投稿者「misakimichi」のアーカイブ

山川郷地頭仮屋・跡の石塀  指宿市山川新生町 ( 鹿児島県 )

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山川郷地頭仮屋・跡の石塀  指宿市山川新生町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。旧山川町役場・現指宿市山川支所敷地が山川郷地頭仮屋跡である。国道269号などにより指宿温泉先の山川中心部まで行く。

山川郷地頭仮屋・跡の石塀 やまがわ
指宿市 <山川郷地頭仮屋> 石塀(布積崩し、山川石) 江戸期 市有形 WEB 山川庁舎 1 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定有形文化財 地頭仮屋跡石塀

この旧山川町役場の庁舎を取り囲んでいる石塀は地頭仮屋時代のものです。
地頭仮屋は江戸時代に山川郷の政治をつかさどっていた役所で、曖(あつかい)・横目・組頭の三役が置かれていました。
曖は郷士年寄とも呼ばれ、郷内全般の政務をつかさどり、横目は諸務取次、検察訴訟にあたり、組頭は郷士の指導と仮屋の警備にあたっていました。
現在、北側と南側は殆ど原型を留めていませんが、東側と西側は大部分が残っています。明治初年に地頭職制が廃止されてから、軍政所、学校と変遷をへて今日にいたっています。

平成14年2月1日 指宿市教育委員会

東市来町養母の石敢當  日置市東市来町養母荻 ( 鹿児島県 )

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東市来町養母の石敢當  日置市東市来町養母荻

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道304号東市来町養母荻の上市来郵便局前交差点から北西上の高台通りへ上がる。荻の観音堂があり、左側の朝隈方溝下角に慶応2年の銘があるリストの石敢當があった。高76cm、幅24cm、厚16cmほど。市道と側溝工事で少し移設しているという地元の話。
右側の寺側へ向かうと、年代のないあと1本の石敢當が石垣に立てかけてあった。高55cm、幅20cm、厚15cmほど。場所がわかりにくいから所在図参照。

東市来町養母の石敢當 ひがしいちき、ようぼ
日置市 (荻) 石敢當 高96㎝,幅24㎝ 慶応2(1866) 市教委 移設→個人宅 (正面)「石散當」 4 C

荻前田橋  日置市東市来町養母荻 ( 鹿児島県 )

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荻前田橋  日置市東市来町養母荻

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道304号東市来町養母荻の上市来郵便局裏側、農協支所前の大里川に架かっている。橋の手前と渡った先に大きな架橋記念碑が2つある。

№798  荻前田橋

日置市東市来町養母
市指定有形文化財
大里川
橋長:21.6m  橋幅:5.5m  径間:8.2m  拱矢:4.2m
架設:昭和6年
平石橋から県道309号線に戻り、北西に1.9Km進むと右手に見えます。

荻の荻前田橋
「荻前田橋は、長さ21.6m、幅5.4m、高さ5.65mである。
高さ1.72m、横73cm、厚さ52cmの大きな架橋記念碑に、
起工 昭和六年二月八日
竣工 昭和六年四月二十三日
総工費 弐千六百五円
夫役延日数 弐千参百四拾五日
部落戸数 壱百拾戸
浩司委員長 宮内貞夫
会計主任 米澤與七郎
監督 田丸佐吉  宮内才ニ
久保與兵衛 恒吉森左ヱ門
監督兼設計者 松山利行
と刻まれている。
昭和62年8月20日、有形文化財として町の指定を受けている。
現在、二連アーチ式石橋は、ここのみである。」
日置市教育委員会

樋之口(たいのくち)橋  日置市東市来町養母荻 ( 鹿児島県 )

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樋之口(たいのくち)橋  日置市東市来町養母荻

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」鹿児島県の石橋によるデータは、次のとおり。県道304号東市来町養母荻の上市来小学校前を過ぎた左側の大里川に架かっている。橋を渡った先に架橋記念碑があった。

№801  樋之口(たいのくち)橋

東市来町荻
大里川
橋長:12.7m  橋幅:4.6m  径間:11.9m  拱矢:4.8m
架設:昭和2年
飯牟礼橋から県道304号線を荻前田橋まで戻る。さらに150m先を左折、400m先右手に架かっています。

