投稿者「misakimichi」のアーカイブ

福 門 橋  豊後大野市犬飼町下津尾 ( 大分県 )

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福 門 橋  豊後大野市犬飼町下津尾

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」大分県の石橋によるデータは、次のとおり。県道57号犬飼交差点で県道326号へ分岐。すぐ、現橋の下流に架かっている。

№785  福門(ふくもん)橋

犬飼町下津尾
茜川
橋長:43.6m  橋幅:5.0m  径間:26.9m  拱矢:9.5m
架設:大正5年
県道57号線、犬飼町で県道326号へ分岐すぐ、現橋の下流に架かっています。国道分岐地点から一旦80m北上し、右折。国道57号線をくぐってすぐのところに架かっています

拱矢比0.35と、扁平な橋です。
右岸下流側から降りることができました。

光吉の領境石  大分市光吉 ( 大分県 )

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光吉の領境石  大分市光吉

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。国道210号光吉公民館入口次の七瀬川畔三叉路交差点脇にこの領境石は移設されてある。

光吉の領境石 みつよし
大分市 国道210号沿い 境界石 高130㎝,幅22.5㎝,厚21㎝ 江戸期 WEB(筑前国境石散歩) 移設 (正面)「従此川中西 臼杵領」/臼杵領〜公領 2 C

柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木 ( 大分県 )

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柞原八幡宮の裏参道石畳  大分市上白木

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。JR西大分駅近く国道10号かんたん橋交差点から左折、県道696号に入る。一の坂バス停先から右の柞原八幡宮の裏参道に入り登る。次の鳥居先で二手に分岐するが、右側まっすぐな団地内を通る「車両の通りぬけできません」との交通標識がある坂が、神社への正しい裏参道で、石畳の坂となっている。石畳は幅1.5m、長さ200mほど。
かんたん橋脇には、柞原八幡宮の下宮があり、本宮は県道696号を約3km進む。
柞原八幡宮の本宮は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/4900

柞原八幡宮の裏参道石畳 ゆすはら
大分市 柞原八幡宮・裏参道 石畳道 長約200m 江戸期 市教委/WEB 保存状態良好/石畳の両側の土道は舗装 柞原八幡宮の境内参道ではない(遥か手前) 1 B

杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園 ( 大分県 )

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杵築の馬つなぎ石  杵築市猪尾三川 橋詰公園

杵築城が見える杵築大橋のたもとに橋詰公園があり、入口の敷石に「馬つなぎ石」が展示されていた。現地説明板は、次のとおり。飴屋の坂上のは訪ねていない。

馬つなぎの石

馬をつなぎとめておく石で、杵築の城下町でなければ見られない。今では、飴屋の坂を上がって、右に折れた所にある屋敷(旧藩医 飯塚玄庵邸)の入口に残るのみであるが、昔はいたる所にあったと思われ、城下町の町並みをしのばせている。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータに、次のとおり登載された。

杵築の馬つなぎ石2 きつき
杵築市 橋詰公園 馬繋石 江戸期? WEB(みさき道人) 移設 2 C

亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部 ( 大分県 )

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亀ノ甲池・菅ノ池  国東市国見町上岐部

国東市国見町の新涯隧道からオレンジロードにより東南へ向かう。山神宮がある橋脇から岐部川上流へ市道を進むと、下段に亀ノ甲池、上段に菅ノ池があった。
亀ノ甲池の方は、改修記念碑によると「沿革 幕府直轄地日田代官所代官塩屋代四郎氏助言監督のもと 天保六年乙未三月新築堤完成 明治九年下流の現位置に拡張工事着工 仝十二年工事完工…」とあった以外、詳しくは不明。

薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞 ( 大分県 )

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薦神社(こもじんじゃ)  中津市大字大貞

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。中津市街の国道212号万田交差点から県道663号に入り大貞交差点先まで行くと、薦神社がある。

薦神社

薦神社(こもじんじゃ)は、大分県中津市に所在する八幡宮で、別名大貞八幡宮(おおさだはちまんぐう)とも称される。境内の三角池(みすみいけ:古くは「御澄池」と記すこともある)を内宮、神殿を外宮とする。全国八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれ、承和年間(834-848年)の創建と伝える古社である。

由緒
養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で大伴旅人が率いる大和朝廷軍および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕(こもまくら)を神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。この薦刈神事は現在6年ごとに行われる宇佐神宮行幸会の中で辛嶋一族が当時より行い伝えている[要出典]。
大貞の「貞」の字には占いの意味があると言われ、道教との関連性も指摘されている。
薦神社と三角池は、「三角池と薦神社」として昭和51年(1976年)3月30日に大分県指定史跡、「三角池の水生・湿地植物群落」が大分県指定天然記念物に指定されており、神門は国の重要文化財に指定されている。

参考文献
・『写真集 薦神社 神門編』、薦文化研究所、平成11年
・谷川健一編『日本の神々 – 神社と聖地』第1巻九州、白水社、1984ISBN 4-560-02211-9
・『大分県の文化財』、大分県教育委員会、平成3年

川平間歩  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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川平間歩  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町へ向かう。三光土田は、青の洞門のだいぶんまだ手前である。荒瀬井堰の「川平間歩の跡」は、国道に案内板がなく場所がわかりにくいから、所在地図を参照。

国道が県道672号と交差する三光土田の樋田交差点近くから、サイクリング道路へ入る。この道路は、中津市の中津駅から下毛郡山国町(現中津市)の守実温泉駅間に、大分交通が運営していた鉄道路線「耶馬渓線」跡である。1975年に全線が廃止された
2つの鉄道跡トンネル先のサイクリング道路左脇に「川平間歩の跡」史跡説明板があったが、場所的には、国道先の鮎帰りバス停からサイクリング道路(「日田街道中津往還」の道でもある)に入り戻った方が、近くてわかりやすい。

