投稿者「misakimichi」のアーカイブ

櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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櫛田神社  福岡市博多区上川端町1丁目

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。櫛田神社は場所がわかりにくいが、国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。境内の大銀杏の根元には、蒙古碇石(前記事)もある。

櫛田神社 (福岡市)

櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区にある神社である。
概要
櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。
祭神
祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られている。
その他
境内には、通例祭り期間中にしか見ることができないはずの博多祇園山笠の飾り山が、歴史を伝えるために唯一常設されている。これは、昭和35年(1960年)から『走れ!山笠』を放送し続けている九州朝日放送(KBC)が奉納している(平成22年(2010年)のKBC枠放送で紹介された)。これらもあってKBCは他局に比べ比較的有利な条件で中継を行っている。また、境内の入り口付近には「櫛田の銀杏」とよばれる樹齢約1000年の銀杏の木がそびえる。「博多祝い歌」にも謡われ、県の天然記念物に指定されている。

上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 ( 福岡県 )

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上川端町の碇石1・2(蒙古碇石)  福岡市博多区上川端町1丁目 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区上川端町1丁目の櫛田神社大銀杏の根元に屋外展示。場所がわかかりにくいが、櫛田神社は国道202号中州新橋交差点から北の裏通りに入る。
今、3枚目の銀杏写真の根元を見ると、前後にたしかに碇石は2本ある。私はどうやら折損修復している「上川端町の碇石2(蒙古碇石)」の方は、写し忘れたようだ。

上川端町の碇石1(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(凝灰質砂岩) 長252㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示 出土地:不明/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/弘安の元冠時に元軍軍船使用の碇石(櫛田神社の解説板による)〔平安期の日宗貿易時の宗船の碇の可能性も排除できない〕 2 B

上川端町の碇石2(蒙古碇石) かみかわばた
福岡市(博多区) (1丁目)櫛田神社 碇石(花崗岩) 長226㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 屋外展示/左1/3で折損→修復 明治40に聖福寺の山門の前で井戸を堀っていて地下5mから発見 2 C

井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目 ( 福岡県 )

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井相田の碇石(蒙古碇石)  福岡市博多区井相田2丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。福岡市博多区井相田2丁目の福岡市埋蔵文化財センターに展示。国道202号外環状道路の井相田1丁目交差点から県道112号に入り、板付中学校の方へ向かうと、中学校手前に市埋蔵文化財センターがある。

井相田の碇石(蒙古碇石) いそうだ
福岡市(博多区) (2丁目) 市埋蔵文化財センター 碇石(凝灰質砂岩) 長209㎝→178㎝ 10-13世紀 県考古資料 WEB 重量測定の際に折損 出土地:博多港中央阜頭西200m、水深5m/中央部から先端にかけて直線的に細くなる/全体的に加工仕上げは粗く、機能的な面のみ強調 3 C

瀬戸の渡し  桂川町瀬戸 ( 福岡県 )

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瀬戸の渡し  桂川町瀬戸

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。国道200号の桂川町瀬戸交差点から県道473号に入り、すぐの橋先からJR篠栗線の踏切を渡り、泉河内川の右岸の道路を南に進むと、「瀬戸の渡し」に着く。
長崎街道と秋月街道の分岐点で、追分碑と案内標識がある。瀬戸の渡しは「10間ばかりの川幅」で、旅人達は泉河内川を歩いて渡った。渡りの傍らの川波家が当時の「川庄屋」で旅人はここで休息したと伝えられている。

瀬戸の渡し せと
(嘉穂)桂川町 泉河内川 渡渉場 江戸期 町教委 土手にくぼみが残る 参勤交代の大名も通った渡渉場 3 C

郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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郡境石・カクメ石古墳石室  飯塚市柏の森

飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館の庭に屋外展示中。内容は説明板のとおり。郡境石は、横25×幅20×高さ150cm。明治の標石でもともとあった場所は、現在の市東南部「鶴三緒」付近の嘉麻郡と穂波郡の郡境界という話。明治19年両郡は「嘉穂郡」となった。

飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森 ( 福岡県 )

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飯塚宿の舫石  飯塚市柏の森

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。飯塚市柏の森の飯塚市歴史資料館に展示。資料館は新飯塚駅の東、国道201号立岩交差点から県道402号に入るとすぐ右方にある。
舫石は2本あり。大は、横25×幅10×高さ180cm。小は、横22×幅18×高さ145cm。

飯塚宿の舫石 いいづか、もやい
飯塚市 遠賀川 船繋石 江戸期 市有形民俗 市教委 飯塚市歴史資料館に移設 宿場町と遠賀川水運の接点 3 C

芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿 ( 福岡県 )

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芦屋海岸の洞山  芦屋町山鹿

芦屋町HPによる説明は、次のとおり。芦屋橋から国道495号により北東へ進み、芦屋歴史の里(芦屋町歴史民俗資料館)手前の洞山入口交差点から左折し海岸側へ出る。堂山の先に洞山の島がある。