養母の田の神  日置市東市来町養母 ( 鹿児島県 )

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養母の田の神  日置市東市来町養母

現地説明板は、次のとおり。県道305号東市来町元養母バス停手前に案内標識があり、北側の旧道へ入る。庚申田の神の右脇にも、小さな田の神があった。

養母の田の神
この田の神は、昭和43年3月29日、有形系民俗文化財として、県の指定を受けている。
像だけの高さ92センチ、灰白色の粗い凝灰岩で作られている。頻はつぶれているが、眉の少しつり上がった分怒相、あごひげも見られる。冠に長い瓔を垂れ、長い袖のひだが、地に着く程で、背後にも裾が長く垂れ、両手で胸の前で、笏を持っている。袴の背面に
奉造立田之神一躰
左側面に、
明和六己丑十二月吉日(1769)
庚申講人数相中
と、刻んであり、庚申供養のために作られている。庚申供養のための田の神は県下に20数基あり、萩集落の元文四年(1739)のものが最古であるが、破損がひどい。
日置市教育委員会

長里の石敢當2  日置市東市来町長里 ( 鹿児島県 )

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長里の石敢當2  日置市東市来町長里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。市指定文化財の「長里の石敢當」(養母の石敢當)は、国道3号沿い杉ノ迫の角(長里1569番地)にあるようだが、これは遺産サイトで画像はすでにある。

長里の石敢當 ながさと
日置市 石敢當(道標兼) 高164㎝,幅35㎝,厚22㎝ 安永3(1774) 市有形民俗 日本の石敢當p149/現地解説板 原位置? (正面上部)「石敢當」、(同下部中央)「右 ゆのもととをり」=道標を兼ねた石敢當は稀/建立:杉之迫郷中/全国で2番目に高い石敢當 1 B

私が見たのは、同じ長里でも県道305号東市来中前交差点から北へ入った市道奥にある石敢當。次の養母萩へ行くため、道を間違えて湯之元からここを通っていて見かけた。
小さな川脇の民家入口前にあり、高100cm、幅25cm、厚15cmほど。年代の刻みはなかったが、一応、ここも東市来中前交差点に出た長里だったので、「長里の石敢當2」として記しておく。所在図参照。

蘭牟田の石敢當  薩摩川内市蘭牟田麓西 ( 鹿児島県 )

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蘭牟田の石敢當  薩摩川内市蘭牟田麓西

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。「蘭牟田の石敢當」は市指定文化財。県道42号蘭無田温泉先から蘭牟田池の方へ向かう。水車のある竜仙館前や蘭牟田小学校を過ぎ、蘭牟田池入口からそのまま市道を少し進むと、麓西の民家入口の石垣上にこの石敢當が立つ。

蘭牟田の石敢當 いむた
薩摩川内市 石敢當 高110㎝,幅18㎝,厚12㎝ 宝暦4(1754) 日本の石敢當p147 (正面)「石敢當」 C

薩摩川内市文化財一覧表では、次のとおり。

81 祁答院 市指定 民俗文化財 有形民俗文化財 藺牟田麓西の石敢当(いむたふもとにしのせっかんとう) 祁答院町藺牟田 平成15年3月1日

さて、次の「上川内の石敢當」。薩摩川内市文化財担当でも、上川内では所在は知らないと言う。肥薩おれんじ鉄道上川内駅から北西部が「上川内町」で、御陵下町から京セラ後ろ側を行く薩摩街道を、高城町妹背橋まで辿ったが、商人町があった地元でも、まったく手がかりとなる話が聞けなかった。

上川内の石敢當 かみせんだい
薩摩川内市 石敢當 高140㎝,幅32㎝,厚15㎝ 安永7(1778) 日本の石敢當p150 石垣に埋もれている/中央部で折損→C補修 (正面)「石敢當」 4 C

出典は日本の石敢當P150。私の見落としがあるかも知れないが、この頁に載っていたのは、国道267号田海町交差点から南へまっすぐな白浜橋を渡った先の白浜公民館前にある「白浜の石敢當」を念のため訪ねた。
「白浜の石敢當」の写真は 7枚目以下のとおり。高45cm、幅16cm、厚11cmほど。安政6年の銘で、これではなかったため、「上川内の石敢當」の調査は保留とした。

