投稿者「misakimichi」のアーカイブ

野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓  ( 宮崎県 )

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野尻城跡の井戸  小林市野尻町東麓 

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市の東方、国道268号野尻町光雲寺角の東仲町交差点から県道42号に入り、約1kmほど南下すると、右側の市道分岐に「野尻城跡の井戸」の案内標識がある。右折してこの道を城之下橋を渡り登って行く。田に出て右側の農道を案内標識によりUターンするように登って進むと、やがて「野尻城跡の井戸」に着く。

野尻城跡の井戸 のじり
小林市 野尻町東麓 石井戸 中世 市史跡 市教委 枠石は江戸期のもの 野尻城・新城の第2郭のほぼ中央(居館跡と推定)にある井戸 3 C

現地説明板は、次のとおり。

市指定史跡 野尻城井戸跡   指定年月日 平成元年11月4日
この井戸跡は、南北朝時代から天文年間(戦国時代の末期)に造られた貴重な遺構である。
伊東48城の1つで、西諸地域における守備の拠点としての役割を持っていた野尻城「新城」の第二郭のほぼ中央にあり、素掘りの井戸で、井桁もなく江戸初期の廃城令後も数百年放置されたままであったが、小林市(旧野尻町)教育委員会が、往時の古井戸の役割を想像し、昭和62年11月に現在の保存状態に改善したものである。
この井戸が存在する位置などから、城内の居住者たちに清涼な飲料水を供給したと推察されるが、井戸内の遺物や水質など詳細は不明である。
平成26年10月  小林市教育委員会

広原の石敢當  高原町大字広原字井手ノ上 ( 宮崎県 )

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広原の石敢當  高原町大字広原字井手ノ上  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。小林市から県道405号により
JR吉都線広原駅入口の高原町広原交差点まで行く。広原小学校の校庭側道を回り込んで進むと、王子神社前の三叉路に着く。王子神社の参道口石段右側に立つのが、広原の石敢當である。

広原の石敢當 ひろわら
(西諸県)高原町 (井手上) 石敢當 高50㎝,幅25㎝,厚6㎝ 天明5(1785) 日本の石敢當p127 不詳 –

享保用水路  えびの市大字大河平  ( 宮崎県 )

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享保用水路  えびの市大字大河平  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点から、川内川の上流「クルソン(狗留孫)峡」の方へ向かうと、林道脇に享保用水路が流れる。享保水路地図参照。
クルソン大橋分岐に「享保水路説明板」があり、これからバラス林道に入り石床の立石林業(株)山林詰所近くに「享保水路記念碑」、しばらく先に進むと「享保水路井堰」があり、ここが川内川からの取水口である。
下流側の「享保水路太鼓橋」は、前記事とした。国道221号八幡岳公園入口のところに「享保水路改修之碑」があった。一部当時のままの区間があるようだが、どこかわからなかった。

享保用水路 きょうほう
えびの市 川内川 用水路 長6.8㎞,幅2.1m 享保17(1732) WEB 昭和7-10、54-60に大改修/一部当時のまま 川内川上流から取水し、飯野平野一帯の水田を潤す用水路/言い伝えによると、瑞山寺の僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、測量器具のない時代、提灯をあちこちに置いて土地の高低差を測り、苦労をして造られたとされる 3 C

文化遺産オンラインによる「享保水路井堰」の説明は、次のとおり。

享保水路井堰 きょうほうすいろいぜき

近代その他 / 明治 / 九州
宮崎県
明治/1906/1914・1926-1988改修
石造、堤長31m、堤高2m
1基
宮崎県えびの市大字大河平字石床地先
登録年月日:20040217
上方土地改良区

登録有形文化財(建造物)

享保水路へ用水を取り入れるために川内川上流に築かれた取水堰。堤長31m,堤高2mで,下流側の法勾配を約1割とした布積の石造堰に石張の水叩が連続する精緻なつくりの石造構造物。えびの市東部316haの農地を潤してきた灌漑用水の要となる施設。

享保水路太鼓橋  えびの市大字大河平 ( 宮崎県 )

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享保水路太鼓橋  えびの市大字大河平  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点に「めがね橋」案内標識あり、有馬川の左岸上流へ向かう。公園の左下に前記事の「めがね橋」が架かり、「めがね橋」からさらに約400mほど上流に進むと、「享保水路太鼓橋」がある。享保水路地図参照。

享保水路太鼓橋 きょうほう
えびの市 (大河平) 享保水路/有島川 石アーチ橋(水路) 長34m(A),幅9.6m 明治3(1870) 国登録 WEB(石橋) 1850頃に架設され、明治3に大修理が加えられたと書いてある場合も多いが、ここでは明治3の「大修理」が石アーチ化された時期と判断する→対象外

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№25 享保水路太鼓橋

えびの市大字大河平 字土川
有島川
橋長:34.0m  環厚:50cm
完成:明治3年(1870年)

国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり。
そこから県道404号線へ入り、約300m先案内板の立っているところより右折
道なりに進み約1.3Km、左手に「めがね橋」あり。
そこから約400m進むと左手にあります

