女神検疫所境の標石
女神検疫所は明治13年(1880)開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをした。前身は「消毒所」といわれる。この検疫所の当時の敷地境界を示す標石が、国指定史跡「魚見岳台場跡」の中に5本ほど残っており、北側の女神台場跡にも1本見られる。寸法は15cm角、高さ52cm。
女神検疫所境の標石
女神検疫所は明治13年(1880)開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをした。前身は「消毒所」といわれる。この検疫所の当時の敷地境界を示す標石が、国指定史跡「魚見岳台場跡」の中に5本ほど残っており、北側の女神台場跡にも1本見られる。寸法は15cm角、高さ52cm。
四建三角点・・・四郎ヶ島東側の小島
神の島の突端から海道を渡ると佐賀藩が築いた「四郎ヶ島台場跡」である。西側が四郎ヶ島で、東側には2つのピークがある小島がすぐあり、この間も埋立て台場としている。
小島の左の低いピークに「長崎要塞第一地帯標 第二号」を見つけたので、念のため手前右の高いピークの方へも登ってみたら、小さな標石「四建三角点」があった。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため当時の建設省第四建設局が設置した三角点と思われる。
林郁彦氏と長崎医学伝習所「養生所跡」碑
『長崎談叢19輯』(昭和12年発行)に収められた林郁彦稿「維新前後における長崎の学生生活」(21〜22頁)に出てくる関寛斎「長崎在学日記」の紀行によって、「みさき道」が解明できることとなった。林郁彦氏とはどのような人か。
この人の名は、昭和13年「長崎市史 地誌編 名勝旧跡部」補遺「養生所跡記念碑」の項、及び昭和12年「長崎観光会史跡案内誌」に名前があり、2資料から判明したのは、長崎医科大学長だった林郁彦氏は、小島養生所の史跡滅失を危惧し、記念碑建立に尽くし、碑名に筆を取った一方、長崎観光会の会長として活躍された人だったということである。
碑の写真は佐古小学校の校庭に入れてもらって撮った。「長崎市史」に記した当時の碑から、1957年秋「西洋医学教育発祥百年記念会」が建てた新しい碑に変わっていたが、たしかに「郁彦」の名があった。
脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十町」の道塚はなにか
長崎から行くと、脇岬海岸に出た角のガソリンスタンドから、200mほど国道を行った崖の擁壁の石段上にこの道塚はある。
「従是観音道」「山道十町」。元禄十年(1697)建立の刻銘がある大きな石柱だが、敬建願主がだれかわからない。今魚町が建てた観音寺境内の「道塚五十本」の天明四年(1784)より、年代は87年遡る。
道塚の意味は、野母まで船や歩いて来て、この場所までは海岸沿いに道は来られたが、「これから断崖を捲くため山道となり、観音寺まで約1kmある」という道塚と思われる。ここに海に突き出た大きな断崖があったことは今でもわかるし、明治地図にも表われている。
この山道は佐賀藩が作製した御崎村地図に描かれ、今の字図でも赤道として残っていた。そのルートは、道塚からクリーンセンター下の給水タンクまで上がり、横に同じ高さくらいで沢を2つ跨ぎ、海水浴場手前の稲荷神社参道口に出る道である。この先は国道を少し行きすぐ左へ広い畑の畑道に入り観音寺に達する。
道跡を探しに現地を踏査したが、寸断しながらも道は残り、不明の所も暖竹が境目となってなんとなくわかる。崖を捲くと言っても、最低限であろうし、山道がすべてでない。この道は、戦後も海が大荒れの日や海岸道が決壊したとき使われたようである。
このあたりの字は「矢戸」と言って区域が広い。脇岬の人が言う「矢戸越し」は、稲荷神社の道からクリーンセンターを越し出口集落に出て長崎へ行く道のようである。従って一部区間は観音道と重複している。海岸埋立ての進捗によって、観音道の出口=矢戸越入口は、少しずつ変わっている。
