投稿者「misakimichi」のアーカイブ

笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

笑 道?  西海市大瀬戸町多以良内郷

国道202号線で西海市大瀬戸町多以良内郷まで行く。史跡小佐々城跡登り口のすぐ先、国道左側に「造形 笑道? 202」の家があり、庭に展示している。
先のバス停「柳口」には、トトロがいた。

都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が全線開通

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が全線開通

長崎新聞2010年7月5日のながさきニュース。最後の工区となっていた愛宕工区(桜木町−愛宕4丁目、全長約1・5キロ)が完成。4日から供用開始しているので、その区間の様子。

都市計画道路・小ケ倉蛍茶屋線が開通 長崎中心部の渋滞緩和期待

長崎市中心部の渋滞緩和などを図るため、国の補助を受け県や同市が建設を進めてきた「都市計画道路小ケ倉蛍茶屋線」(小ケ倉町2丁目−矢の平1丁目、全長約9・5キロ)が完成、4日、同市桜木町の田上絆橋(きずなばし)で開通式があり、供用を開始した。
小ケ倉蛍茶屋線は1970年に着工。最後の工区となっていた愛宕工区(桜木町−愛宕4丁目、全長約1・5キロ)が1日完成した。全線が開通したことにより、同市南部−同東長崎地区間の渋滞緩和による所要時間短縮が見込まれる。

長崎南環状線2期事業区間は別。唐八景トンネルは貫通しているが、長崎県長崎南バイパス建設事務所HPによる計画図のとおり、この完成は平成23年3月目標となっている。

池崎のアコウ  西海市西海町太田和郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

池崎のアコウ  西海市西海町太田和郷

大瀬戸から行くと、国道202号線西海市西海町太田和港の次のバス停が「池崎」である。
バス停後ろの高い石垣にアコウの大木2本が並んで立っている。
いずれも幹囲5m、樹高13mほど。

道の駅さいかいのタブノキ  西海市西海町木場郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

道の駅さいかいのタブノキ  西海市西海町木場郷

西海橋手前の小迎交差点から国道202号線により西海町へ向かう。川内からすぐ県道43号西彼太田和線に入って中間位。西海市西海町木場郷にみかんドームの道の駅さいかいがある。
駐車場の中に立つタブノキ。現地説明板は次のとおり。

保存の樹
樹木名  タブノキ
樹 高  15メートル
幹周り  4.5メートル
推定樹齢 約300年
数百年もの昔より、この場所で根付き、このような巨木になるまで成長し、これからも「道の駅」さいかいのシンボルツリーとして、年輪を重ねて行くことでしょう。

西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

西海市西海歴史民俗資料館  西海市西海町黒口郷

国道202号線などで、西海市西海総合支所まで行く。市道の対面側に西海市西海歴史民俗資料館や西海公民館がある。入館無料。

平成3年5月には、町公民館に隣接して、西海町歴史民俗資料館が完成した。2階は図書室、3階は町の歴史・文化財を紹介し、民俗資料・遺跡出土品を展示した資料館となっている。(西海町郷土誌605〜606頁)

西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町

明治9年(1876)、太政官布達により、国道、県道、里道(町道)の3等級が定められた。
明治29年(1896)、西彼杵半島を一周する県道に関する議案が県議会ではかられた。明治
32年(1899)、外海県道が開通し、明治38年(1905)、内海県道が開通となった。
内海線は、面高を基点として長崎まで15里(60km)あり、1里(4km)ごとに石の道標が立てられた。当時の人は、西海町を早朝に出て、夜には長崎に着いたという。

西海町「西海町郷土誌」平成17年発行495頁の主要道路建設の項で、西海町面高を基点とする西彼杵半島旧明治県道の内海線に「一里標」を建てたことを記している。
当時の「一里標」がまだ残っているだろうか。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/952
2008年6月、西彼町八木原郷に「長崎十二里」と刻んだ一里標を見かけたことを記事にした。

全国にはいろいろなマニアの人がいる。HP全国「標石図鑑」(現在HPは、都合により閉鎖)で、この標石を最近、長崎県の標石として取り上げてもらったので、詳しく他の「一里標」の存在を調べることとした。
西彼町「西彼町郷土誌」平成15年発行316頁に「旧県道の一里塚」として、西彼町に5本の一里塚が建てられたことを記している。
標石なので、正しくは「一里標」。長崎への距離に応じて「九里標」「十五里標」などと刻んだものもある。以下、「一里標」として説明する。同郷土誌説明は次のとおり。

