練習用」タグアーカイブ

諏訪神社にある福田清人句碑の「岬道」は

イメージ 1

イメージ 2

諏訪神社にある福田清人句碑の「岬道」は

諏訪神社の拝殿右奥となる斎館諏訪館(諏訪荘を移設復元した建物)の前に、「岬道」と歌った土井首ゆかりの文学者、福田清人氏の句碑がある。
”岬道 おくんち詣での 思い出も”

この碑にある「岬道」や、作品「岬の少年たち」などの「岬」とは、氏が少年時代を過ごした長崎半島のまだ中間「土井首」の地の思い出をいっており、「みさき道」の厳密な意味の「みさき(御崎)」とはならないようである。
句碑左下の建立説明碑文は次のとおり。建立年月は書かれていない。

福田清人は農と陶の里長崎県波佐見に生まれたが、長崎の港を抱く岬、土井首磯道に少年の日を過した。岬をめぐる長崎一帯の風土と歴史は、深く心に刻まれて、文学の原郷となり、「岬の少年たち」「春の目玉」「天正少年使節」など国の内外に顕彰された数々の名作を生んだ。…
俳句をたしなみ主宰する無月句会が発起して、郷土の先人、向井去来の句碑を諏訪神社境内に建てたゆかりもあって、同神社の厚意により、その文学を偲ぶ碑を建て、半世紀を越える文業を讃えるものである。
社団法人 日本児童文芸家協会 理事長 西沢正太郎

なお、福田清人氏は土井首で育った思い出を「春の目玉」という作品として出版、国際的な児童文学作品に贈られるアンデルセン賞を受賞している。他に「秋の目玉」という作品もある。 

四郎ケ島台場跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

四郎ケ島台場跡

長崎港の入口、長崎市神の島町の先端の島にある。平成19年4月28日に実施した長崎学さるく「長崎の古台場と珍しい標石めぐり」配布資料による説明は次のとおり。
なお、文化庁平成14年度「近代遺跡(戦跡)の所在調査一覧」「近代遺跡の調査等に関する検討会」544件→50件に、長崎県では、「四郎ケ島砲台」「旧佐世保鎮守府防衛砲台群」「対馬の砲台群」が3箇所が選定されている。

12 四郎ケ島台場跡
文化5年(1808)のフェートン号事件で大失態を演じた佐賀藩では、寛永6年(1853)に藩の総力を挙げて佐賀藩独力で四郎ケ島に最新鋭の台場を完成させた。
工事は神ノ島と四郎ケ島とを繋ぐ約150間(約270m)の堤防造りから始まった。
非常な難工事の末、寛永4年7月に二つの島を繋げると、今度は四郎ケ島を石垣で囲み砲台場を築いた。大砲は佐賀で鋳造し、四郎ケ島に150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンドと12ボンド砲を各2門の計14門を備えた。さらに、佐賀藩では神ノ島と伊王島にも台場を築き、合計54門の大砲で長崎港口を押さえたのである。
ちなみに、国指定の史跡で、当時最も装備が整っていた魚見岳の3つの台場には1貫5百目砲2門、1貫目砲5門、8百目砲3門、7百目砲2門、6百目砲1門、5百目砲5門、3百目砲4門の計22門が備えられていた。12ポンド砲が2貫5百目砲とほぼ同じであったから、魚見岳台場が四郎ケ島と比べるといかに玩具のようなちゃちなもので、四郎ケ島台場の大砲が最新式で飛び抜けた威力をもっていたかがよく分る。

三川の屏風岩・薬師如来

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

三川の屏風岩・薬師如来

江越先生の平成18年7月12実施、西山街道歴史散歩「大村藩殿様道A(洗切〜川平〜西山口)」資料による説明は次のとおり。

5 屏風岩・薬師如来
…三川の谷に下ると、左手に三川渓谷の番人のような大岩壁が聳え立っている。この岩壁を屏風岩とか人間岩とか言い、岩壁の根元に薬師如来のお堂があり、岩壁には薬師如来の像が彫られている。
郷村記には、この薬師如来はもともと浦上家野村の岡本というところにあったが、延宝5年(1677)にこの地に遷座したとある。なお、岩壁の如来像の近くに「元禄15年(1702)午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」と刻まれているのは、この如来像が彫られたことに関するものであろう。