外国人居留地跡内の変わった珍しい標石
画像上から
① 「1928」「USA」 活水大学オランダ坂登り口、長崎三一教会の角。前アメリカ領事館跡。
② 「水 準 点」 長崎全日空ホテルグラバーヒル手前、自動販売機の裏
③ 「陸 軍」 長崎海洋気象台前。あと1本道路反対側の先、駐車場角にある。(下記のとおり修正)
④ 「大北部電信会社」 前浪の平小学校裏手のプール坂登り口
⑤ 「大 浦 橋」 石橋の横断歩道手前 昔の橋の欄干
脇の碑に「寄附者 大浦郷 林増五郎 村川勝太」
(2016年7月3日修正)
③の「陸 軍」標石は、掲載写真の間違いがあったので修正する。
長崎海洋気象台(現在は「長崎気象台」と名称変更)前のは、⑥、道路反対側の小曽根邸のまだ先、駐車場角にあるのは、⑦、グラバー園東ゲート横に移設展示されているのは、⑧となるが、⑦については、現在、この駐車場に家が建ち、撤去されたか所在不明であると聞いている。
外国人居留地跡の南山手界隈標石スナップ
外国人居留地跡の南山手界隈標石スナップ。自分で歩いて探してみよう。
萬延元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」(三和公民館蔵)
長崎医学伝習所生の関寛斎「長崎在学日記」の脇岬観音詣では、文久元年(1861)4月3日から4日にかけての紀行記事である。
佐賀藩深堀領であった長崎半島の他村の絵図は、長崎県立長崎図書館の史料にあったが、蚊焼村がわからなかったところ、三和町中央公民館(長崎市合併前の当時)展示ホールに郷土資料として展示されていることがわかった。
萬延元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」である。複写ものかA3サイズの小さな絵図である。原図がどこにあるかわからない。当時の村の様子と道がわかる貴重な絵図である。萬延元年(1860)は、ちょうど関寛斎の一行が旅した文久元年(1860)の前年に作成された地図となる。
大籠村との村境から「みさき道」をなぞると、補正した黄線のとおりとなり、岳路上の高浜村・川原村境までほとんど現在歩く「みさき道」のそのとおりの道となっている。
平山台から晴海台にかけての団地上の県道が、ほぼそのままの道を利用して作られていることが良くわかり、蚊焼茶屋と蚊焼峠の判断にもこの絵図が役立った。
長崎手帖1963(昭和38年)の「碑のある町」うつろい
”碑のある町 孤独な碑はささやく 片隅にいるのですから 少しでも長生きさせてください”
長崎手帖社「長崎手帖 第三十二号」昭和38年6月発行の田栗奎作氏稿「碑のある町」の書き出しである。カメラは春光社当時のご主人真木満氏で、次の5つの碑の43年前の姿を写している。
・居留地境の碑 ・みさきみち ・諏訪神社境界碑 ・筑州建山の碑 ・恵比須神社の碑
私は若いころ田栗氏と多少面識がある。なつかしさを感じ、今度は私がこれらの碑を訪ねることとした。東京オリンピックの開催や東海道新幹線の開通した前年の写真である。
黒岳の「みさき道」と同じような幟立石が、式見矢筈岳にもあった
神社の鳥居の脇に、大祭や縁日に神社名など染め抜いた幟(のぼり)を立てる「幟立石」または「棹立石」という石柱をご存じであろう。これが神社にあればわかるのだが、人里遠く離れた別々の山の中に2本、目にした。
1つは、脇岬観音寺参り「みさき道」コース上にある。黒浜ダムの上の山は、我々は「黒岳」(標高243m)と呼んでいるが、文献による正式な名は「石コロバカシ」と字名もある。「みさき道」はこの山の脇を行く。20年位のヒノキの植林地で、木が石に食い込んでいる。
川原の浦里先生(三和史談会)は、「戦前、香焼の川南造船所が高い棹を立て、新造船軍艦の1マイルテストをした目印でないか」と考えられている。ここまでは納得できそうな見解だった。