旧県道の一里塚
明治38年(1905)完成の長崎〜面高間の内海県道には、一里塚が設けられた。当町域にも
5ヵ所に一里塚が建てられたが、その後の道路改修などのため、今ではその形をとどめていない。当時の旅人はこれを旅程のめやすとして、近くの木陰などで休息を取っていたのであろう。

同314頁には、西彼町の当時の「往還図」がある。西彼町で別にわかったのは、上岳郷山中バス停にある標石である。「面高へ六里二分」と刻んでいるから、316頁の標石である。標石は新しく見え、今までバス停傍らになかったと思う。あったら以前に気付いたはずである。どこかに展示していて最近、移設されたものと思われる。
西彼町の外の3本、鳥加郷よしのドライブイン付近、平山郷大串小学校下、八木原郷皆割石は、所在が今のところわからない。

基点の面高に戻って、西海町域の旧県道標石を探してみる。大瀬戸歴史民俗資料館に前お勤めの江越先生が知っておられた。西海市西海公民館の正門右に「十五里標」、隣の西海市西海歴史民俗資料館3階に展示品の「十四里標」がある。
あと1本は、大瀬戸町多以良内郷にある。多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。数回通った道なのに覚えがなかった。
外海線については、西海市立西海南小学校下、板浦トンネル上の斎場下、西海市役所神社側駐車場あたりの旧県道だった道にも、標石があったと地元の人などに聞いているが、今はないようである。

以上、現在までの調査により判明した西海市西彼町・西海町・大瀬戸町関係の「一里標」標石5本を、写真によって紹介する。所在地・刻面・寸法は次のとおり。移設されたものもある。

写真  1〜  2  西彼町郷土誌掲載の「旧県道の一里塚」及び当時の「往還図」

写真  3〜  5  西彼町上岳郷 山中バス停付近
正面「九里標」   右面「面高ヘ六里二分」 左面「長崎へ九里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真  6〜  8  西彼町八木原郷 JA長崎せいひ大串支店先
正面「一里標」   右面「面高ヘ三里二分」 左面「長崎ヘ十二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1.1m

写真  9〜 11  西海町黒口郷 西海市西海公民館正門右
正面「十五里標」 右面「長崎ヘ十五里」 左面「面高へ二分」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 12〜 14  西海町黒口郷 西海市西海歴史民俗資料館 3階展示品
正面「十四里標」 右面「面高ヘ一里二分」 左面「長崎へ十四里」 裏面「長崎縣」
17cm角  高さ0.9m

写真 15〜 17  大瀬戸町多以良内郷 道目木集落
正面「一里標」   右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」
18cm角  高さ1m

写真 18       基点?の西海町面高港
外海に面した面高港は、天然の良港である。岬の海岸線は屈曲し、奥行1000m・幅500mの湾内は、台風時の避難港として早くから知られていた。陸路においても、長崎市から西彼杵半島の県道終点であった。旅館や遊郭が立ち並ぶなど、町は海陸共に交通の要所として繁栄した。(西海町郷土誌5頁)   

八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

八人ヶ岳公園  西海市西彼町平山郷

西彼町大串から大瀬戸への県道12号線へ入り、登って行くと右に西彼杵広域農道(オレンジロード)入口がある。県道の途中に「琴平麗水」、広域農道へ入って1km位の所に「八人ヶ岳」公園入口、広域農道のさらに1km位先に石鍋製作跡が橋下にある「石鍋橋」がある。

八人ヶ岳は標高218m。西海市ウェブサイトによる説明は次のとおり。山頂展望台駐車場に行く途中に、西彼町民話の「鯖くされ岩」があった。

八人ヶ岳公園
西彼エリアの中央山稜に位置し、大村湾全体を眺望できます。古くから西彼杵半島の武者相撲が行われており、頂上には展望台と土俵が設置されています。

鯖くされ岩 (現地説明板)
由来 昔瀬戸の漁師が魚を行商に行く途中、目の前の大きな岩が今にもくずれそうなので、くずれるのを待って一服していたら、とうとう魚が腐れてしまったていう平山郷に伝わる民話です。

西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

西彼町の主な史跡 (2)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  4    4 平原のキリシタン墓碑

