあった標石は、戦後、ほとんど撤去されたが、難をのがれた1本と言える。「第一六九号」という大きな番号が示すとおり、当時は里道のあちこちに建てられていた。まだ探せば残っているのが出てくるかも知れない。
標石はただし「第十六九号」と刻んでおり、改刻かも知れず、番号の意味がよくわからない。

飽の浦峠から稲佐山へ行き小江原へ縦走

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飽の浦峠から稲佐山へ行き小江原へ縦走

平成19年7月29日(日)、飽の浦公園に集合。人家の中の坂道を飽の浦峠まで上る。峠手前で明治32年陸軍省「長崎要塞第一地帯標」「第一六九号」を見つけた(この項は別項)。三菱寮の先、秋月トンネルの上から九電の送電塔道を伝い、小ピークを越して稲佐岳から飽の峠へ伸びる尾根道へ上る。ここから200mほど尾根を戻ると、展望のよい岩がある。

稲佐岳山頂の東を捲く植林地内山道を通り、草スキー場上の広場で昼食。ここは今ドッグランとなっている。岩屋山への縦走路に入り、小江原団地まで林間の尾根を縦走した。福田側の谷から吹き上げる風は快く、暑さを覚悟して行ったが、よい森林浴となった。

区ーO 千々の二ッ岳崎  (確認 長崎要塞区域標 第十六号)

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区ーO 千々の二ッ岳崎 (確認 長崎要塞区域標 第十六号)

ここに標石らしきものがあることは、千々バス停近く千々川橋たもとの主人から聞いていた。二ッ岳の名のとおり、海岸突端に2つのこぶ状の岩山があり断崖の難所で、海岸伝いも行かれるかどうかとの話であった。
近くまで行けないか日を改めて行った。藤田尾側から干藤トンネルができる前の車道を行く。魚釣りに通った道なので少し覚えがあった。千々海岸へ出るつづら折のカーブ下りにかかる所から、右に二ッ岳崎へ向けたコンクリート農道が入って、下ることとなる。

農道終点のビニールハウスの人は、「石はある。なんて刻んであるか知らない。恐ろしい崖で自分は行ったことがない」と言った。釣りの磯道を聞いて東側海岸へ降り、岩場伝いに二ッ岳崎の最も近くまで行ったが、岩切れ込みの海面と断崖に阻まれ、どうしてもこちら側からは行けない。この日は遠くから標石の姿を見ただけであった。大きさ・高さから言って標石に間違いない。
帰る際、磯道へ下る途中に尾根伝いの細い分れと足跡があった。この道は鼻に通じているようだが、1つの岩山のこぶを越しただけで、崖道に足がすくみこの日はやめた。後日、高橋氏が来た時も、他を回って日暮れとなっていたので、遠くから標石を望んだだけとなった。

万を期し大潮の日に出かけた。4回目となった。尾根伝いに今度は反対側の岩場へ降りた。磯伝いに急峻な岩場を巻きながら、25分して突端岩上の標石にやっと辿り着いた。
標石「長崎要塞区域標」「第十六号」である。帰りは海岸伝いでなく、2つのこぶ岩山を越す道を探した。釣り人はどこでも行くのか、危険な2箇所にロープが張られ、恐る恐る下って登った。岩山の間はキレットとなり崩壊寸前。足場はどこも危ない。釣り人もあまり利用していない。一般に勧められない危険な場所である。高橋氏は後日ひとり、茂木から瀬渡し船で渡って標石を確認している。

星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

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星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

「長崎さるく博‘06」により、平成18年4月、星取山のバス終点に長崎市科学館とNTTの手によって「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板が取り付けられたのを知り、昨年5月にさっそく見に行った。説明板は写真のとおり立派なもので、下部には「観測所風景」と「望遠鏡風景」の古写真を拡大したものがある。

写真をよく見た。「観測所風景」では、施設・機器の地面と背後は明らかに違い、後は「唐八景」の山並みである。これは観測所から東方、唐八景を写している。次に右の「望遠鏡風景」だが、説明板は戸町岳の方を向いて設置されており、三角形の山は「戸町岳」と思い、さんざん比較した。しかし、どうしても山の連なりは合わなかった。

説明板の設置方向に疑問を感じた私は、星取山を一周して同じ風景を探した。山頂はNTT無線中継所が大きく占め、フェンスに囲まれ中に入れない。木立が高く山頂からの眺めはまったく得られない。

山頂東側の下手に、バス停の1つ前から入る大正寺管理「星取墓地公園」がある。ここに搭屋があり、登ると四周がよく見える。ここで撮った写真は上のとおりである。「望遠鏡風景」の背後の山並みは、戸町岳とはまったく反対側。彦山から田手原・甑岩にかけての山に間違いない。手前は三景台団地などである。彦山側視界は山頂手前、NNK中継所アンテナのある所の道路からも開ける。