洞  山

手前に堂山、沖に洞山と2つの岩地が連なった島です。もとは満潮時には、離れた2つの島でしたが、現在はともに地続きとなっていて、総称で洞山と呼ばれています。
洞山には、永年の風化でできた高さ10m、幅12m、奥行30mの洞穴があります。周辺は、千畳敷と呼ばれる平らな岩盤が連なり、また釣り人の姿も多く見られ、干潮時には家族で磯遊びが楽しめます。

川筋道道しるべ(元・山鹿の道標)  芦屋町山鹿 ( 福岡県 )

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川筋道道しるべ(元・山鹿の道標)  芦屋町山鹿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり。芦屋町役場近く、国道495号芦屋橋西から遠賀川を下流側へ行き、光明寺入口へ坂道を上がった先に、火切地蔵堂がある。この角に「筑前蘆屋宿搆口の跡」碑があり、「川筋道道しるべ」(追分石)が立つが、現在の標石は新しい御影石である。
芦屋町が平成7年頃、置き換えたもので、現物は芦屋町歴史民俗資料館の収蔵庫に保管されていた。砂岩製で破損の恐れあり、町がこのような措置を取ったということであったので、資料館で現物の標石を写させてもらった。

川筋道道しるべ かわすじ
(遠賀)芦屋町 <唐津街道> 石道標 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 欠損 「新町/濱口道 川筋道」 4 –

HP「お寺めぐりの友」による芦屋宿の川筋道道しるべ(追分石)の説明は、次のとおり。 

芦屋宿 あしや   旧:遠賀郡蘆屋村 現:遠賀郡芦屋町 ASHIYA STA.

概要
ここでは芦屋宿より海老津を経由し赤間宿に至るルートを紹介する。
ここに『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡上 ◯蘆屋あしやの項の内容を引用する。
「民家多く町頻すこぶる廣ひろし。富家も亦また多し。 岡の湊の南のほとりにあり。 むかひは山鹿がの里也。 遠賀川其間をへだつ。 旅船おおく出入して、交易の利多く、民家にぎはへり。 (以下略) 」
芦屋は「葦屋」「蘆屋」とも書き遠賀川の河口に位置し、流域の産物の集散地であった。
芦屋町の歴史については、芦屋歴史民族資料館に、かなりの遺物が保存されている。

ルート
渡船場跡 → 光明寺前 → 構口 → 芦屋小学校 →(以下略)

渡し場跡
渡場跡のすぐそばには、芦屋大橋がある。当時の渡船場の痕跡は何も残っていない。芦屋大橋のたもとにある石碑の裏に書いてある内容を書く。
「筑前21宿の1邑であった芦屋と山鹿間の往来は、渡船によって永い間行なわれていたが、 明治40年1907には町営となった。 当時の渡船料は大人が6厘、牛馬1頭口付1人共1銭1厘、 自転車は乗人共1銭であった。 渡し場は幅約8メートルの石畳の斜面 になっていて、福岡までの距離を示す元標が立っていた。大正6年4月旧芦屋橋が架けられると同時に渡船も廃止された。」

光明寺前
ここまで北上してきた街道はここで90度左にカーブする。 ここより西構口までは上り坂である。 光明寺は浄土宗のお寺で境内にはイチョウの古木がある。

構口
構口には、祠と梵字石それに追分石がある。梵字石の裏には弘化2年18465月吉日の銘がある。
追分石には「左濱口通 川筋道」 と刻まれている。(文久元1861銘)  この追分石は、真新しい御影石でできているが、近年置き換えられたのであろう。

(2015月11月28日 追 記)
サイト「近世以前の土木・産業遺産」福岡県リストによるデータは、次のとおり更新された。 

元・山鹿の道標 やまが
(遠賀)芦屋町 町歴史民俗資料館 石道標(砂岩) 高52㎝(欠損),18㎝角 文久元(1861) 町教委 収蔵庫内に保管/頂部欠損 (正面)「… 濱口道 川筋道」、(右面下部)「新町」 4 –

藍 島(2)  北九州市小倉北区藍島    ( 福岡県 )

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藍 島(2)  北九州市小倉北区藍島   

藍島(あいのしま)は北九州市の北4.2kmの響灘にあり、南北に細長く起伏の小さな平坦な島。面積0.68㎢、周囲13.2km。JR小倉駅北東側の砂津港ターミナル浅野乗り場から、北九州市営「こくら丸」により約35分で、馬島に寄り藍島港に着く。1日3便、料金は片道400円。
(1)は、藍島本村港から島の北部、千畳敷までの往路、(2)は、千畳敷と復路の島の東南部の風景。最後の藍島地図は、福岡県広域地域振興課ポータルサイトから。

藍 島(1)  北九州市小倉北区藍島 ( 福岡県 )

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藍 島(1)  北九州市小倉北区藍島   

藍島(あいのしま)は北九州市の北4.2kmの響灘にあり、南北に細長く起伏の小さな平坦な島。面積0.68㎢、周囲13.2km。JR小倉駅北東側の砂津港ターミナル浅野乗り場から、北九州市営「こくら丸」により約35分で、馬島に寄り藍島港に着く。1日3便、料金は片道400円。
(1)は、藍島本村港から島の北部、千畳敷までの往路、(2)は、千畳敷と復路の島の東南部の風景。最後の藍島地図は、福岡県広域地域振興課ポータルサイトから。