平原郷山口原の小高い丘に、平原郷相川家の祖、相川勘解由左衛門尉義武の墓碑がある。勘解由左衛門は「相川氏伝記」によると、豊臣時代、朝鮮に出陣し、傷ついて大村喜前に助けられ、形上に住んだ。
二代目藤左衛門の時、平原に移住して田地を開拓し、20石の知行を得た。四代目の孫甚平が、形上村の旧住地に先祖の墓があることを知り、代々祀ってきたが明治30年(1897)ころ、現在の場所に移した。

墓碑は高さ55cm、幅47cm、厚さ22cmの温石の自然石である。墓碑面中央に花十字、その上に「INRI」と刻まれている。これは「Ⅰesus Nazarenus Rex Iudaeorum =ユダヤの王ナザレのキリスト」の略で、この文字を刻んだ墓碑は日本でははじめて発見され、キリシタン史研究上貴重なものである。
また、墓碑の背後に高さ約2m、幅1m、厚さ15cmの結晶片岩の墓碑が立てられているが、正面から見て前面は削られ、背面には慶長十八年(1613)七月一日と刻まれている。

この墓碑は、表面を削ったのは勘解由左衛門の名を隠すためで、昭和56年(1981)の町教育委員会『西彼町の史跡』にも、形上から平原に移すときに「甲駿之相川勘解由左衛門尉…」の刻字を削りとったといわれるとあり、昭和6年(1931)『郷土調査』では、この石は墓碑の敷石になっていて、名が刻んであるとしており、最近の研究では「石棺の蓋」(蓋石付石棺型キリシタン墓碑)と推論する説も有力で、そのサイズ、形状からも説得力がある。
二代目籐左衛門の墓は、平原墓地にあるが、小倉造りの墓祀の石扉内側に花十字紋様が刻まれている。きびしい弾圧の時代に発見を免れて残ることができたきわめて希な例である。昭和47年(1972)8月に長崎県の文化財に指定された。

写真  5〜  8    5 小干浦の殉教地

亀浦郷小干浦、西村公園(注 西村真珠内の庭園)の岬に殉教碑が建つ。この地生まれの四五郎トマスとその子与介ドミンゴの遺骨が台座に納められている。昭和40年(1965)、長崎市葉山町で、加藤十久雄、結城了悟両氏によって発掘された銅版に刻まれたスペイン文字の解読によって、日本キリシタン史上希有の発見がなされた。

銅版(A)「この箱の中に至福なる殉教者、故四五郎左衛門トマス七二歳と、その子与介ドミンゴ三七歳の二人の死体がある。(この方々は)一六二四年(寛永元年)七月十七日、大村領の村、小干の浦で棄教するのを拒んだので頭(首)を切られたのである。No12
この箱は日本に於ける聖ドミニコ会のものである」
これが日本で発見された唯一の殉教者の遺骨となる。銅版は現在長崎二十六聖人記念館に展示され、この地に殉教碑が建てられた。

写真  9〜 12    6 大串金山跡

大串金山は寛永4年(1627)から、藩直営、民間開発を含めて、約40年の間断続的に採掘された。大串金山というのは、現在の当町域で掘られた金鉱山の総称である。町内でほぼ3地域に分けられる。
喰場郷中ノ島地区、鳥加地区(金山谷、こうもり谷、平島、涌上り海辺)、網代地区が主な金坑跡である。この内、中ノ島川尻、鳥加地区にそれぞれ間歩が現存し、とくに涌上り海辺は大型の坑口が口を開けている。網代の八大龍王社叢には数ヵ所の間歩があったが、現在は塞がれてしまっている。その他にも、小間歩が散在したことが地名(例、白似田の字金山)などからも推測される。

大串金山の金銀産出量や大村藩の収入について、全体を知ることはできないが、寛永4年(1627)の掘り始めから同7年の中断までの4年間に、金8貫匁(30k)、銀70貫(260k)が江戸城西ノ丸の官庫に納められている。また、万治元年(1658)の最盛期には、年間で金4.5貫(約17k)の産出を記録している。その後寛文、宝永年間にも採掘されているが、採算がとれず、江戸幕府への上納もできないまま事業を停止した。

(注 現地写真は鳥加郷涌上りの金山跡。長崎オランダ村ファームから入る。中央右電柱奥の崖上に1箇所、右手道を海辺の人家まで行くと畑庭の崖に3箇所坑口跡が残っていた。)