ところが平成18年1月20日、長崎半島と遠く海を隔てた西彼杵半島、式見の「あぐりの丘」矢筈岳(標高336m)の山腹道で、全く同じような石柱を見つけた。佐世保高橋氏と「長崎要塞区域標」を調査していた時のこと。市式見支所が地元の人へ聞き込み、ここに何か石柱があると教えてくれた。確認のため探しに行ったら、この石柱であった。
黒岳の石柱は、25×15×50cm。刻みの字や方角は何もない。紐を通す2穴あり。矢筈岳のも全く同じで、寸法が少し大きい。
「式見郷土史」によると、この道は畝刈からの「式見往還道」。次のように記す。
”畝刈村たいら坂(畝刈よりは、くえの平という)籠立場より、むれ木溝川、むれ木峠、こふり川、はへの迫小川を経て、箱石峠まで一八町一六間(約1922米)…”
地名がどこを指すのかわからないが、石柱はちょうどこの道の中間地点くらいの場所にある。海はほとんど望めない。
浦里先生に報告すると、石柱は黒岳と同じものと考えられるが、先生自身この考え方には何の資料等根拠がなく、困っていると洩らされた。
豪華客船ダイヤモンドプリンセスの例に見られるように、最近でも三菱長崎造船所の新造船は、この海域や五島灘で試運転が行われている。速力試験は風向や潮流の影響を平準化するため、同じ海域を往復することによって、同じ出力の計測を何度も行う。
ハイテク時代、最新計器が定点を決定するはずであり、何もこんな目印が必要と考えられない。三菱重工史料館に聞いてもわからなかった。
この石柱で考えられるのは、他に地図測量・気象観測また長崎要塞区域などに関するものでないかということである。2つの石柱の地点を結べば、経度は垂直とならない。あえて探せば、標高200mくらいで同じようである。
測量史研究の京都上西氏に写真を送ったが、全国の他の地域で同じようなものが出てこない限り、何とも言えないとのことであった。
調査はここでプッツリ途絶えている。誰か知っている人がいれば教えてほしい。村境でない。牛馬をつないだ単なる石とは考えられない。
新小が倉と小ヶ倉にある「従是南佐嘉領」の藩境石
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅢ 長崎の史跡(歌碑・句碑・記念碑)」平成16年の97頁による説明は次のとおりである。
125 領境石・従是南佐嘉領(所在地:新小が倉1丁目1番25号)
126 領境石・従是南佐嘉領(所在地:小ヶ倉町1丁目62番地)
佐賀藩の領境石で、これらの石碑の南側は佐賀藩(深堀鍋島家)領であった。深堀鍋島家は、建長7年(1255)戸町浦の地頭として下向した深堀能仲を祖とし、以来、この地を領したが、江戸時代の18代純賢は、佐賀藩の家臣となり、鍋島茂宅と改名した。以来、同家は6000石を領し、佐賀藩の家老職を代々勤め、幕末・維新に至った。
(注)
125の標石は、小が倉バイパス「新戸町団地」バス停から入ったところにある。「みさき道」の道筋となり、原田パイプ工作所の角に建っている。
なお、この標石は昭和49年12月刊、中尾正美編「鍋嶋藩深堀資料集成」の巻頭頁に当時の写真があるので転載した。昭和58年刊、古賀敏朗著「くにざかいの碑ー藩境石物語」によると小ヶ倉バイパスの工事中、ショベルカーが掘り起こした新聞記事を紹介しているが、そんな乱暴な工事をしたのだろうか。小ヶ倉の年配の人は、標石の存在と位置を覚えており、位置はそんな動いてないと聞いている。
126の標石は、女神海岸通りの「白崎」バス停から小峰商店脇の坂段を登りつめた松尾満平方の石垣に埋め込まれてある。
(画像は、雨後で石垣から水が浸たっているため黒くなっている)
いずれの標石も深堀・小ヶ倉方面への藩境の道筋にあり、別稿の記事「大久保山から戸町岳に残る藩境塚」で見たとおり、長崎歴史文化博物館の史料から、建立は天明7年(1787)ころと思われる。