榎田関・跡  えびの市大字榎田字牧ノ原 ( 宮崎県 )

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榎田関・跡  えびの市大字榎田字牧ノ原  

サイト「近世以前の土木・産業遺産」宮崎県リストによるデータは、次のとおり。加久藤トンネルから国道221号をえびの市へ下って行くと、山椒茶屋の500mほど手前の左側市道分岐のところに史跡案内板があり、この山道を少し登ると、旧街道に関所門モニュメントが建っている。
「現在でも林の中に石垣や礎石が残されている」とあるが、どれか確認はできなかった。 

榎田関・跡 えのきだ
えびの市 榎田 関所 江戸期 県史跡 市教委/WEB 石垣や礎石が残る→雑草に覆われて見えない(写真の史跡柱の右下の石はその名残りと思われる) 薩摩から肥後の人吉(相良藩)に通じる球磨街道の関所(薩摩藩の9つの関所の1つ)/番所には牧ノ原の郷士が2人ずつ1日交代で勤務し、人々や物資の通行に対して厳重な取締りを行っていた 4 C

宮崎県教育委員会HP「みやざき文化財情報」による説明は、次のとおり。

榎田関跡  ( えのきだせきあと )

指 定 者  県
種   別  史跡
指定年月日  S8.12.5
所 在 地  えびの市大字榎田字牧ノ原557-1

榎田関跡は、牧ノ原を経て肥後(熊本県)人吉に出る加久藤越えの登り口にあり、現在でも林の中に石垣や礎石が残されている。
正式には「求麻口(くまぐち)番所」といわれており、江戸時代に薩摩から肥後人吉の相良藩へ通じる球磨街道に置かれていた境目番所跡で薩摩藩内重要関所(9ヶ所)の一つに数えられていた。
番所には牧ノ原の郷士が2人ずつ1日交代で勤務し、人々や物資の通行に対して厳重な取締りを行っていた。天保8年(1837)頃には、番所役宅や定番住居が置かれるようになったが、明治維新でその役割を終えた。
※境目番所=本街道の藩境に置かれた関所。なお、薩摩藩では関所のことを番所と呼んでいた。