なお、「元禄十五年午正月 願主長崎大井手町原賀利兵衛」の刻は、如来像堂の左外の野外岩面に○をして中に刻まれている。屏風岩の右方には乳首の形をした下乳首岩があるらしいがわからなかった。
また、このお堂の登り口は、JR長崎本線「長崎トンネル斜坑入口」となっており、列車の通過音が聞こえ、冷風が来る。

東望山砲台跡 市指定史跡

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

東望山砲台跡 市指定史跡

長崎市田中町にある。現地説明板は次のとおり。山頂には三角点42.3mもあった。

長崎市指定史跡 東望山砲台跡
東望山砲台は明治維新のころ(1868ころ)に設けられた最も新しい形式の砲台で、円形台座は直径3.6mである。
長崎周辺の台場跡で台座が残っているのは珍しい。大砲の形式ははっきりわからないが佐嘉藩屋敷から搬入されたという。

長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎港口神崎鼻の「神崎旧台場跡」の現況

長崎港の港口、女神の対岸となる神崎鼻の突端は、承応2年(1653)最初に築かれた「神崎旧台場」の跡となるが、明治初期からはライジングサン石油会社などの所有地(英字境標石が数本残る)となり、現在は「JF全漁連長崎油槽所」の石油タンクが建ち並び、普通は立ち入り禁止である。

長崎の幕末・明治期古写真の撮影場所探しがあり、今年の3月許可を得て中に立ち入らせてもらった。ついでに台場の遺構がないか見てまわった。なかなかお目にかからない場所なので、現況を写真によって紹介する。

小瀬戸遠見番所と中ノ番所跡・注進船係留杭

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 長崎市西部、みなと坂団地の「船の公園」内にある説明板は、次のとおり。

小瀬戸遠見番所跡

江戸時代の長崎は、わが国で唯一オランダや中国との貿易港でした。小瀬戸遠見番所は、長崎港に来航する異国船を警備するため、元禄元年(1688年)に設置されました。遠見番所のほかに中ノ番所や不寝番所も建てられ、遠見番所は平日2人が昼夜勤務しました。
異国船入港時の連絡方法は、当初「白帆注進船」と呼ばれた船でしたが、この番所の設置によって旗を掲げる方法が併用されるようになりました。野母の権現山→小瀬戸→十人町→観善寺(のちの永昌寺)の各番所にリレーされ、長崎奉行所立山役所に報告されました。
平成5年に小瀬戸番所跡の発掘調査が実施され、遠見番所跡から当時の屋根瓦や陶磁器片などが出土しました。

なお、みなと坂の中腹となる中ノ番所跡は、現在「天神天満宮」が祀られ、この古祠の右内壁に「長崎遠見番中 家内安全 御水主中」の刻みが残っている。注進船係留杭は長崎市小榊支所裏手の駐車場内に、昭和63年移転して設置されている。

野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

野母崎変はんれい岩露出地 県指定天然記念物

現地説明板の記事のとおり。(オリジナルのサイズの画像で見るためクリックする)

黒浜トンネル海岸側「網掛岩」から以下宿「夫婦岩」、野々串にかけて約4kmの海岸に見られる。九州最古と言われる珍しい岩の露出地である。同じものは長崎港口の鼠島(皇后島)にも見られる。

みさきの観音  脇岬の観音寺

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

みさきの観音  脇岬の観音寺

長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編「歴史散歩(42)長崎県の歴史散歩」山川出版社2005年から一部修正引用

観 音 寺(37)  国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844 長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分

長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の遠見山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者が多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から長崎半島の山などを南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道部落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄航し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵比須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。