能 古 島  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能 古 島  福岡市西区能古

能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ面積3.95km² 周囲12kmの島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。 
福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。散策地図は、西区役所編集・発行から。

6.能古島歴史ロマン散歩

博多湾内に浮かぶ西区能古島は、東西2km、南北3.5kmの南北に長いナスビ形の島で、全体が台地状を呈し、最高所の標高は195mである。これまでの調査で弥生時代の遺跡や古墳群が見つかっており、奈良時代の『万葉集』には遣新羅使や志賀白水郎の歌のとして能古島の名が登場する。歌からはこ の島に防人が配置されていたとわかる。平安時代には牛牧が置かれ(『延喜式』)、1019の刀伊の入冦の時には大きな被害を受けた(『朝野群載』)。近世の 能古島は廻船の基地として栄え、また福岡藩の鹿狩りの猟場であった。

現在の能古島は、島の南部に能古島博物館、北部の也良崎に能古島アイランドパークが整備されており、周遊コースは歴史とロマンに浸り、島の自然を楽しむ1日コースである。島へは姪浜港からの市営渡船で約10分。

能古島の古土手  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の古土手  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。「能古島の鹿垣」は前記事とした。これは牛や馬を放牧していたときの名残と言われている「古土手」である。
山頂の平坦部にあるというから、展望台付近の雑木林内を探したが見つけきれない。付近の農家に聞くと、自宅のミカン畑の裏手尾根にあると、畑奥へ案内してくれた。

そこは展望台入口と思索の森入口との間の「小平谷」というバス停手前の電柱付近。バス通りからまっすぐな坂の農道(民家脇にも土塁を確認できる)と、それに続く山道が上がり、左側に古い土塁跡を確認できた。土塁上はもう大木となった木が茂り、これが山頂の方へ続いていると言う。
鹿垣説明板の中にあったオレンジ横線が、「古土手」の位置なので、「小平谷」のここも間違いないだろう。

能古島の古土手 のこのしま、ふるどて
福岡市(西区)(能古島) 馬垣(石塁) 約350m 江戸期 WEB 当初の長さは不明 牛や馬を放牧していたときの名残と言われている/鹿垣の北約600mに東西に走る 3 B

能古島の鹿垣  福岡市西区能古 ( 福岡県 )

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能古島の鹿垣  福岡市西区能古

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。能古島(のこのしま)は、博多湾の中央に浮ぶ島。福岡市営渡船(フェリー)が、福岡市西区の姪浜旅客待合所(能古渡船場)と能古島を結ぶ。1日23便(日祝日は21便)、所要時間約10分、片道運賃大人230円。
「能古島の鹿垣」説明板は、2箇所にある。能古渡船場から展望台入口に上がるバス通りの途中と、その先から左へ案内標識により奥に入る。福岡ひまわりの里への車道であるが、こちらが壮観だった。

能古島の鹿垣 のこのしま、ししがき
福岡市(西区)(能古島) 鹿垣(土塁,石垣) 東西約2㎞,高2mの土盛りの北側に30〜50㎝大の石,その前面に幅3mの溝 天保7(1836) 市教委 現存するのは長600m程度 福岡藩の鹿の狩猟場/田畑への鹿の被害が著しかったため、島を南北に分断する石垣を築いた 2 B

福岡市HPの文化財による説明は、次のとおり。

鹿 垣  西区
江戸時代の後期、能古島は黒田藩の鹿の狩猟場であった。ところが田畑への鹿の被害が著しかったため、東の北浦から西の白鳥までの東西約2kmにわたり島を南北に分断する石垣を築いた。これが現在も残る鹿垣で、天保7年(1836)に完成したという。
その構造は高さ2mの土盛りの北側に30〜50cm大の石を積み、その前面に幅3mの溝を掘ったもので、これで鹿が島の南部に出るのを防いだ。幕末にはグラバー(1838ー1911)なども訪れ、狩猟をしたというが、昭和20年頃を境に鹿は全滅した。
能古小・中学校と展望台入り口の間の道で鹿垣が切れた場所に説明板が設置されている。また鹿垣の北側、島の中央頂部に東西約350mにわたって土塁が残り、島の人は「古土手」と呼びならわしている。