投稿者「misakimichi」のアーカイブ

金剛福寺  高知県土佐清水市足摺岬

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金剛福寺  高知県土佐清水市足摺岬

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

金剛福寺

金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。宗派は真言宗豊山派 。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま

沿 革
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。
歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。

鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる[1]。
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。

境 内
山門を入ると左手に弁財天、不増不減の手水鉢、鐘楼がある。右手の納経所を過ぎ、正面奥に本堂が建てられている。本堂より右のほうに不動堂、多宝塔があり、その先に和泉式部の逆修塔がある。本堂左手の池の畔を行くと愛染堂、権現堂、行者堂があって大師堂に至る。本堂前の池の前には奉納された所願成就の亀の像が安置されている。

白山洞門  高知県土佐清水市足摺岬

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白山洞門  高知県土佐清水市足摺岬

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。
最後の写真は、県道27号線脇の展望所(万次郎足湯 無料)から望む。

白山洞門

白山洞門(はくさんどうもん)は、高知県土佐清水市足摺岬にある海蝕洞である。高知県の天然記念物に指定されている。

概 要
足摺岬の西方にある。花崗岩で形成された岩盤が波の浸食により洞門となった。足摺岬周辺には海蝕洞が数多く見られるが白山洞門が最大規模である。高さ16m、幅17mで花崗岩の海蝕洞では日本一の規模であるとされる。昭和28年(1953年)1月16日に高知県の天然記念物に指定された。

高知県道27号線脇の展望所から眺めることが出来る。また、洞門近くまで遊歩道が整備されており間近に見ることも出来る。
岩峰の頂上には白山神社が祀られているが、上部は岩場となっており、手摺や鎖場は設けていないため遊歩道脇にある鳥居より遙拝することを呼びかけている。

足 摺 岬  高知県土佐清水市足摺岬

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足 摺 岬  高知県土佐清水市足摺岬

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

足 摺 岬

足摺岬(あしずりみさき)は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋に突き出る足摺半島の先端の岬。足摺宇和海国立公園に指定されている。
北緯32度43分24秒、東経133度1分12秒。付近にはこれより低緯度にも小島が散在し、四国本島としても、長碆(ながはえ)地区等の存在から、実際にはわずかに四国最南端ではないが、一般には四国最南端の地(岬)として認識されている。

足摺崎の読みは本来「あしずりざき」が正式呼称であったが、観光地化の進展に伴い論議を経て通称の「あしずりみさき」が正式呼称となった。
高知県を代表する観光地の一つで、JR四国・土佐くろしお鉄道の特急「あしずり」にもその名が採られている。

地 誌
足摺半島南東端に位置、黒潮の打ち寄せる断崖は約80mの高さをもつ。周囲はツバキ・ウバメガシ・ビロウ等の亜熱帯植物が密生。沖合いはカツオの好漁場。一方で台風銀座でもあり、しばしば暴風に見舞われる。

足摺半島西岸、中浜の漁師であり、幕末の政局に大きな役割を果たしたジョン万次郎(中浜万次郎)の銅像が立つ。万次郎の遺品や当時の捕鯨・航海についての資料を展示した「ジョン万ハウス」も、岬から500m西に設置されていたが、建物の老朽化により、2006年(平成18年)4月、あしずり港内にある「海の駅」2階へ、同ハウスにあった観光案内所は足摺岬展望入口に移転した。

各所からは日の出、日の入りが一望できる。明るく温暖な南向きの岬である。「自殺の名所」と言う暗いイメージは田宮虎彦の小説「足摺岬」に拠る所が大きく、有名になった反面、マイナスのイメージが生まれてしまった。

信 仰
南方にある浄土へ渡るという「補陀洛信仰」(→補陀洛山寺)の舞台であり、中世には紀伊(和歌山県)の那智勝浦と並ぶ、「補陀落渡海」の船の有名な出発地であった。田宮虎彦の小説「足摺岬」はこうした歴史を背景とした作品である。この小説をきっかけに、自殺が急増した時期があり「ちょっと待て、もう少し考えよ」という自殺防止用の看板が立てられた。

歴 史
・1914年(大正 3年) – 足摺崎灯台が点灯
・1955年(昭和30年) – 足摺岬国定公園に指定
・1965年(昭和40年) – 「足摺崎」から「足摺岬」へ改称
・1972年(昭和47年) – 足摺宇和海国立公園に指定変更