写真 13〜 16    7 伊ノ浦台場跡

伊ノ浦台場(砲台)は、西海橋の西彼町側橋脚から約100m大村湾寄りの海岸に、高さ5m位の石垣が築かれている。これが幕末期に大村藩が築いた砲台、第一台場跡である。
台山公(大村藩12代藩主大村純凞)勤王録によれば「元治元年(1864)大村湾の迫口伊ノ浦の岸頭に三箇所の新塁を築き、それぞれ一八封度(口径13cm)並びに二四封度(同15cm)の大砲を備えつけてその土地の砲士をして主管せしめたり」とある。
○台場建設の背景(略)

写真  17        8 長島と真円真珠

古くから大村湾は天然真珠を産し、大村藩でも「貝玉奉行」を置いて管理した。明治18年(1885)、県令によって母貝を保護し、良質の真珠が生産されるようになり、養殖の研究が進んだ。
明治41年(1908)、西川藤吉、渡辺理一は共同で、長島に長島真珠養殖場を設立して研究開発を重ね、翌42年に「真円真珠第一号」を完成させ、大正3年には市場に出すことに成功した。現在も遺構の一部が残っている。

西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

西彼町の主な史跡 (1)  西海市西彼町

西海市西彼町の主な史跡。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の750〜766頁による説明は次のとおり。項目の数字は一部調整。

第二章 史 跡 (中世・近世の史跡)

写真  1〜  3    1 石鍋製作跡

西彼杵半島の山中では、古くから平家の落人が隠れ住み、石で作った鍋や釜を使っていたと言われてきた。今日では、各地で石鍋やその製作跡が発見されているが、中世史の研究によって、西彼杵半島は全国でも珍しい一大生産地であったことがわかり、石鍋の製造法や用途などが解明された。
石鍋研究の歴史は、八重津輝勝、内山芳郎による大瀬戸町春山山頂の石鍋製作跡の調査から始まった。西彼杵半島に分布する「西彼杵変成岩」の岩脈帯に点在する「温石(おんじゃく)層」は、硬度1〜2度の軟質で加工がしやすく、油性に富むため、さまざまな用途に利用された。中でも石鍋製作跡は各所に見られ、雪ノ浦川上流のホゲット石鍋製作所遺跡は国の史跡である。

昭和48年(1973)以降、製作地の詳細な調査が進み、生活遺跡からの出土品や、たき火跡の木炭の年代測定から、平安時代〜室町時代末期頃まで製作され、煮炊具として使われていたことがわかった。
鎌倉末期の『厨事類記』には、山芋粥を作るとき、アマズラを入れて「石鍋ニテニル」とあり、天文4年(1535)の『武家調味故実』には壺焼き料理の項に「石鍋に酒を入れて煎る」と記され、長期にわたって煮炊き道具として利用されたことが確かめられた。

製法は滑石層の岩盤面や岩塊表面に30〜40cmの升目を引いて、そこから円錐台、四角錘台の粗形を彫り取る。その中をくり込んで成形し研磨して仕上げた。形は器の周囲に鍔のあるものや、二対の直方体の耳つきの鍋などがある。製作跡に残るものは、表面に粗いのみ跡をとどめていて、工作過程がよくわかる。
西彼町にも多くの遺跡が確認されており、県の遺跡登録も10ヵ所にのぼる。また、大串郷・永田留義史談会長らの現地調査では、地図に示すように30ヵ所が確認された。

大型遺跡である平山郷字忠五郎「下茅場遺跡」は、現在建設中の広域農道ルートにかかるため、県文化課と町教育委員会共同で発掘調査の結果、きわめて良質な石鍋製作遺跡であることがわかった。
このため、耕地事務所も農道ルートを変更し一部高架の措置を講じ、7ヵ所の遺構のうち5ヵ所が現地に保存されることとなった。埋没を免れない2ヵ所の遺構は、町農村環境改善センターと体育館入口にそれぞれ移されて展示保存されている。
製造された石鍋は、畿内から鎌倉まで運ばれ、一説では、その運送を担ったのが「海夫」と呼ばれる海民であったとされる。八木原郷鍋ノ浦、喰場郷の温石原、ナベシ谷、平原郷鍋石谷など、石鍋にちなんだ地名も残っている。

写真  4〜  8    2 御腰懸石と御茶の水

白崎郷字膝行神母衣崎の海辺にある。大村氏の大祖、藤原直澄入郡の際の上陸地として、昭和46年(1971)9月、町史跡に指定された。現在は四本堂公園の一部となり、オートキャンプ場下の海岸、四阿屋の脇に御腰懸石がある。傍に標石があり、表面に「御腰懸石」、裏面に「寛政年中大村信濃守純鎮建之」と刻んでいる。