享保水路太鼓橋 国登録有形文化財
太鼓橋の歴史
「太鼓橋は、110×50×50cmの石を積み上げた用水路兼農道専用の橋で、この地に江戸末期(1850年ごろ)構築されたと言われています。
それ以前は大雨のたび、有島川を横断する水路が流失していました。しかし、この橋を架けてからは、その心配もなく、現在でも飯野平野を潤す享保用水路の重要な一部を担っています。」
えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

「太鼓橋は、享保水路の途中にある有島川を越えさせるための石橋で、橋の中央を幅1.6mの水路が通り、両側に幅西3.5m東4.5mの農道がついている。
この橋ができる以前は、約200mほど上流を木桶で通水していたらしいが、もっと多量の通水を可能にするために、この橋が造られたという。
二重積みアーチ型で、橋の壁石は、勾配をつけて積み上げられていて、しかも、勾配の途中で段差がつけられていて、珍しい型とされている。
建造年月日は不明であるが、“忠義公資料”に“此溝筋ヲ今三四尺程モ相弘メ・・・本陣原堀続キ、中途太鼓橋一ケ所ヲ架シ、谷合ヲ越シ、溝ニ仕建(此橋凡長十四・五間位)候得バ・・・”とあり、一方、“西諸懸郡誌”によると、明治3年に鹿児島藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加え・・・とあり、市来正右衛門の建議後四年にして架橋が実現したとみるのが妥当である。
大正八年の“飯野村村治要綱”の中で、クルソン山端山寺の古文書“開田恩賞の墨付”について、水路成功の恩賞たるを知るべし・・・とあり、さらに、明治三年薩藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加えたり、大河平太鼓橋の如き就中大工事なりき・・・・。と記されている。」
えびの市教育委員会

享保用水路の歴史
「本用水路は、川内川上流(旧飯野村大河平通称いいのフランス山上流約200m)に井堰を設け、飯野平野一帯の水田を潤す水路として、享保17年(1732年)に完成しました。
伝説によれば、瑞山寺のある僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、私財を投じ、工事は実行にうつされたそうであります。総延長6,800m、幅21mの工事は、途中随道が5ヶ所もあり、当時は測量器具もなく、夜に提灯をあちこちに置いて土地の高低を測り、大変な苦労をして造ったといわれています。
その後、災害を受けたり、古くなったため、昭和7〜10年と昭和54年〜60年にかけて、井堰と用水路の大改修が行なわれました。
この水路の運ぶ水のおかげで、現在でも、「えびの」米で有名な米を中心にさまざまな作物が作られ、地域の発展に大きく役立っています。」
えびの市耕地課・宮崎県農村建設課

めがね橋(月乃木川拱橋)  えびの市大字大河平 ( 宮崎県 )

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めがね橋(月乃木川拱橋)  えびの市大字大河平

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。国道221号えびの市五日市交差点に「めがね橋」案内標識があり、有馬川の上流へ進む。所在図参照。

№10  めがね橋(月乃木川拱橋)

えびの市大字大河平
国登録有形文化財
形式:3連石造アーチ
橋長:58.2m  径間:14.7m+28.8m+14.7m  橋幅:2.3m(全幅3.16m)  橋面高:17.2m(アーチ天端まで
15.2m)
完成:昭和3年
(串木野村)福田休太郎
下青木 某・小門 某

国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり
そこから県道404号線へ約300m先案内板の立っているところより右折
道なりに進み約1.3Km、坂を上ったところ左手に案内板あり

国登録有形文化財
「この橋は川内川最上流の大平官行から吉都線飯野駅までの約30キロのトロッコ軌道の一部として、熊本営林局により木材搬出用に造られたものである。石造3連アーチをもち、正式には「月の木川橋」といい、昭和3年(1928)に完成した。木材でやぐらを組み、それに基づいて50センチ角の石を積み重ね、アーチの一番真中に親石として五角の石が組み込まれている。
鹿児島県串木野の肥田佐兵衛氏が請負、切石は、この有島川の上流から木馬で運び出されたと言われる。軌道は、昭和37年(1962)に廃止され自動車が通るようになったが、安全上の理由で通行止めとなり、現在、人だけ通る道となっている。」
えびの市教育委員会

飯野の大イチョウ  えびの市大字原田 ( 宮崎県 )

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飯野の大イチョウ  えびの市大字原田  

えびの市HPによる説明は、次のとおり。国道221号えびの警察署入口交差点の手前からえびの市飯野出張所へ入る市道に左折する。

飯野の大イチョウ

島津義弘が病で亡くなった長男鶴寿丸の供養に植えた供養樹で、市役所飯野出張所の敷地内にあります。
江戸時代には、地頭仮屋(役所)がおかれていましたが、明治には小学校として改称。その後、西南の役で戦火に遭いイチョウも幹の一部が焼けてしまいましたが、今なお健在です。秋には巨木に茂るその葉が美しい黄金色に染まります。県指定文化財。

