金剛福寺 高知県土佐清水市足摺岬
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金剛福寺
金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。宗派は真言宗豊山派 。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、刀の石、亀呼び場、竜橙の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。
本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:ふだらくや ここは岬の 船の棹 取るも捨つるも 法のさだやま
沿 革
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。
歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる[1]。
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
境 内
山門を入ると左手に弁財天、不増不減の手水鉢、鐘楼がある。右手の納経所を過ぎ、正面奥に本堂が建てられている。本堂より右のほうに不動堂、多宝塔があり、その先に和泉式部の逆修塔がある。本堂左手の池の畔を行くと愛染堂、権現堂、行者堂があって大師堂に至る。本堂前の池の前には奉納された所願成就の亀の像が安置されている。