大村家譜によると、平安時代に朝廷に叛いて討たれた藤原純友の孫である直澄が伊予大洲の山中で成育した。純友の没後40数年を経て、朝廷は純友を許し、直澄を従五位下遠江権守に任じて、肥前の国の内、藤津郡、彼杵郡、高来郡の三郡を賜ったという。
正暦5年(994)、直澄が海路下向の途中、伊ノ浦の瀬戸を渡り、母衣崎に休憩のため上陸したとき、村民が出迎えて母衣をめぐらし、土地の豪族椎野大膳らも加わって着郡を祝ったという。

腰懸石から200mほどの磯辺に湧水がある。この水で直澄に茶を供したことからお茶の水の標石が立っている。直澄は大串の者の案内で、彼杵郡玖原の里寺島(大村市前舟津郷)に上陸し、以後「大村」を姓とした。
(注)大村氏の祖が藤原純友の孫直澄で、前記3郡を得て下向してきたという由来は、これまで定説であったが、近年の研究では否定説が強い。

写真  9         3 刎木(はねぎ)の古城跡

八木原郷天満宮の北にある小高い丘は城の辻と呼ばれ、刎木の古城跡である。この城も八木原氏が築いたものと推考されるが、八木原氏を授けて中浦方と戦った武将、志田三郎もここに拠ったと伝えられる。城跡から南に下った森に志田三郎の墓とされる石祠が建っている。
『大村家記』に「羽木古城在八木原村 大手南方石垣高サ五寸長サ二十間、本丸百十坪、腰郭石垣高サ六尺或ハ五尺、廻リ百間余リ、東ハ海、西ハ険阻、北ニ用水有リ」とある。  

西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

西彼町の巨樹・名木  西海市西彼町

西海市西彼町の巨樹・名木。西彼町教育委員会「西彼町郷土誌」平成15年発行の774〜
776頁による説明は次のとおり。

第二節 天然記念物(自然木)

町内の各地に年輪を重ね、住民に親しまれてきた古木の保存ならびに天然記念物指定について、以前から各郷の役員有志から陳情書が出され、教育委員会の文化財保護審議会でも研究を重ねてきた。
平成11年(1999)度から、県教育委員会文化課の協力を得て、それぞれの樹種、樹齢、環境などについて現地調査がおこなわれ、次の5件が(旧)町の天然記念物の指定を受けた。

写真  1〜  3    1 八木原天満宮の大楠と社叢(八木原郷)

拝殿左手のクスの巨木2本。社叢は古代の原植生の姿を残している。この森林群落は「シイ・ミミズバイ群集」と呼ばれる照葉樹林の断片である。タブ、ハゼ、アラカシなどの巨木は特筆に値する。
クスノキ…①幹回り5.5m ②同6.0m  ③同(2本)10.5m
ハゼノキ…幹回り2.7m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/663

写真  4〜  6    2 洲崎神社の社叢(大串郷網代)

ムクロジとスダジイの巨木が多い。スダジイ(椎)が天然記念物に値すると評価された。
シイノキ・・・幹が4本に分かれ、幹回り各2m、根幹部8.4m。このほか幹回り5.0mの古木もある。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/662 

写真  7〜  9    3 鳥加郷のユーカリの木(鳥加郷大徳寺下)

大村市西経寺の幹回り3.7mに次ぐ、県内第2位の大きさを持つ。幹回りが2.9mある。樹齢約130年、高さ15m。
(参 照) https://misakimichi.com/archives/661

写真 10〜 12    4 平原郷のカゴノキ(平原郷清正公参道)

樹齢4、5百年。山地中腹の照葉樹林に生えるクスノキ科の木本植物。この木はかつて森林の中に生えていた樹木の名残と思われる。県下有数の巨木で、天然記念物の評価を受けた。
カゴノキ・・・幹回り3.2m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/657

写真 13〜 14    5 亀浦郷小干の大楠(亀浦郷)

西小干にあり、樹齢4、5百年といわれる。上の川と呼ばれる湧き水のすぐ上に生えていて、形状の整ったクスノキの巨木である。
幹回り5.6m、高さ約20m
(参 照) https://misakimichi.com/archives/659