入野海岸  高知県幡多郡黒潮町

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入野海岸  高知県幡多郡黒潮町

四国ツーリズム創造機構サイト「巡るめく四国」による解説は、次のとおり。

入野海岸 
長さ約4㎞・幅約200mの広大な砂浜を持つ、日本の渚百選にも選ばれた海岸。そこに存在する自然や人すべてが作品であるという「砂浜美術館」構想を掲げ、約1,000枚のTシャツを砂浜に展示する「Tシャツアート展」や、砂浜をはだしで走る「シーサイドはだしマラソン全国大会」、「潮風のキルト展」など年間通じて多くのイベントが行われる。砂浜の背後にはキャンプ場もあり、夏にはサーフィンなどのアウトドアを楽しむ観光客で賑わう。
所在地 高知県幡多郡黒潮町入野
アクセス 須崎ICより車で約70分、土佐くろしお鉄道土佐入野駅より徒歩10分

四万十の檜仙人  高知県四万十市西土佐

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四万十の檜仙人  高知県四万十市西土佐

四国森林管理局HP「森の巨人たち100選」管内にある7箇所の紹介による解説は、次のとおり。江川崎から国道441号へ入り、西土佐大橋の方へ渡る。カヌー館の所の四万十パーク案内マップの横に、「四万十の檜仙人」の案内図があるそうが、見落とした。

藤ノ川入口から未舗装林道を、堂ヶ森(標高857m)の山頂近く「西土佐郷土の森」へ延々と上がる。駐車場から堂ヶ森登山道を尾根東屋まで10分ほど登ると、すぐ先に「四万十の檜仙人」が立つ。一般公募の名称。近くの切り株の方が大きかった。

76.四万十の檜仙人

幹周り 333cm
樹高 33m
樹齢 200〜290年
所在地 高知県四万十市西土佐

「四万十の檜仙人」は西土佐郷土の森に指定されている国有林にあります。
登山口には案内板が設置されており、遊歩道を登って行くと東屋があり、周囲には巨大な天然ヒノキの群落が現れ、時代を遡ったような感じがします。
近くには、人々の信仰を集めた霊山・堂ヶ森もあります。

西土佐郷土の森
四万十川流域に住む人々から親しまれてきた天然ヒノキの名林を後世に引き継ぐため、平成3年4月に「西土佐」郷土の森として、四国森林管理局と四万十市西土佐との間で保存協定が締結されました。
また、隣接する「若人の森」とあわせて、林内には歩道、休憩所が整備されており、森林浴などの散策に最適です。

下津井めがね橋  高知県高岡郡四万十町

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下津井めがね橋  高知県高岡郡四万十町

現地説明板の「めがね橋の歴史」、及び四万十町HP「四万十町所有文化財情報」歴史・文化2による解説は、次のとおり。

めがね橋の歴史
めがね橋は昭和16年〜19年のダム建設での軌道の敷設替により電力側で建設した物で、もとの軌道は橋脚部を通っていた。橋の完成は昭和19年と思われる。高さは約20m、橋の幅は2mほどである。
この橋は当時の橋としては営林署の最高の土木技術を駆使して作り上げられた自慢の橋であったので、その美しい景観は町民の人々の誇りであり、親しみを込めてめがね橋と呼ばれている。

下津井めがね橋
所在地 高知県高岡郡四万十町下津井
下津井は山に囲まれ、緑に包まれた閑静な郷です。梼原川のそのまた小さな枝流、払川に架かるのが佐川橋、通称「下津井のめがね橋」。津賀ダムの湖畔に映る姿が眼鏡のように見えることからこう呼ばれています。
橋は、かつて林業がさかんだった頃走っていたトロッコ列車の軌道橋として昭和19年頃完成したものと思われます。郷愁を誘う橋桁の優雅な曲線は、土地の風景にすっかりとけ込んで、ノスタルジックな姿を今も留めています。
また、県の近代化遺産にもなっています。

ユス谷川橋・旧大正林道ユス谷川橋  高知県高岡郡四万十町

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ユス谷川橋・旧大正林道ユス谷川橋  高知県高岡郡四万十町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータ、文化遺産オンライン、及び四万十町HP「四万十川流域の文化的景観」による解説は、次のとおり。
現地は、国道439号の小石清流橋を渡って、小石トンネル手前から下流側の方へ旧国道(現町道)に入ると、わかりやすく近い。今、資料を調べると、町道に架かるのが石橋「ユス谷川橋」、下流側に寄り添って一段下に架かるRC橋が「旧大正林道ユス谷川橋」だった。

