川平間歩  中津市本耶馬渓町 ( 大分県 )

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川平間歩  中津市本耶馬渓町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」大分県リストによるデータは、次のとおり。資料は、水土里ネット荒瀬井堰から。中津市街から国道212号により本耶馬渓町へ向かう。三光土田は、青の洞門のだいぶんまだ手前である。荒瀬井堰の「川平間歩の跡」は、国道に案内板がなく場所がわかりにくいから、所在地図を参照。

国道が県道672号と交差する三光土田の樋田交差点近くから、サイクリング道路へ入る。この道路は、中津市の中津駅から下毛郡山国町(現中津市)の守実温泉駅間に、大分交通が運営していた鉄道路線「耶馬渓線」跡である。1975年に全線が廃止された
2つの鉄道跡トンネル先のサイクリング道路左脇に「川平間歩の跡」史跡説明板があったが、場所的には、国道先の鮎帰りバス停からサイクリング道路(「日田街道中津往還」の道でもある)に入り戻った方が、近くてわかりやすい。

川平間歩 こうべら
中津市 山国川→荒瀬井路 素掘トンネル(水路) 長1.2㎞ (トンネル9ヶ所を含む切通し部計) 元禄2(1689) 県史跡 市教委/WEB 昭和56非現役/昔のままのノミの跡が残る 施主: 中津藩主・小笠原長胤/上記の「荒瀬井路」のための隧道/「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事→奉行・片桐九大夫に命じて草本金山を閉鎖し採鉱夫150人を総動員した 1 B

現地説明板は、次のとおり。「川平間歩」は現在は使われていない。昭和56年、川下側に新トンネルの水路が完成しているが、その様子は後ろの写真のとおり。

県史跡指定  水の洞門・川平間歩(かわべらまふ)

荒瀬井堰は、下毛原台地真坂、山口、鶴居、大幡、三保、如水、和田、今津、旧八ヶ村百余町歩(後千町)の水田潅漑の悲願達成のため、旧中津藩主小笠原長胤が貞享3年(1686年)10月着工、藩の運命を堵けた大工事であった。中でも山国川沿いの岩山をうがった仏坂川平間歩(トンネル)は「堀り屑一升、銭一升」といわれた難工事で奉行片桐九大夫に命じて草本金山(現山国町)を閉鎖して採鉱夫150人を総動員して3年後の元禄2年(1689年)3月通水に成功した。ところが、川平間歩(千メートル)は岩質がもろく、永年の風化と近年の交通量増大振動による落石落盤ががひどく昭和56年竣工の総工費3億4千万円の付け替え新トンネルに「水の洞門」の役目をゆずり、292年間の通水を止め廃坑となりました。手堀りの当時のままの内部断面は幅・高さ平均2mの箱形で、一番間歩から九番間歩までサイクリング道(旧耶馬溪線跡)に沿って続いて土出口や手堀りののみの跡に300年前の難工事の跡が偲ばれる。青の洞門を30年かけて堀抜いた禅海はこの「水の洞門・川平間歩」の岩盤と堀方を手本にして46年後の享保20年(1735年)着工を決意したといわれている。
昭和59年3月  中津市教育委員会