川平間歩 こうべら
中津市 山国川→荒瀬井路 素掘トンネル(水路) 長1.2㎞ (トンネル9ヶ所を含む切通し部計) 元禄2(1689) 県史跡 市教委/WEB 昭和56非現役/昔のままのノミの跡が残る 施主: 中津藩主・小笠原長胤/上記の「荒瀬井路」のための隧道/「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事→奉行・片桐九大夫に命じて草本金山を閉鎖し採鉱夫150人を総動員した 1 B

現地説明板は、次のとおり。「川平間歩」は現在は使われていない。昭和56年、川下側に新トンネルの水路が完成しているが、その様子は後ろの写真のとおり。

県史跡指定  水の洞門・川平間歩(かわべらまふ)

荒瀬井堰は、下毛原台地真坂、山口、鶴居、大幡、三保、如水、和田、今津、旧八ヶ村百余町歩(後千町)の水田潅漑の悲願達成のため、旧中津藩主小笠原長胤が貞享3年(1686年)10月着工、藩の運命を堵けた大工事であった。中でも山国川沿いの岩山をうがった仏坂川平間歩(トンネル)は「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事で奉行片桐九大夫に命じて草本金山(現山国町)を閉鎖して採鉱夫150人を総動員して3年後の元禄2年(1689年)3月通水に成功した。ところが、川平間歩(千メートル)は岩質がもろく、永年の風化と近年の交通量増大振動による落石落盤ががひどく昭和56年竣工の総工費3億4千万円の付け替え新トンネルに「水の洞門」の役目をゆずり、292年間の通水を止め廃坑となりました。手堀りの当時のままの内部断面は幅・高さ平均2mの箱形で、一番間歩から九番間歩までサイクリング道(旧耶馬溪線跡)に沿って続いて土出口や手堀りののみの跡に300年前の難工事の跡が偲ばれる。青の洞門を30年かけて堀抜いた禅海はこの「水の洞門・川平間歩」の岩盤と堀方を手本にして46年後の享保20年(1735年)着工を決意したといわれている。
昭和59年3月  中津市教育委員会

荒瀬井堰  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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荒瀬井堰  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町まで行く。青の洞門近くの山国川に国道の耶馬渓橋が架かり、下流には8連のアーチ式石橋耶馬渓橋が架かる。この間にあるのが荒瀬井堰の取水口である。

井路はこれからすぐトンネルの連続となる。鮎帰りバス停から近くへ下ると、当時の状況が残る県史跡「川平間歩の跡」があるが、これは次記事とする。私が井路の現況を見てまわったのはその下流。撮影写真は、国道の樋田交差点から三光土田の松元整形外科の方へ入ったところ(県道102号沿い)と、まだ下流、三光臼木あたりの谷間平野部の水路である。

荒瀬井堰 あらせ
中津市 山国川 用水 長13㎞ 元禄2(1689) 市教委 一部石積護岸 施主: 中津藩主・小笠原長胤/樋田村から仏坂・臼木・諫山など北東28ヶ村約1000町歩の田の灌漑を目的とした用水路 3 C

下筌ダム・松原ダム  日田市中津江村・大山町ほか ( 大分県 )

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下筌ダム・松原ダム  日田市中津江村・大山町ほか

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。熊本県菊池市から国道387号などにより兵戸峠を越し大分県日田市へ出たため、途中の風景。1〜3枚目は下筌ダム、4枚目は梅林橋から見た松原ダム。

下筌ダム

下筌ダム(しもうけダム)は大分県日田市と熊本県阿蘇郡小国町にまたがる、一級河川・筑後川水系津江川に建設されたダムである。

国土交通省九州地方整備局が管理をする国土交通省直轄ダムで、高さ98.0メートルのアーチ式コンクリートダムである。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害による被害を受け、筑後川水系治水基本計画の一環として下流にある松原ダム(筑後川)と同時に建設された特定多目的ダムであり、筑後川の治水と日田市への利水、水力発電を目的としている。また、菊池川水系とトンネルによって貯水を融通している。ダム建設に伴って繰り広げられた日本最大級のダム反対運動・「蜂の巣城紛争」の舞台としても知られている。ダムによって形成された人造湖は、蜂の巣城紛争にちなんで蜂の巣湖(はちのすこ)と命名された。

松原ダム

松原ダム(まつばらダム)は大分県日田市、一級河川・筑後川(大山川[1])の本川上流部に建設されたダムである。

国土交通省九州地方整備局が管理を行う国土交通省直轄ダムで、高さ82.0メートルの重力式コンクリートダムである。1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害による深刻な被害を契機に、筑後川水系治水基本計画に基づいて上流の下筌ダム(しもうけダム。津江川)と同時に建設された。筑後川の治水、福岡市をはじめとする福岡都市圏への利水、及び、水力発電を目的とした特定多目的ダム。ダム建設に際して起こった「蜂の巣城紛争」は日本最大級のダム反対運動としても知られている。ダムによって形成される人造湖は、地元の特産であるウメにちなんで梅林湖(ばいりんこ)と命名された。

伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標  高橋氏資料 ( 長崎県 )

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伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標  高橋氏資料

佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた伊万里・有田と下関の陸軍省要塞地帯標調査に関する新聞記事写しと資料。内容が少し理解しがたいが、そのまま載せる。