2橋とも2008年3月7日、国の登録有形文化財(建造物)に指定された。3枚目写真は、「旧大正林道ユス谷川橋」の上に立って、上流の「ユス谷川橋」を写しているが、肝心な足下の「旧大正林道ユス谷川橋」は写していない。
川に降りないと確認できない橋だった。美しい2ショット写真を、私は完全に撮影し忘れたので、上記石橋HPの贄田様にお願いし、最後の画像をお借りした。

№3,922   ユス谷川橋

高知県高岡郡四万十町字江師(旧幡多郡大正町)
ユス谷川
橋長:8.2m  橋幅:3.1m  径間:5.4m  拱矢:2.7m
架設:昭和10年頃
ここも現存するかしないか分からないところでした
役場に問い合わせてもユス谷川橋はご存知ありませんでしたので、大正林道の場所を教えていただきたどり着きました。
左手下流側に寄り添って架かるRC橋は旧大正林道ユス谷川橋。すぐ下流は梼(ゆす)原川。

旧大正林道ユス谷川橋

高知県高岡郡四万十町字江師(旧幡多郡大正町)
橋長:8.0m  橋幅:2.0m  径間:5.1m
右手ユス谷川橋の下流に並んで架かっています。

ユス谷川橋 ゆすたにがわばし
高知県
昭和前/1935頃
石造及び煉瓦造単アーチ橋、橋長8.2m、幅員3.1m
1基
高知県高岡郡四万十町字江師
登録年月日:20080307
四万十町
登録有形文化財(建造物)
旧大正林道ユス谷川橋の東側に架かる道路橋。橋長8.2m、スパン5.2m、幅員3.1mとした半円アーチ形の単アーチ橋で、アーチ部分を3枚厚の煉瓦で築くほかは、間知石の布積とする。煉瓦と石材を使い分け、精緻に築かれた小規模なアーチ橋。

旧大正林道ユス谷川橋 きゅうたいしょうりんどうゆすたにがわばし
高知県
昭和前/1944
鉄筋コンクリート造単アーチ橋、橋長8.0m、幅員2.0m、石垣付
1基
高知県高岡郡四万十町字江師
登録年月日:20080307
登録有形文化財(建造物)
四万十川水系梼原川左支流ユス谷川の最下流部、梼原川との合流点近くに架かる。橋長8.0m、スパン5.1m、幅員2.0m、半円アーチ形の鉄筋コンクリート造単アーチ橋で、両岸には表面布積の石垣を連続的に築く。梼原川沿いに築かれた旧大正林道関連施設。

7 旧大正林道ユス谷川橋
9 ユス谷川橋

所在地/四万十町江師
管理者/四万十町
ユス谷川は、四万十川支流梼原川に注ぎ込む谷川で、工法が異なる2つの時代の橋が架かっている。一つは、町道から見過ごしてしまう位置にあるが、旧国道439号線に平行して架橋されていた森林鉄道橋である。この橋は、昭和初期に旧大正林道の橋梁として建造されたもので、連日、機関車に引かれ木材を満載したトロッコがこの橋を通行し、四万十川流域で活発に展開された国有林事業を支えた。
もう一つは、昭和10年頃に郡道松原線旧大正〜梼原間の橋梁として建造され、国道439号線に引き継がれた国道橋である。現在は、国道の改良工事でルートが変更され、町道となっている。この2つの橋は、四万十川流域の奥山から産出される農林産物の搬出をはじめ、上・下流域の集落間の流通・往来に大きな役割を果たし、近代期の山村地域の発展を支えた。また、素材、工法、目的の違う二つの橋は、河川を使った筏流しや高瀬舟から森林鉄道、その後のトラックの輸送へと、四万十川流域における流通・往来の歴史とその変遷を今に伝える貴重な存在である。

区ー特 山川河内と潮見の旧道峠  (確認 長崎要塞区域標 第二十七号)

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区ー特 山川河内と潮見の旧道峠  (確認 長崎要塞区域標 第二十七号)

2012年10月21日(日)、網場金比羅岳と不動山に登り、太田尾町山川河内へ下った。山川河内公民館前の道角に、茂木町郷土史に記録がある大正12年の道案内標石が転がっている。
次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5429
標石が示す「矢上道」を通って潮見町上の峠へ出た。車道ができる前の街道。農道と出合った峠で、思わぬ標石をN氏が発見。