原田の石敢當  えびの市大字原田   ( 宮崎県 )

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原田の石敢當  えびの市大字原田  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。国道221号えびの警察署入口交差点の手前からえびの市飯野出張所へ入る市道に左折する。原田の石敢當は、えびの市飯野出張所の東側敷地の道路角に立つ。
裏面に「元禄二年」の銘があるが、これは写し忘れのため、同サイトから画像を借用する。左横のは庚申塚という。 

原田の石敢當 はらだ
えびの市 えびの市飯野出張所・前 石敢當 高112㎝,幅53㎝ 元禄2(1689) 市有形 日本の石敢當p121/WEB 原位置? 大法師盛意により建立/日本で2番目に古い紀年銘をもつ石敢當(現時点での日本最古は、鹿児島県の松山町泰野の石敢當の元和2(1616)) 1 A

榎田関・跡  えびの市大字榎田字牧ノ原 ( 宮崎県 )

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榎田関・跡  えびの市大字榎田字牧ノ原  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。加久藤トンネルから国道221号をえびの市へ下って行くと、山椒茶屋の500mほど手前の左側市道分岐のところに史跡案内板があり、この山道を少し登ると、旧街道に関所門モニュメントが建っている。
「現在でも林の中に石垣や礎石が残されている」とあるが、どれか確認はできなかった。 

榎田関・跡 えのきだ
えびの市 榎田 関所 江戸期 県史跡 市教委/WEB 石垣や礎石が残る→雑草に覆われて見えない(写真の史跡柱の右下の石はその名残りと思われる) 薩摩から肥後の人吉(相良藩)に通じる球磨街道の関所(薩摩藩の9つの関所の1つ)/番所には牧ノ原の郷士が2人ずつ1日交代で勤務し、人々や物資の通行に対して厳重な取締りを行っていた 4 C

宮崎県教育委員会HP「みやざき文化財情報」による説明は、次のとおり。

榎田関跡  ( えのきだせきあと )

指 定 者  県
種   別  史跡
指定年月日  S8.12.5
所 在 地  えびの市大字榎田字牧ノ原557-1

榎田関跡は、牧ノ原を経て肥後(熊本県)人吉に出る加久藤越えの登り口にあり、現在でも林の中に石垣や礎石が残されている。
正式には「求麻口(くまぐち)番所」といわれており、江戸時代に薩摩から肥後人吉の相良藩へ通じる球磨街道に置かれていた境目番所跡で薩摩藩内重要関所(9ヶ所)の一つに数えられていた。
番所には牧ノ原の郷士が2人ずつ1日交代で勤務し、人々や物資の通行に対して厳重な取締りを行っていた。天保8年(1837)頃には、番所役宅や定番住居が置かれるようになったが、明治維新でその役割を終えた。
※境目番所=本街道の藩境に置かれた関所。なお、薩摩藩では関所のことを番所と呼んでいた。

JR吉都線えびの駅本屋  えびの市大字栗 ( 宮崎県 )

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JR吉都線えびの駅本屋  えびの市大字栗

国登録有形文化財(建造物)。文化遺産オンラインによる説明は、次のとおり。国道268号えびの市役所入口交差点からえびの駅へ向かう。

JR吉都線えびの駅本屋(えびのえきほんおく)

建造物 / 大正 / 九州
宮崎県
大正/1912
木造平屋建、瓦葺、建築面積224㎡
1棟
宮崎県えびの市大字栗下字四反田82-2
登録年月日:20140425
えびの市

登録有形文化財(建造物)

JR吉都線の駅舎で北面して建つ。桁行九間半梁間四間、切妻造、平入の木造平屋建で、プラットホーム側に上屋、入口廻りに下屋を張り出す。下見板張と真壁からなる外観、出札口、荷物扱口、待合室ベンチ等の造作をよく残し、往事の鉄道景観を今に伝える。

加久藤城跡  えびの市大字小田 ( 宮崎県 )

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加久藤城跡  えびの市大字小田

現地説明板は次のとおり。島津氏の城跡。えびの市加久藤の市街地の北東にあり川内川の支流に面し比較的 大きな城だったが、現在はだいぶん破壊されている。
国道268号と221号が交差する川原交差点そばの丘の上にあり、国道221号沿い東側、次の松原交差点手前に入口案内板がある。

史跡 加久藤城跡 (昭和49年1月24日 市指定)

島津忠平公(義弘)は、永祿7年(1564年)5月加世田より北原氏の属城であった久藤城を修補して、加久藤城として、ここに移った。時に3才であった。同年11月17日、城主北原兼親が伊集院に、移封されると同時に飯野城に移った。加久藤城には5男1女をもつ広瀬夫人を置き、老臣川上三河守忠智をして、ここに守らしめた。加久藤城は元亀3年(1572)5月4日 木崎原合戦において、伊東勢攻撃の主目標となったが、伊東勢は攻略に失敗し、木崎原に退き大合戦となり、壊滅的敗戦を喫した。
えびの市教育委員会