今回の説明板は、「さるく博」期間中の仮設と思われ、NTT側の敷地上の問題もあるらしい。金星観測史上における長崎のフランス隊金比羅山に劣らない、アメリカ隊による観測場所であった星取山の重要さを全体が認識し、皆が納得できるような恒久的な観測記念碑が早くできないものかと考えている。
また、長崎大学工学部なども協力し、古写真から星取山の観測地点を特定できる方法はないものか。同大学が原爆被爆写真から当時の町並みを再現したニュースを見ている。
(注) 詳しくは、研究レポート第3集に収録。

高鉾島の正体不明な台座石

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高鉾島の正体不明な台座石

長崎港口の無人島「高鉾島」は、長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書(追加 その一)平成5年の、(六、台場、番所)「4、高鉾島台場跡」に調査記録があり、この中にある記録を見つけた。
同会が高鉾島を平成4年11月調査したものだが、「(ア)地点山頂広場、長さ約8.5m、幅広いところで4m。何の為のものか不明であるがコンクリート台が築かれて」とあり、台の形状寸法図と写真が掲載されていた。

現物をぜひ確認したくなり、磯道松山氏に頼んで釣り船を出してもらい、江越先生・西山中尾氏とも4人で、平成18年12月高鉾島に上陸した。島内の山道は特別に荒れておらず、台場跡を見学しながら約25分で山頂広場にたどり着き、台座と対面した。

高さは約1.05m、上面に厚い石板が乗せられ縦76cm、横77cmあり、大きな長方形の溝と3つの穴が三角としてあった。コンクリート製でなく、台座とも硬い砂岩を組んで作られているようで、目地や長方形の一部に漆喰かモルタルが塗られている。高鉾島は殉教跡から台場・戦争と長い歴史があり、この台座が古いのか、新しいのか全然わからない。

どじょう会の記録だけではわからないことが多かった。長崎歴史文化博物館の史料によると、高鉾島にも明治九年「地理局測点」が海岸べりの平地と山頂広場の位置に2箇所設置されたこととなっている。もしかしたら、この測点台座ではないかと思って調査に行ったわけだが、正体不明な台座で史料・資料類、用途をなるべく当たっている。

祭祀・祠座・像座・砲座・測量・観測・灯火などいろいろ考えられる。この島は変遷が有りすぎたのだ。天門峰の測点岩も上面に小さな四角の彫りがあった。「長崎市史」によると天門峰には山頂の自然石の上に毎夜小さな灯火を灯し、船の航路の目印とした記述があるが、ほんとうの史実かわからない。
この間、立山三界萬霊塔横で忘れられたような石祠を見た。台座はやや小ぶりだが造りは似ている。案外、こんな単純な石祠だったということで高鉾島のも決着しそうだ。

最近になって、「高鉾島」のある重要さに気づいた。それは「海図」からである。地形図には載らないのでわからないが、「海図」では東経129度50分、そして北緯32度43分が高鉾島で交わっている。
高鉾島の構造物の結果はどうであれ、大正年間、長崎報時観測所が行なった経緯度観測や、水路部では毎年12ヵ所の経度を測定し海図を作成していたから、長崎高鉾島は、明治初期からこれら各種観測や測量の重要測点と目標地点となっていたことは、いろいろな記録からうかがえる。

(下2枚の写真は中尾氏画像)

深堀武家屋敷跡・深堀神社・深堀陣屋跡・菩提寺

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深堀武家屋敷跡・深堀神社・深堀陣屋跡・菩提寺

佐賀藩深堀領の鍋島家6千石の城下町跡。陣屋を中心に武家屋敷が配置され、長崎市内にあって、独特の情緒を残す町並み。都市景観賞を受ける。説明板は次のとおり。
近くの深堀神社の鳥居に深堀創設の由来を記している。深堀の歴史を知る上で貴重なものである。菩提寺に鍋島家の墓がある。

深堀武家屋敷跡
江戸時代、この地を支配した佐賀藩家老鍋島家(6千石)の家臣達の屋敷跡。鍋島家は、鎌倉時代に上総国深堀(千葉県夷隅郡大原町)より地頭として下向した深堀能仲を始祖とする。
この場所が城下町の入口で、城下町特有の鍵型の道路を挟んで東屋敷(三番家老樋口家)、中屋敷(筆頭家老深堀家)、西屋敷(二番家老田代家)などが続き、周辺には中・下級の家臣達の屋敷を配置、一番奥に陣屋と呼ばれた鍋島家の屋敷があった。