御幣を巻いていたが、外すと刻面があり、「長崎要塞区域標」「第二七号」「陸軍省」「明治三十二年六月十日」。網場金比羅岳山頂のが、「第二十八号」だから、1つ前の番号である。
峠から潮見町へ農道の下りで、網場金比羅岳を見上げる場所。太田尾町などで当時、だいぶん聞き込みをしたが、話がなかった要塞標がここで見つかった。昔の街道を歩いた甲斐があった。

最近2年、伊王島沖ノ島の遠見岳、戸町岳新戸町登山口、立山金比羅山の砲台山中腹、田上小国民資料館の庭、東長崎田川内公民館裏、そして今回と、立て続けに6本の標石が見つかっている。私たちが確認した長崎要塞地帯標の標石は、総数30本となった。

網場金比羅岳から不動山と山川河内へ  2012年10月

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網場金比羅岳から不動山と山川河内へ  2012年10月

2012年10月21日(日)快晴。網場金比羅岳(標高278m)から不動山(標高354.8m)と山川河内へ。参加10人。みさき道歩会の例会。後ろ2枚が、帰りに網場天満神社手前で見た網場金比羅岳と、最近できた日見地区シベリア抑留者慰霊碑。
網場天満神社10:15—一の鳥居10:31—網場金比羅岳11:31—公園広場(11:45 昼食 12:30)—不動山12:49→山川河内13:55—旧道峠14:36—潮見町14:45—網場天満神社15:30(徒歩距離 約8km)

網場天満神社前の海岸に駐車し歩き出す。きょうは神社の日見くんちだった。住宅地上の一の鳥居から網場金比羅岳へ、昔の参道の登山道を登る。金比羅神社と山頂展望台に11:31着。公園広場に下り東屋で昼食。

午後は、石祠のある不動山のピークまで登り、南方尾根を約1時間で山川河内集落へ下った。ほとんど歩く人がいないと思われる尾根道だが、登山コースに使える道だった。
山川河内公民館前の道角には、茂木町郷土史に記録がある大正12年の道案内標石が転がっている。次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5429

現在の県道34号には下らず、この標石が示す「矢上道」を通って潮見町上の峠へ出た。車道ができる前の街道道である。たいしたヤブはなく、まだ歩ける旧道だった。農道と出合った峠で、思わぬ標石(写真16)をN氏が大発見。
御幣を巻いていたが、外すと「長崎要塞区域標 第27号」。網場金比羅岳山頂のが、「第28号」だから、1つ前の番号となる。これは別記事で詳しく報告する。
潮見町へ下って県道により網場天満神社前へ15:30戻った。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30208745.html

北の川口橋  高知県高岡郡四万十町

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北の川口橋  高知県高岡郡四万十町

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータ、及び四万十町HP「四万十川流域の文化的景観」による解説は、次のとおり。

№3,921   北の川口橋

高知県高岡郡四万十町昭和(旧幡多郡大正町)
北の川
橋長:18.0m  橋幅:3.4m  径間:13.2m  環厚:63cm
架設:大正8年(1919)
橋の名前となっている「北の川」を探してたどり着きました。
国道381号線の旧道のようです。
左岸下流側から楽に降りることができました。
径間約13m、環厚63cm、おそらく四国一の大きさではないかと思います。

35 北の川口橋

北の川口橋は、四万十川の支流北の川に架かる橋で、この橋に平行して走っている国道381号線の旧国道橋である。高知県では、明治18年に道路百年の大計が立てられ、明治30年頃から工事が始まった県道窪川宇和島線の橋梁として建設された。
この橋は大正中期に建造された石造りのアーチ橋で、施工は高知県安芸郡の石工である堅田一族という説と、伊予の石工によるという2説がある。窪川宇和島線は、昭和50年に国道381号線となり、以後、国道橋として四万十川の上・下流域、県境を越えて宇和島間との流通・往来に大きな役割を果たした。北の川口橋は、四万十川中流域の流通・往来と道路建設の歴史を理解するうえで貴重な建造物で、国の登録文化財に指定されている。

架橋年度 大正中期
路線名 町道
周辺環境 地勢:山地
通行 車輌通行可
代替橋の有無 有
橋長・幅員 石造アーチ橋 橋長18m 幅員3.4m 脚部間15m